閑話 しっかり者の女官は友人を心配する
お泊り会の時のアンリ視点です
風の冷たさが身にしみる、とある日のこと。
温石を膝に乗せ、王都の女官用宿舎の一室でまったりと過ごす一人の女官がいた。
仕事を早めに切り上げた後、珍しく出掛けずに部屋に戻ってきた少女、アンリである。
「うーん、どれから読み始めようかしら……」
友人におすすめされた本を並べ、見比べる。
あまり恋愛小説を嗜んだことがないのだが、とても面白いと数冊貸してくれたため、今夜にでも読んでみようと思い立ったのだ。
まずはと一冊手に取ったところで、静かに扉の開く音がした。
アンリが顔を上げると、本の持ち主でもある友人が、扉のそばでぼんやりと立ちつくしていた。
「メイメイ……?」
呼びかけてみたが、何やら深刻そうな表情をしていて、扉の前から動かない。
―――いつもの習慣で部屋まで足を進めたはいいものの、何か考え事で頭がいっぱいになってしまっていると言ったところだろうか。
本を置き、慌てて彼女のもとに駆け寄った。
「とっても顔色が悪いわ。どうかした?」
「……あ、アンリ。うん、ええとね……、その……」
そっと肩に手を添えて尋ねると、彼女はアンリのほうへ目を向け、その後で室内にきょろきょろと視線を巡らせた。
そしてふと肩の力を緩めると、もの言いたげに眉を寄せて、言い淀む。
今も少しだけ人見知りをする彼女は、どうやら二人きりの状態で相談したいことがあるようだ。
(その内容について、少し予想はできるけど……)
「……次にお休みが一緒の日、私のおうちに来ない? たまにはメイメイとゆっくり遊んでみたいわ」
困り顔のメイメイに微笑みかけると、彼女はようやく明るい表情になった。
誘ってくれて嬉しいと喜んでくれるので、こちらも声を掛けてよかったと答える。
(そういえば、メイメイと知り合って二年くらい経つけど、まだ家に招いたことがなかったわ……)
彼女の好む本では、年頃の女の子が仲良く家を訪問し合う描写があったらしく、それに憧れている様子だったので、いつか招きたかったのだ。
この休日がメイメイの悩みを解消し、楽しい思い出として残るといいと、しっかり者の女官は思った。
約束の日までの数日は平穏に過ぎていき、メイメイはアンリの生家を訪れた。
そこで彼女から明かされたのは、やはり例の美貌の役人に対して抱く複雑な思いで、弱りきった友人を見ていると心が痛くなった。
―――いつからか、予兆はあったのだ。
最初は皆と同じように、今よりはもう少し気安く憧れていただけなのかもしれない。
しかし彼の話を口にするたび、メイメイが彼に段々と心を傾けているのが伝わってきていた。
最近だと、ソユンの婚約者の有無について話題に出していた時か。
ただ不思議がって気になったというだけではなく、無意識だろうか、不安や拒否感のような色が、少しだけ透けて見えていたのだ。
憧れの人に恋人や婚約者がいると聞いたとき、それがたとえ完璧な相手だったとしても、なんだか気に食わないなんてことはあるだろう。
最初から手が届かない存在だと諦めてはいても、奪われたように感じることも。
程度の差こそあれ、そういった感情を抱くことは決して不自然なことではないが、メイメイの場合、それが少し切実そうに見えた。
おそらく、メイメイが初めて心を差し出そうとする相手がソユン以外ならば、もう少し気楽に背中を押すことができた。
(その相手がソユン様なのが、少し気がかりで……)
もちろん彼は多くの人が好意的な感情を抱くのも納得な、魅力あふれる男性だが、真剣に相手取ろうとするには、かなり厄介な質だとアンリは見込んでいる。
仲のいい異性の友人も、幼い頃からの婚約者もいるアンリは、もうその状態に慣れていて、あまり男性相手に浮ついた気持ちになることはない。
凄艶な美貌で名高いソユンの噂はアンリの生家にも届いており、そんな姿を拝むのをアンリは軽い気持ちで楽しみにしていたくらいだ。
それなのに、王都に来て偶然ソユンと一言交わす機会が巡ってきたとき、アンリはまず最初に、自分には親しい婚約者がいてよかったと心底思った。
決まった相手がいて、割と現実的な性格だという自覚があっても、揺らぎかねないほどの魅力を彼は持っていたからである。
類まれな美貌、女性慣れした細やかな気遣い、絶妙に心をくすぐる態度。
あるいは優しげに細められる目、親しみやすく微笑む口元、柔らかい声、品のいい所作。
その何かに心を掴まれてしまったら最後、底のない沼に引きずり込まれてしまうように、彼しか見えなくなってしまう予感があった。
自分から抜け出すなんて、きっと至難の業だ。
非公式でできた彼の親衛隊は、基本的に遠くから見守る主義で、直接対象と親しくする機会はほとんどない。
それはアンリのように、好ましく思っているけれど近づくには危険だと察し、敢えて心的距離を置こうとする層が、実のところかなりの割合を占めるからにほかならない。
遠くから鑑賞する分には安全だし、心も潤う。
先に眠ったメイメイのことを見つめながら、アンリは少しだけ物思いにふけった。
(今まっすぐにソユン様を慕っているメイメイは、その気持ちをどう育てて、どんな名前をつけるんだろう……)
憧れや親しみなら、これからも一緒になってはしゃげばいい。
恋心と名付けたとしても、それを物語のように楽しめるのであれば、いずれいい思い出になるだろう。
そんな風に収まるなら、今無理に気持ちを抑え込んでしまうよりよほどいいと思ったのだ。
しかし、あのソユン相手に本気で心を明け渡そうとしてしまったなら、もしかすると今よりもっと辛い思いをすることが増えてしまうかもしれない。
メイメイは身分差を気にしていたが、彼がその気になれば乗り越えられない壁ではない。
数いる親しい女性に関しても、もし仮に決まった相手ができれば、きちんと別れを告げて回るような気もする。
そもそも彼があんな風に色々な女性の間を渡り歩くのは、牽制の意味合いもあるだろう。
元々非婚主義と公言したこともある彼に、確実な将来を望んで傷つく女性が現れないように。
アンリが思うに、彼は優しく誠実な人だ。
彼がもし誰か特別な一人を作るなら、今問題だと思われる要素のすべては綺麗に解消されるだろう。
だから、つい夢見てしまう女性も、稀にいるらしい。
問題は、彼はおそらく誰かと添い遂げて家庭を築く将来像を、今後も全く描こうとはしないだろうということだ。
メイメイから話を聞き、これまで耳にした噂と照らし合わせて、アンリはとある可能性を胸に巡らせた。
彼の第一は王子殿下、その次が家族。
その軸がぶれることはないと、彼ほどの人が確信している。
(ソユン様は、きっと―――)




