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第33話

その夜遅く、兄・啓介の帰宅を待って、改めて話し合いの場が設けられた。

場所は実家のリビング。昼間の柔らかな空気は消え、外の闇と同じ重さが部屋に落ちている。


最初に口を開いたのは春奈だった。 今日、ホテルのレストランで起きたこと。

陸翔が席を立った理由。 そして、茜音の体調の変化と、妊娠の可能性。


余計な感情を挟まず、事実だけを丁寧に並べていく。

それがかえって、場の空気を引き締めた。


父は終始、腕を組んだまま黙っていた。

眉間に刻まれた深い皺は、政治家の顔ではなく、父親の顔だった。


「……子供がいても、離婚したいんだな?」


啓介が確認するように言う。 責める調子ではないが、覚悟を試す問いだった。


茜音は、言葉を重ねることなく、ただ頷いた。


「……私、ずっと子供には縁がないんだと思ってた。それでもいいって、本気で思ってたの」


一度、息を整えてから続ける。


「でも今は違う。この子が一番大事。この子を守りたい」


そう言って、そっと自分のおなかに手を当てた。

まだ何も感じないほど小さな命。

それでも、そこに確かに“守るべき存在”があると分かっていた。


「陸翔には……言わないつもりなのか?」


啓介の問いに、茜音は一瞬だけ視線を落とす。


「もし知ったら、私から取り上げるかもしれない。そんな人じゃないって、頭では分かってる。でも……」


言葉を探しながら、正直に続けた。


「たぶん、黙り続けるのは難しいとも思ってる。櫻井先生と相談しながら、伝えるタイミングは考えるつもり」


啓介は大きく息を吐いた。


「……陸翔は、その……本当に不倫をしているのか?」


その言葉に、茜音の脳裏に映像がよみがえる。 マンションの玄関。

パジャマ姿の陸翔。 そして、迷いなく彼に駆け寄った奈菜の姿。


「茜音……」


言いかけた啓介の声を、春奈が慌てて遮った。

小さく首を横に振り、これ以上踏み込ませないという意思を示す。


茜音は何も言わなかった。 否定も肯定もせず、沈黙を選ぶ。


「……両親がそろっていたほうが、この子のためだっていうのは分かってる」


茜音は、ゆっくりと言葉を置いた。


「でも、今の私と陸翔の関係じゃ……どうせ、うまく続かない」


その沈黙の中で、父が初めて口を開いた。


「……離婚の意思は、変わらないんだな」


短く、重い問いだった。


「変わらない」


茜音は即答した。 迷いはなかった。


「……こんな状態で、お腹の子は大丈夫なの?」


母が不安を隠さずに尋ねる。


「明日、きちんと産婦人科に行くつもりです」


そう言ったあと、春奈が続けた。


「不妊治療で通っていた病院にする?」


茜音は、はっきりと首を振る。


「あそこは……陸翔と一緒に通っていたから。違う病院にしたい」


少し考えてから、春奈が言った。


「じゃあ、真帆が生まれた病院にしましょう。設備も整ってるし、先生も信頼できる」


茜音は小さく頷いた。

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