第35話
翌日、茜音は弁護士事務所を訪れた。
いつもより少し早めの時間だったが、応接室にはすでに櫻井が待っていた。
「お疲れさまです。……話し合いは、どうでしたか?」
湯のみを差し出しながらの問いかけに、茜音は小さく首を振った。
「……話し合いは、できませんでした」
静かな声だった。
「……どうしてですか?」
「急に仕事の件で呼び戻されたので。そのまま、席を立ってしまって」
説明しながら、茜音は小さく息を吐く。
昨日の光景を思い出すこともなく、ただ事実として口にした。
櫻井は一度頷き、ペンを手に取った。
「……他に、何かありましたか?」
少し間を置いてから、茜音は覚悟を決めるように言った。
「先生。実は……私、妊娠しました。今、九週です」
一瞬、櫻井の動きが止まった。 そして、静かに息を呑むのが分かった。
「……差し支えなければ、お聞きしても?」
「父親は……陸翔です。私の、夫です」
「……ご主人は、そのことをご存じですか?」
茜音は、ゆっくりと首を横に振った。
「……まだ、伝えていません」
櫻井はしばらく黙って考え、慎重に言葉を選ぶ。
「率直に申し上げますね。ご主人が、親権を主張してくる可能性はあります」
茜音の胸が、わずかに揺れた。
「……離婚を引き留める手段として、です。ただ」
櫻井は続ける。
「茜音さんの場合、ご実家の支援体制も整っていますし、養育環境に問題はありません。裁判所がご主人側の単独親権の主張を認める可能性は、正直低いでしょう」
「……そうですか」
「ただし」
櫻井は視線を上げた。
「実の父親である以上、面会や交流を求めてくる可能性は高いと思われます」
——この子にとって、父親であることは変わらない。
茜音は、その事実を否定しなかった。
自分の感情とは切り離して、理解し、受け止める。
「……この子が、望むなら。面会や交流を、私が拒むことはできません」
小さく、しかしはっきりと頷く。
「今後、離婚に関する話し合いは、すべて櫻井先生に一任します」
茜音は姿勢を正した。
「離婚に応じていただけるのであれば、慰謝料も養育費も求めません」
櫻井の眉が、わずかに動く。
「……子供のことは、安定期に入ってから伝えていただけると助かります」
一つひとつ、条件を並べる声は冷静だった。 感情ではなく、判断として。
「承知しました」
櫻井は即座に答えた。
「……それと」
茜音はバッグから、小さな封筒を取り出した。
白く、厚みのあるそれを、机の上にそっと置く。
「これを……あちらに渡してもらえますか?」
「差し支えなければ、中身を伺っても?」
「結婚指輪と、婚約指輪です」
一瞬、言葉を切ってから続ける。
「家を出るとき、陸翔が買ってくれたものは、ほとんど置いてきました。でも……これは、持ってきてしまって」
指先が、わずかに震える。
「……これを返すことで、私の気持ちは変わらないということも、分かってもらいたいんです」
櫻井は無言で頷き、封筒を受け取った。




