序章 最後まで笑っていられるのは私だ! 上篇
序章 最後まで笑っていられるのは私だ! 上
「せ、聖女様を離せ!」
豪華な宮殿に怒号が反響した。振り向けば、重厚な金属の擦れる音を響かせながら、王宮騎士と思しき男たちが数名、ずらりと並んでいた。胸の紋章が揃って光を反射し、松明の炎をちらちらと細かく映す。その光景は、威圧というより“壁”そのもののようだった。
その圧力をまともに浴びた女性は、小さく肩を震わせた。
本来なら白百合を連想させるような高価なドレスを着こなし、ゆるく巻いた艶やかな黒髪を上品に整えているはずの女性――だが今は、緩くほどけた髪が頬に張り付き、ドレスの裾は土埃を吸い、ほつれが目立つ。まるで、肉食獣同士の争いに偶然紛れ込んでしまった子うさぎのように、怯えた瞳がきょろきょろと揺れている。
それも、狼の爪の下に伏せている子うさぎだった。
こんな可憐な子うさぎのようなお嬢様を捕まえているのは、黒い服をまとった少女だった。彼女は静かに一歩前に踏み出す。頬をかすめる黒髪は血と煤で重く沈み、戦いの痕を露わにしていた。その黒衣の影は、お嬢様を覆い隠し、守っているようでもあり、同時に人質として利用しているかのようにも見える。
「わー、なんだよ今度は……微妙に違ったコスプレって、まちがい探しゲーム?」茶化す声に軽さはあったが、少女の視線は騎士たちひとりひとりの立ち位置、足の向き、呼吸のリズムまで冷静に読み取っている。
「最後通達だ! 聖女様を離せ!」
騎士たちは半円状に少女たちを囲み、剣を抜いた者は刃を肩越しに構え、杖を持つ者は宝石を淡く光らせて魔力を溜めている。
その中心で、お嬢様は少女の背に隠れるようにしがみつき、乱れた髪をふるふる震わせながら必死に息を整えていた。
黒服の少女はひとつ息を吐き、表情に苦笑のような影を浮かべる。
「ん〜待て待て。一旦落ち着こう。可憐な聖女の首に刃物を当ててる、ボロボロの黒服姿の私……ん、どう見ても悪役は私か」
少女の口元は笑っているが、内心では状況の滑稽さを冷ややかに嘲っていた。
なにせ――視界の端がじわじわと溶けるようにかすみ始めている。刺し傷、銃創、火傷、折れた左腕……身体のいたるところが痛みを訴え、指先が勝手に震える。
「これは間違いですよ~旦那様方~」少女はナイフをそっと収め、両手を上げた。降参の姿勢を見せた彼女の背中に、お嬢様が小さく縋りつく気配が伝わる。
「あれだ、あれ……何かの誤……か……い……」
笑顔のまま、ふっと膝から力が抜けた。
世界がゆっくり回転し、松明の光がにじみ、騎士たちの影が長く伸びていく。お嬢様の小さな悲鳴も、次第に遠ざかる。
頬が床に触れた瞬間、やわらかな感触が伝わった。
――あ、カーペット……柔らかいな〜……
そのぼんやりした感想だけが、少女の意識に最後まで残った。




