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傭兵聖女  作者: 崎ノ夜
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39-SP:《逆行する時、彼の現実、彼女の幻覚》

 目に光のある中二病なんて、もう単なる精神病だ SP:《逆行する時、彼の現実、彼女の幻覚》


 つい先ほどまで、何百匹もの龍が一面の空を覆い尽くしていたはずだった。


 突如として訪れた異常事態に人々は身をすくませ、木の棒のように硬直してただ空を見上げていた。骨まで砕けそうな龍鳴りが一斉に響き渡ると、人々はようやく我に返ったように逃げ惑い始める。


 本来、それはそういう場面のはずだった。


 少女は揺れる地面を見つめ、一瞬、耳に飛び込んできた声を拾った。


『……なんで私なの……死にたくない……たすけて……』


 それは女性の声だった。


 地面の下から届いたかのような、か細い声だったが、少女には確かに聞こえた。


 その瞬間、先ほどまで逃げ回っていた人々は日常の姿に戻り、空を覆っていた巨大な影も消え去った。


「……」


 何が起きたのか?


 それを理解する間もなく、身だしなみの整った白いローブを纏う者たちが少女の前に立った。


 彼らは「ミネルディア教の使徒アポーストラ」と自称した。


「我らから離れるなと言いましたよね」


「君は『元の世界に帰りたい』のでしょう?」


「なら、ちゃんと我々の言う通りにしなさい!」


 唐突にまくし立てられ、少女は呆然としていた。「何を言ってる?」


 少女は彼らが差し伸べた手を見て、急に気がついた。彼女の両足には、いつの間にか枷がはめられていた。


「早く来い!」


「『帰りたい』だろう!」


 彼らは勝手に少女の腕を引っ張り、そう言い捨てながら転送陣へと踏み込んだ。


 その際、少女は全身がちぎれるような激痛を味わった。それでも彼女は歯を食いしばり、全身の力を振り絞って転送陣から這い出した。しかし、その先に待ち受けていたのは、さらなる窮地だった。


 豪華な屋敷が黒焦げになり、燃え盛っている。そんな中、少女は白いローブの者に屋敷の中へと突き飛ばされた。


「片目しかない老人を殺せ」


「その目は我々に捧げろ」


 彼らはそう命じた。


 屋敷に足を踏み入れた時、少女は確かに彼らが言っていた老人を目にした。炎の中に立つ老人の腕や頬には、僅かに鱗のようなものが見えた。


 そして、彼の左手は小さな子供の首を掴んでいる。少し力を込めれば折れてしまいそうなほど、強く握りしめていた。


 少女は叫び声がする方へ向かった。炎のさらに奥には、車椅子に座っている女性の姿があった。木製の車椅子にも火が移り、彼女の手足に燃え広がっている。


 その光景を前にしても、少女の視線は火に照らされて銀色に輝く光に釘付けになった。


 自分と同い年くらいの少年が、壁に掛かっていた装飾剣を必死に剥ぎ取り、折れた片足を引きずりながら、まっすぐに炎の方へ、龍人の方へと向かっていく。


 彼の目には、純粋な憎悪が宿っていた。


 それがなぜか「似合わない」と、少女はふっと思った。そして、考えるより先に彼女は動いた。


 彼女はなぜか、龍人を殺す方法を知っていた。銃を構えれば、体が勝手に照準を定めたのだ。


 彼女はなぜか、死にかけた人間を救う方法を知っていた。炎の中から二人を引きずり出した時、すでに彼女の聖魔法が二人を癒やしていたからだ。


 どうやって聖魔法を使ったのかさえ、彼女自身には分からなかった。ただ、直接魔力を渡してはいけない、ということだけは直感的に理解していた。


 少女は屋敷から離れようとしたとき、鎖が誰かに引かれたのを感じて、歩みを止めた。彼女は振り返り、引き上げられた鎖の先にいる少年を見た。


 彼は床に座り込んだまま、大きな剣を抱えている。まるで、手元の何かを掴もうともがく溺死者のように、彼女の鎖を必死に握りしめていた。


「離せ」少女は淡々とそう言い、軽く足を引いた。


「……」少年は鎖を掴んだまま、何も答えなかった。


「怒りは悪くない物だが、……理性的で、自制心のある奴が一番厄介だ」少女はじっと彼が抱えている剣を見つめた後、ゆっくりと口を開いた。その語気は、老人の目玉を抉り出したばかりの子供とは到底思えないほど、相変わらず静まり返っている。


 彼女は再び足枷の鎖を引いたが、少年は依然として手を離そうとはしなかった。


「守り抜けるようになるまでは、何を大切にしているか、誰にも悟らせるな」少女が一歩踏み出すたびに、彼女を縛り付ける鎖が低く鳴り、その音は少年の傍らで止まった。


 次の瞬間、少女は鎖を掴む彼の手を容赦なく踏みにじった。彼がたまらず手を離したのを見届けると、彼女は淡々と続けた。


「それから……二度と、膝をつくな」


「……わかった」少年は剣を掴み、それを支えに立ち上がった。そして、真っ直ぐな目で彼女を見つめた。


 その後、彼女はあの老いた龍人の目玉を白いローブの者たちには渡さなかった。


 そのせいで、彼女は檻の中に閉じ込められた。


「……」比較的、設備の整った牢獄だ、と彼女は思った。


 また別の日、彼女にはもう一度あの声が聞こえた。


『……なんで私なの……死にたくない……たすけて……』


 再び目を開けた時、彼女はいつものヨットの床で、本を開いたまま寝落ちしていたことに気がついた。


 広げられた本のページには、頭に巻かれた包帯から漏れた血が滲んでいた。


 ***


 何十日も眠れない日が続いていたのか、少女は数えていない。それがいつものことだからだ。


 でも、今日のことはよく覚えている。マスターが彼女に酒を飲ませたからだ。ほんの一口だったが、少女は今日、驚くほどよく眠れた。


 賑やかな声に起こされ目を開けると、外はまだ夜だった。


 しかし、なぜか星が一つも見えず、月が二つか三つのように歪んで見える。彼女はどこか、青楼の中にいた。


 太腿の銃とナイフは取り上げられていなかったが、銃弾は一発も残っていなかった。


「起きたか?」


 頭上から、男の声が降ってきた。


 少女はビクッと肩を震わせたが、鍛え上げられた直感と長年の筋肉記憶に従い、即座に銃を構えて引き金を引いた。


 しかし、予想していた爆音は響かない。


 弾切れだ。


 足を組み替え、男は少女に視線を落とし、見下ろすような仕草で目を細めて、彼女に向かって微笑んだ。それは嘲笑でも、礼儀的な微笑でもない。声もなく、目元も口角も同時に笑っている、そんな笑顔だった。


 それでも、その透き通った七色の硝子のような瞳には、計り知れない何かが宿っている。


 彼は「玄目げんもく」と名乗った。


 夜の帳が下りても、広々とした花街はなお人声で賑わい、淡い黄色の提灯が幾里にもわたって連なり、果てが見えない。


 しかし、この絢爛たる大通りの裏側には、濃く淀んだ退廃の気配が潜んでいた。


 ここは「鼠街ねずみがみち」と呼ばれている。


 まるで街鼠どぶねずみどもの巣のように、路地が縦横に入り組み、雑然として秩序がない。そんな墨のような闇に溶け込む中、一人の少女が軒先から軽やかに飛び降り、路地の奥にひっそりと潜む店へと足を踏み入れた。


 店と呼ぶのも正しくはない。そこにはただ、廊下の隅に襤褸ぼろ布を敷き、その上に座り込んでいる老人がいるだけだった。老人はうたた寝でもしているのか、こくりこくりと首を垂らしている。通り過ぎる人々も、誰一人として足を止めず、視線すら向けない。


 ただ一人、十五ほどの少女を除いて。


「龍王の目が消えた」少女は見下ろすように、老人の乱れたつむじへ視線を落とし、無表情に言った。


「奪われたのさ」老人は顔も上げずに続けた。「誰の仕業だ?」


「忘れたの?」少女はしゃがみ込み、老人と目の高さを合わせて、はっきりと言った。「お前自身がやった」


 老人と目を合わせたとき、少女はどこかで見かけたような覚えがあったが、それがどこなのかは思い出せない。


 その瞬間、老人は突如として跳ね起き、狂ったように叫び出した。袖を蛇のように振り回し、両手をめちゃくちゃに動かして周囲の人間を追い払う。


 おそらく、そうやって人を遠ざけているからこそ、誰もこの隅へ近寄らないのだろう。


 少女は相変わらず無表情のまま、その攻撃をひらりとかわしながら言った。「一箱。三日後に取りに来る」


 そして太ももに隠していた銃を取り出した。その時になってようやく、狂乱していた老人の動きが少し収まる。だが、その口の中ではなおも何かをぶつぶつと呟いている。


「わかった」老人が何と言ったのかは分からない。それでも少女はそう言い、銃を老人の敷いている襤褸布の上に置くと、立ち上がってその場を去ろうとした。


 彼女自身、この老人が何者なのか、先ほどのやり取りが何を意味するのかも分かっていない。だが、銃弾を手に入れられる。


 玄目がそう言ったからだ。


 なら、それでいい。


 少女は彼のことを信じてはいない。しかし、食事を与え、寝る場所をくれた玄目が、彼女の最も求めていた言葉をくれた。


「帰れる」と、彼はそう言った。


 その言葉一つで、彼女の思考の中に渦巻いていた、混乱した「見覚え」は砕け散ったようだった。


 マスターがいない場所で、誰を信じればいいのかも分からない。彼女自身のことですら。これが現実なのか、それともまた幻覚に過ぎないのかさえ分からないのだから。


 それは何度も繰り返されてきた。時には夢のように儚く、幸せな幻覚もある。だがほとんどは、冷たく不気味なものだ。


 どんな時でも、ある瞬間に突然目を覚ます。手術台の上にいる自分、鉄の檻の中にいる自分、針と薬剤に満ちた寝床の中にいる自分を、再び思い知らされるのだ。


 だからもう、どうでもいい。幻覚でも現実でも、少女にとっては同じことだ。


 彼女はただ――飼い主(マスター)が迎えに来てくれる世界(ところ)へ帰りたがっている。


 少女が路地から一歩踏み出したその時、背後から誰かが近づき、彼女の手を掴んだ。


 その人は、この界隈を行き交う多くの者たちと同じように外套をまとい、荒々しい気配を纏っていた。だがなぜか、その翠の瞳だけは、この陰鬱な片隅にあってなお、輝く光を宿していた。


 少女は振り返り、掴まれた手を見つめる。しばし呆然としたのち、ゆっくりと顔を上げると、その瞳を目にした瞬間、今すぐここから離れたいという衝動に駆られた。


 それはこれまで幾度となく経験してきた「逃げたい」という感覚とはまるで違う。むしろ――「見られたくない」という衝動に近かった。


 自分でも、その唐突に湧き上がった思いに一瞬戸惑う。それでも少女は、何事もなかったかのように無表情を保っていた。


 やがて、相手の声が耳に届く。「君は……」


 そこまで言いかけて、少年はふいに言葉を詰まらせた。そのまま続けることはなく、わずかに眉をひそめ、そして緩める。


 少女は再び、掴まれた自分の手首へと視線を落とした。それに気づいた少年は、ゆっくりとその手を離した。


「君は、クィヴェンか?」少年はそう尋ねた。


「……なんで?」


 少女は目を見開いた。頭の中のぐちゃぐちゃな幻覚が、かつてないほどの激しい波となって押し寄せている。


 そのせいで、頭が割れるように痛くなった。


 その痛みはいつも耐えられてきたはずだった。徐々に、何も感じなくなっているはずだった。


 それが初めて、少女が痛みから逃げ出した日だった。


 ばたりと倒れた彼女は、この魔法世界が魔王によって壊されるまで、二度と目を開けることはなかった。





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