ex-story5-3 Graffiti
〈さあ一生に一度の大舞台、3歳牡馬の頂点へ! 第9x回日本ダービー、スタートしました!〉
〈まずは予告通りにスタートダッシュを決めて先頭に立ったのはネオパンデミック、そこにブルーシュトルムが続きます。ダッシュを付けていくのはイセカイテンセイと唯一牝馬での参戦アクヤクレイジョウ。少し離れて先行集団は3冠牝馬フォアローゼスの息子ガンズアンドローズを中心に5、6頭〉
スタート直後、観客席からの歓声と喧騒が過ぎ去ると馬群の後方には静寂が訪れる。蹄の音と風を切る音以外には何も聴こえない中、淡々と自分のペースで進むそれぞれの馬と騎手たち。だが、その脳内には勝つための計算と執念がグルグルと渦巻いているハズだ。それはオレも同じ事。
先頭までどのくらいの差なら差し切れるか? どのタイミングで飛び出せばいいのか? この時期のサラブレッドは日ごと週ごとに成長が著しく前走から得たデータなど当てにならない中で、自分の馬がライバルよりも成長している事だけを信じて追い出しのタイミングを計る。まさしく濃い霧の中で光に手を伸ばすような感覚だ。だからこそダービーというレースは特別なのだと分かる。
〈後方集団はバラけての追走。3番人気のプラチナムシップはこの位置に居ました。さらにその後をピッタリ追ってブライトネスウィル。ここで先頭ネオパンデミックは1000mを通過、タイムは……なんと57秒5のハイペース!〉
悠々と単騎先頭を行く豪蘭の馬の1000m通過タイムが発表されるとスタンドからどよめきが起こり、馬群の中に居た馬たちにも動揺が走る。
通常であれば1000mを1分ちょうどから59秒台で回り、2400mを2分23秒台から24秒台で走り切るペースが普通になっている。それよりも早く決まったレースでも2分20秒台を切る馬は未だに出ていない。でももしネオパンデミックがこのペースでスタミナをほとんど切らさずに走り切ったとしたら……それすらも上回るタイムでの決着になってしまう。
レース前の記者会見で豪蘭はネオパンデミックならそれが可能だと、スタートからゴールまで誰にも追いつけないスピードで勝てる馬だと豪語していた。だがそれが本当か大言壮語なのかは誰にも分からない。とはいえ誰もがそれを警戒しているハズだ。
〈先頭ネオパンデミックは10馬身近くのリードを保って残り1000m標識を過ぎて第3コーナー、さあここで先頭を捕えに動いたイセカイテンセイとガンズアンドローズ! 釣られて先行集団もペースを上げて、ここまで単騎の2番手だったブルーシュトルム川原風雅は集団馬群の中。後方の馬群も徐々に動き出しているぞ!〉
全くペースを緩めない豪蘭に痺れを切らした様に、中段の馬群に居る馬と騎手たちが一斉に動き出して均衡が崩れる。それは春の雪解けとともに雪が雪崩となって麓に押し寄せる光景をイメージさせるような勢いだったが、その中に在っても違う空気を纏った馬と騎手が居る事を、オレは見逃さなかった。
後ろの動きなどお構いなく淡々とペースを刻み続ける豪蘭たち。それは激しく自らの芯を燃やし続けて暗闇に光を放つ一本の蝋燭をイメージさせる。
周りのペースには惑わされず、そんな豪蘭の馬と同じ距離差を保ち続ける川原さんは、ギリギリの間合いで蝋燭の先端を断とうと構える居合いの達人のような佇まいだ。
そしてまだペースを上げずに俺の斜め前を行く優馬は、ギリギリと引き絞った弓からギリギリで届く矢を放とうと構えているかのよう。この騒乱の中で3人だけが、明らかに異質な輝きを放っているようにオレの目には映った。
「……行かないのか? 俺は先に行くぞ」
振り向きもせずにそう告げると一気にペースを上げて動き出す優馬。ここからゴールまでの距離は約1000m、それをトップスピードで走り切れる自信があるのだろう。カーブの内側から先行する馬群を見れば川原さんもジリジリとにじり寄るように馬群の前側へと速度を上げ始めている。
果たして何処で飛び出すべきか思考を加速させていく中で浮かんだイメージは去年の夏、新潟2歳ステークスを勝った時の末脚。この東京競馬場と同じ左回りのカーブを抜けて、長い直線を突き抜けた時の感覚に成長した今のウィルの走りを加算していく。それと……あの悪夢だったリブライトとの青葉賞で一瞬だけ感じる事の出来た、時間が止まってオレとリブの間にある境界も曖昧になって全てが一体になったようなあの感覚。それをこのレースで再現できるポイントがあるとすれば……
「ここだっ! 行こう、ウィル!」
残り800メートル。リブライトとダービー出走を迎えられていたら、そこで発揮するはずだった末脚を。凱旋門賞で起死回生の一手として全身全霊で発揮させた、あの一体になる感覚を。リブライトがターフを去ってから燃え尽きたように過ごした、鬱積した感情の全てを。新潟2歳ステークスで掴むことのできた、永らく忘れかけていたあの感覚を。
今ここで爆発させる。
〈いよいよ最後の直線、東京525メートル! 逃げるネオパンデミックに1番人気ブルーシュトルムが迫る! 3馬身、2馬身! 後方からコーナーを駆け抜けてくる馬はどうだ!?〉
深く沈みこむように加速を始めたブライトネスウィルの首元に腕を回すように手綱を短く持って前傾姿勢になると、追うタイミングと四肢の駆けるリズムを合わせる事に意識を集中させる。コーナーの内側を駆ける馬たちを横目に追い越してコーナーの出口へ。
急な左カーブを曲がり切ると、目の前の視界が突然開ける。
この光景に戻ってくる事を何度も夢に見た時期もあった。実際にその場に立ってみて、掴むべき頂きの高さに絶望を突き付けられる日もあった。
でもそれも、ここへ辿り着くために必要な挫折や葛藤だったと思えば、全てに意味があったと思える。
〈残り400mを過ぎて……おっとここで足が鈍ったかネオパンデミック! それを悠々と躱してブルーシュトルム先頭! だがそこに後方から足を伸ばした2頭、3番人気プラチナムシップとさらに外から18番ブライトネスウィル! 3頭並んで最後のスパートをかける!〉
そこから先は、まさに夢の中に居るかのようだった。歓声も蹄の音も風を切る音も消え、馬を追っているハズの身体の感覚さえなくなって目の前の芝を進む視界だけになった感覚。その中に走馬灯のように幾つもの光景が蘇る。
リブライトと迎えた新馬戦、青葉賞で掴めたと思った感覚、苦難の末に菊花賞を掴み取った時の事。そしてラストランとなった有馬記念。それからG1の大舞台ではなかなか勝ちきれない日々を経て、この馬と出会えた日の事。
全ては、ここに繋がっていた。
〈プラチナムシップかブライトネスウィルか!? ここでブライトネスウィル! 父の想いが! その背中を知る加賀流星の執念が! 今まさに結実しました!!〉
高く腕を突き上げるとスタンドから大歓声が上がる。リブライトで立つ事の叶わなかったダービーから10年。他の馬と挑んだものの高すぎる壁に阻まれる事が9回。ようやくこの馬と、リブライトの残した最後の世代であるこの馬と大きな忘れ物を取り返すことができた。
「……お前の選択が正しかったな。おめでとう」
後ろから川原さんが言葉少なに肩を叩く。
「最後に争う事になるならお前しかいないと思ってたよ。純粋に悔しいけどな」
そう言って握手を求める優馬。
「加賀君! おめでとう!!」
輝希を抱っこしながらゴール板の前、客席の最前列から大号泣で叫ぶ光希。こういう時になるといつまで苗字呼びなんだよと失笑しそうになりながら、笑って手を振る。
これがオレの、騎手人生で一番最高だった日の記憶だ。
〈完〉
お読みいただきありがとうございました。これにて当作品、本当のラストになります。
ちなみに入りきらなかった設定で種牡馬になったリブライトのその後ですが、無敗のヨーロッパ最強馬オーギュストスタークにあわやの1馬身差まで迫った馬としてオーギュストスタークの馬主に目を掛けられ、日本で4世代を残して欧州での種牡馬生活をスタートさせました。なのでブライトネスウィルはリブライトが日本に遺した最後の世代という事になります。
機会と要望と書き上げる情熱があれば、さらにその後の話も書くこともあるかもしれません。




