40-04
囚われの身でありながら、括約筋がまともに機能していることだけで感謝すべきだ 04
さっきまでの羞恥心がクレインの頬にこびりつき、その熱さに地面に潜り込みたい衝動に駆られていた。だが、運命はその願いを聞き届けた――想像よりも遥かに歪んだ形で。
唐突に、猛烈な浮遊感が襲いかかってきた。それは足を踏み外した自由落下ではない。もっと不気味で、攻撃的な「排除」の感覚だ。
周囲の大気は無数の不可視の手となり、彼を押し潰し、引き裂こうとする。クレインは、世界から排泄された異物になったかのような感覚に陥った。空間の構造が、彼の駐留を拒んで悲鳴を上げている。
この感覚はあまりに馴染み深く、それゆえに恐怖を煽った。
意識の深淵で、塵に埋もれていた記憶が目の前の異変と共鳴する。初めてじゃない――思い出した。これは、絶対に初めてではない!
再び目を開けたとき、視覚が回復するよりも早く、嗅覚が絶望の降臨を告げた。
それが、遺失物に蓄していた穢の匂いだと、クレインはまだ知らない。
こびりつくような湿り気と、長年蓄積されたカビの臭いが、潮水のように鼻腔を満たす。ここの空気はひどく蒸し暑いが、気味が悪いほどに甘ったるい香りが漂っている。
クレインは胸腔を無理やり広げ、濃密な穢気の中から僅かな酸素を掠め取らねばならなかった。だが、肺に空気が入るたび、気管と肺胞は煮え滾る溶岩を流し込まれたかのような、焼け付く窒息感に襲われる。
世間にとっては四年前のこと――だが、クレインにとっては、つい「最近」まで出られなかった檻。
ここでは時間の感覚が曖昧だ。
だが、現状は四年前――あるいは数日前――とは決定的に違っていた。周囲を見渡したクレインは、あるはずの「魔力」が失われていることに気づく。
スパヴァデリアの話は嘘ではなかった。
彼と契約を交わした魔人の少年は、確かに強大な魔力の障壁を張り、彼を「穢」の侵食から守っていた。
だが今、その障壁はどこにもない。
クレインの心臓が跳ねた。狂ったように助けを呼ぶが、粘りつく空気の中でその声は数メートルも届かずに霧散する。恐怖が冷たい蛇のように背筋を這い上がった。
理由は単純、そして発狂するほどに残酷だ。
「彼ら」をここに閉じ込めた「あの者」は、同じ過ちを二度繰り返さない。
あの者の考えの中で、四年前の行動は焦って早まった結果に過ぎない――あの時は、クレインが魔人と契約を交わすことも、魔人の魔力が穢の中でさえ維持できるほど強大であることも、予想外だったのだ。
今回、あの者はその誤算を修正した。
二人の間に契約の鎖がある以上、クレインだけを閉じ込めても意味がない。だから、今回は魔人の少年もろとも、この深淵に引きずり込んだのだ。
魔人の加護を失ったクレインの皮膚には、不吉な火傷のような痕が浮かび始め、「穢」が毛穴から体内へと染み込んでいく。
彼は湿った地面に力なく膝をつき、朽ち果てた「何か」に指を突き立てた。溶岩のような空気が肺を痛めつける。静寂と甘ったるい闇の中で、クレインはようやく、海唯が言った「考えろ」という言葉の重さを理解した。
脳裏を埋め尽くすのは、後悔の念ばかりだ。
なぜ彼はスピリトについて来た? あいつはわざとやったんだ!
なぜ彼はあんなにお節介を焼いた? 海唯本人は気にも留めていなかったじゃないか!
なぜ彼はこんな目に? 魔王が殺したがっていたのは海唯だろう!
そんな思考が巡るたび、彼は自分自身に底知れぬ嫌悪感を抱いた。だが、何より嫌だったのは――ほんの一瞬でも「誰でもいいから、自分の代わりにここに残ってくれ」と思ってしまったことだ。
世界は静まり返り、聞こえるのは自らの断続的で無惨な呼吸音と、遠近を漂う「穢」の蠢く残影だけ。
意識が遠のきかけたその時、誰かが肩を軽く突くのを感じた。何かを囁かれた気がしたが、聞き取れない。意識を繋ぎ止めようと頭を振り、指を強く握りしめるが、身体は丸まったまま動かない。
その直後――クレインは襟首を掴み上げられ、迷いのない、鮮やかな一撃を見舞われた。
乾いた平手の音が響く。
!?
目を開いた瞬間、爆裂音と殺戮の咆哮と共に、火花が四方に飛び散る光景が飛び込んできた。
クレインは力一杯まぶたを閉じ、再び開ける。宙を舞うのは断肢残骸。ちょうどその時、誰かの手が彼の目を遮った。そのおかげで、彼は飛散する返り血がその手によって阻まれたことに気づかずに済んだ。
呆然と、その蒼白い手を辿って目の前の背中に視線を向けた。肩まで伸びた黒髪が狂風に乱舞している。身なりは細く、服はまるで身体に引っ掛けているだけのように心許ない。まるで――。
答えが出る前に、その人が横を向き、無表情ながらも不機嫌さを丸出しにした口調で隣の者に言い放った。
「アキレス・ザックウェーバー、雷が怖いって言ってなかった? 角族がいる戦場に何しに来たわけ? 寝る前の利尿作用にでも期待してんの?」
海唯!? クレインは、目の前で毒づいているのが海唯であることに気づいた。少し背が低いようだが、間違いなく海唯だ。
そして、海唯がそう言った瞬間、周囲で防御結界を維持していた者たちが一斉に驚愕して振り返った。皆、落雷結界で龍族から城を守り切った人が「雷が怖い」と言ったか!?という不思議な顔をしたが、あの二人の会話に割り込む勇気がある人は居なかった。
もちろん、今のクレインは彼らの表情の意味を知らない。彼はただ、隣で銀色の頭をわずかに垂らしている少年を見ていた。今、フルネームで「アキレス・ザックウェーバー」と呼ばれたのか? クレインは目を擦り、改めて彼を注視した。その目元には確かに面影が――。
アキレスは伏せ目で自分を罵る海唯を見つめると、彼女の指先をそっと握り、まるで甘える?ように揺らしながら言った。
「迎えに来た……」
アキレスの声もまた無表情で淡々としていたが、何故か……泣き寝入りを我慢している?ような雰囲気を出した……気がする。
「……ここはもう掃討戦だけだ。クインは、もう上がっていい」
「通信水晶って代物があるのを知ってる?」海唯はもう片方の手を服で拭いながら冷ややかに問うたが、握られた指を振り払うことはしなかった。
「……」アキレスは少し考え、こう返した。「希少物資だ。俺はまだ支給されていない」
彼がそう言った瞬間、周りの騎士はまた一斉に驚愕して振り返った。彼らはつい先ほどアキレスからの通信を受け取ったばかりだろう?
その者たちは、疑問を浮かべながらも、アキレスの淡々とした表情に圧されて黙って頭を振り返り、再び自らの任務に戻っていった。
「……」海唯はしばらくアキレスを睨みつけた後、今度はクレインの方を向いて言い放った。
「殿下、死にたきゃ他所で死にな。私の仕事を増やすな」
クレインは何が起きているのか全く理解できなかったが、海唯の険しい目つきに気圧され、素直に頷いて謝罪の言葉を口にした。
「ごめん、なさい……」
その時、彼は気づいた。自分の声が、まるで幼子のような、幼い響きに変わっていることに。
「!?」クレインは自分の両手を見つめ、それからパッと自分の顔を揉んだ。
そんな彼を、海唯はアホを見るような目で一瞥し、興味なさそうに転送陣の塔へと向かった。
「え!? 待て! 海唯!」クレインは勢いよく跳び上がり、海唯の後を追った。「どういうことだ!? なんで俺様がここにいる?ここどこだよ!」
「……」掴まれた服を見下ろしてから、海唯はクレインの頭に手を置いた。そして、不意にその髪を掴んで無理やり引き上げた。
元々クレインは海唯より少し背が低かったが、この訳のわからない世界では、顔を仰ぎ見なければならないほどの身長差になっていた。
その状態で、海唯は彼の髪を掴み上げたのだ。
「閉じ込められすぎて頭がおかしくなった?」海唯は淡々と告げた。「その肩書きがなかったら、両足を切り落としてやるところだったよ。クレイン・ハーディス殿下」
「え……?」
「お前の『優しさ』のおかげで――」海唯は掴んでいた髪を離すと、そのまま彼を塔の中へと蹴り込んだ。
「っ、い……!」壁にぶつかって止まったクレインは腹を抱え、狭まった視界から海唯を見上げた。「なんで?」と問いかけようとしたが、その言葉は喉の奥に引き戻された。
海唯は転送陣の中に立ち、人差し指で自らの服を引き上げた。舞台の幕を開くように捲られた衣の先。露わになった胸の真ん中には、「種」があった。
皮膚を引き絞り、毒々しい赤紫に変色した傷跡。それは心臓の鼓動を核として、腹部に向かって無残に開花していた。鋭い花びらの一枚一枚が、重力に従い、滴り落ちる血の雫のように下方へと這い、這い、深く抉れている。
それは単なる傷ではない。内側から何かが無理やり引きずり出されたような、あるいは呪いが皮膚を突き破って咲き誇ったかのような、「堕落」を湛えた美しくも悍ましい傷跡だった。
海唯が服を捲り上げると、すぐさまアキレスがその手を掴んで服を戻させたが、クレインは確かにその傷跡を目の当たりにした。
「――『フィー兄ちゃん』が生き残れた。良かったね」そう言い放った海唯は、より冷ややかな目でクレインを見下ろし、転送陣を起動させた。
***
暖かな陽光の下、女性は静かに座っていた。傍らに開いたまま置かれた本は、緩やかな風に吹かれてページがめくられていく。
風が止まったページには、「生霊ノ母」と呼ばれている神木を紹介する内容が記されていた。ちょうど「双生花」の絵図も載っている。
一つの種から、二つの花が絢爛に咲くという。
『知ろうとする人を待っています』女性は本棚の隣に立っている妖精に、前触れもなくそう話した。
『知ったらどうなります?』その妖精は適当に一冊の本を手に取り、中を眺めながら興味なさげに問い返す。
『選択をしてもらいます』女性は再び窓の外に目を向け、穏やかな天気を眺めるように答えた。『私には選べず、後回しにし続けていることを』
『っふ、大賢者さん、それは責任転嫁ということでしょうか? 』
『その通りです。スピリト・ファシノ閣下』
『おや、随分と潔く認めましたな。己の師と同じ道を選ばないということでしょうか? 人族であれば「不殺」の義務を課されてはいないはずですよね?』
『……それでも、師匠は私に「殺しの重みを背負わされないように」としてくれましたから。今さら自分から手を汚して、師匠の覚悟を台無しにするわけにはいかないのです』
『……馬鹿馬鹿しいですね』
『そうですね……。ですが、実を言うと、師匠がそうしてくれなかったとしても、私には選べなかったでしょう。結局、後回しにすることに変わりはありません』
『っふ! 貴方は、ディ・コルジャアダのことを美化しすぎですよ』
二人は会話を交わしながらも、決して互いを振り返ることはない。大賢者は枝に止まっている鳥を眺め、スピリトは『ネーフェの目録』を適当に読み流している。
その鼻先で漏らした笑いは、彼女の著作を笑ったのか、それとも彼女の答えを笑ったのか。
あるいは、その両方に向けられたものだったのかもしれない。
『そうかもしれませんね。では、その光は――』最後の一羽が羽ばたき、空へと飛び立った。その姿が光の中に消えるのを待って、大賢者はようやく言葉を継いだ。『――今度はいつまで輝けるのでしょうか?』
『……小生に聞かれてもねぇ。妖精族は、何も決められないのですから』
囚われの身でありながら、括約筋がまともに機能していることだけで感謝すべきだ 完




