第40話
陸翔は茜音を助手席に座らせると、シートベルトを確認する間もなくスマートホンを取り出した。
「田口、俺だ。今日この後のスケジュールは全部キャンセルしろ」
一拍も置かず、低い声で続ける。
「俺から連絡するまで、俺には一切つなぐな」
電話口の向こうで田口が何か言いかけたが、陸翔はそれを遮るように通話を切った。
「……陸翔、何を言ってるの」
茜音が思わず声を上げる。 その声には、驚きと警戒が入り混じっていた。
「今は仕事より、茜音のほうが大事だ」
断言だった。 迷いも、ためらいもない。
陸翔はそのままエンジンをかけ、車を発進させた。
車内には、奇妙な沈黙が落ちた。 ラジオも、ナビの音声も切られている。
聞こえるのは、エンジン音と、二人の呼吸だけ。
茜音は窓の外を見つめていた。 何か言おうとして、やめたような横顔。
陸翔はそれを横目で見ながら、ハンドルを強く握る。
——離したら終わる。
その考えだけが、頭の中を支配していた。
やがて車は、見慣れたマンションの地下駐車場へと滑り込んだ。
エンジンを切った瞬間、茜音の視線が一点に留まる。
陸翔の車の隣に停められている、赤いスポーツカー。
「……」
懐かしさが胸を突いた。 自分の車。 自分の生活。 置いてきたはずの場所。
陸翔は車を降り、助手席側へ回るとドアを開けた。
「……降りて」
命令ではないが、有無を言わせない声だった。
茜音は一瞬ためらったが、結局、何も言わずに車を降りた。
陸翔はその手首を掴む。 強くはないが、確かに逃がさない力。
地下駐車場からエレベーターへ。 無言のまま、二人は並んで立つ。
扉が閉まり、狭い空間に二人きりになる。
陸翔は、ずっと茜音の手を離さなかった。
「……話をするなら、別の場所にしよう?」
沈黙に耐えきれず、茜音が言う。 声は低く、懇願に近い。
「だめだ」
即答だった。
エレベーターが止まり、扉が開く。 見慣れた廊下。
一瞬、茜音の足が止まった。
その躊躇を見逃さず、陸翔は一瞥だけ向ける。 だが歩みは緩めない。
鍵が回る音が、やけに大きく響いた。
「陸翔……」
茜音の声が、かすれる。
返事はない。 ドアが開き、陸翔は茜音を中へと導いた。
——足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が肌に触れる。
カーテンはすべて閉め切られ、 昼間だというのに、部屋の中は薄暗かった。




