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第34話

翌日、茜音は春奈に連れられて産婦人科を訪れた。

白く静かな待合室は、昨日までいた世界とは切り離された場所のように感じられる。


診察室に呼ばれ、ベッドに横になると、医師が慣れた手つきでエコーを当てた。


「これが赤ちゃんですよ」


モニターに映し出された小さな影を、医師が指さす。


「ほら、動いているでしょう。これが心拍です。音も聞こえますよ」


機械から流れてくる、早くて規則正しい音。

そのリズムを聞いた瞬間、茜音は胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。


——ああ、本当に、生きている。


「今、九週ですね。しばらくはつわりが残るかもしれません。無理はしないでください」


医師の説明を聞きながら、茜音は手元に渡されたエコー写真を見つめていた。

白黒のその一枚が、これほど重い意味を持つものだとは思わなかった。


(……本当なら、お父さんとお母さんで迎えてあげたかったけど)


心の中で、静かに語りかける。


(お母さんしかいなくて、ごめんね。でもね、生まれてきたら、おじいちゃんもおばあちゃんも、伯父さんも伯母さんも、みんなあなたを愛してくれる)


(だから、安心して。無事に、生まれてきて)


診察室を出たとき、春奈がそっと微笑んだ。


「元気そうで、よかった」


茜音は言葉にできず、ただ小さく頷いた。


その日の夕方、茜音はピアノの仕事のため、ホテルを訪れた。

レストランの片隅に置かれたグランドピアノの前に座り、鍵盤に指を置く。


久しぶりの感触だった。 音が、空間に静かに溶けていく。


フロアマネージャーは、少し離れた場所で、何も言わずに耳を傾けていた。

最後の和音が消えたあと、ゆっくりと近づいてくる。


「ありがとうございました。ぜひ、お願いできますか?」


その一言に、胸の奥がふっと軽くなる。


「今募集しているのは、ディナーの時間帯です。十八時から二十一時までの三時間。日曜から火曜までの三日間ですが、大丈夫でしょうか?」


茜音は、迷わず頷いた。


「……あの、ひとつだけ。言っていなかったことがありまして」


言葉を選びながら、続ける。


「私、妊娠中なんです」


マネージャーの目が、少しだけ見開かれる。


「たぶん、長くは続けられないと思います。それでも……」


少し考えたあと、マネージャーは穏やかに言った。


「大丈夫ですよ。体調に配慮しながらで構いません」


その言葉に、茜音は深く頭を下げた。


次の日曜日からの出勤が、その場で決まった。


家に戻り、夕食のあとで両親にバイトのことを話すと、母が驚いた声を上げた。


「バイト? あなた、妊娠中なのよ。それなのに……」


心配するのも当然だった。


「この子のためにも、自立しないといけないの。出産したら、改めて仕事は探すつもり」


母は首を振る。


「あなたとお腹の子くらい、うちで世話できるわ。お父様だって、春奈さんだって、そう言うはずよ」


それでも、茜音は静かに否定した。


「離婚して、この子を育てるって決めたんだもの。母親として、ちゃんと向き合いたい」


一呼吸置いて、続ける。


「この子に、まっすぐ向き合える母親になりたいの」


その横顔は、もう迷う娘のものではなかった。

茜音は、確かに“母親の顔”をしていた。

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