会敵触発
1.
「もう終わりだ……なんでこんな目に」
落とし穴に落とされた見張りが嘆いていた。彼らはこの落とし穴のことを知らなかった。この離れには、雲東弦が集めた財宝があるのだと思い込んでいた。
何故なら、用心深い雲東弦は部下であっても簡単に信用せず、このことを知っているのは本人を含めても片手で数えられるだろう。
落とし穴の底は狭い。一人は子供とはいえ三人も入れば、どんなに体を縮めても肩がぶつかり合い非常に窮屈だ。おまけに壁は高く掴むところもないのだがら、どうしようもない。
見張りは雲東弦の冷酷な性格を知っているから顔面蒼白だ。雲東弦が妙な出来心でも起こさない限り、ここで飢え死にを待つだけである。
「ちくしょう、お前のせいだぞクソガキ」
見張りのうち一人が激昂して景小龍を小突いた。見張りを任されていたのにも関わらず、名無しの誘いに乗って酒を飲んでいたことが原因他ならないが、そもそも景小龍が忍び込んで来なければ問題はなかったのだ。理不尽といえばそれまでだが、この怒りは景小龍にぶつけるより他にない。
肩がぶつかり合う狭さなのだから、景小龍は避けようがない。成すべもなく鈍い痛みが走ると、景小龍が無抵抗なのをいいことに続いて二、三発と叩き込まれた。
これには腹を立てた景小龍が拳を構えるが、
「やめろやめろ、こんな狭い場所で殴り合いなんてされたらかなわん。どうせ俺たちは死ぬまで一緒なんだから仲良くしてろ」
ともう一人の見張りに止められた。
もっともである。と、景小龍を殴り付けた見張りは拳を納めるが、殴られた本人はいい気はしない。それでも殴り掛かる訳にはいかないので、嘆息して拳を下げた。
さて、一悶着終えた三人だが無論のこと会話は無い。仲良くしろなどと言ったが、実際にそうする間柄ではなく、例え仲睦まじく語り合えたとして現状が変わるとは思えなかった。
見張りは名無しに差し入れられた酒と饅頭を口にしたばかりで、腹が脹れている。しかし、景小龍は名無しに路銀の全てを渡していた為、朝から何も口にしておらず腹の虫が鳴いている。
七日と言わず、四日もすれば景小龍は痩せ干せて死んでしまうかもしれない。内功の達人であれば、気を巡らして瞑想し、飲まず食わずで数日間、水一滴で一ヶ月過ごせたりするが、景小龍がその域に達していないことは勿論である。
(こんなところで……。父上の遺言通りに黄一聡先輩を探し出せず、また仇もとるこもできず、未練だけを残して果てるしかないのか)
背筋に冷水を浴びせたような悪寒が走る。父親の死を経験したばかりの景小龍にとって、死とは間近のもであり、現実味を帯びて心を凍てつかせる。
(どうにかしてここを出なければ。死んでたまるか)
頭を振って恐怖を払うと、『龍勢歩』の技を使って飛んだ。肖子墨直伝の奇術、その効果は絶大で見張り二人の背よりも高く跳んでみせた。それでも、壁は越えられない。
諦めずにもう一度。今度は先程より高く跳ぶが、それでも足りない。続けざまに一回、これは着地と同時に深く踏み込んで跳ぶ。前二回より高く跳べたが、出口は遠い。
それから何度も試した。狭い穴の中は、景小龍の乱れる呼吸音と、弾む跳躍音でいっぱいで、傍から諦観してた見張り達もついつい見入ってしまった。
二人は武術ができない。雲東弦の下で悪逆の限りを尽くしてきたが、『鉄扇人屠』の威名があってこそ、結局はそこいらの小悪党である。その為、景小龍の技が絶大的武功に見えていた。並程度の使い手であれば、景小龍の未完の技だどたちどころに看破されてしまう。しかし、見張り達にとっては紙に書いた龍、驚天動地の絶技であった。
「おい小僧、その技を俺にも教えろ」
景小龍を殴り付けた見張りが言った。景小龍は子供で手足が短い。反面、己は成熟した大人であり、景小龍と同じ技を使えたら壁を超えられるのでは無いかと考えた。年若い少年が使ってる技なのだから、簡単な技なのだろうとも思った。
だがそうはいくまいか。
「教えられません」
景小龍はきっぱりと答えた。
そも、景小龍は「龍勢歩」の技を大成していないのだが、武功とは師が弟子にのみ授けるもので、簡単に他人へ手ほどきしていいものでは無い。それに、仮に肖子墨の許可を得て手解きしようにも、景小龍では上手く教えられまい。
それでもなお諦めきれない見張り達は食い下がるが、景小龍の答えは変わらない。景小龍を殴り付けた見張りは、腕にものを言わせようかと考えたが、もう一人に止められるのは目に見えている。二人ともいくら説得しようとも頑なな態度を崩せないと悟りとうとう諦めた。
だが、脱出することは諦めきれない。
「おい小僧、お前はどのような行いにも義によってたつと誓えるか」
「勿論だよ」
「そうか、その言に二言は無いな。そして人助けとは義によった行いだと心得ているな」
「どちらも当たり前だよ」
この三人の中では、一触即発の景小龍と見張りを宥めた残り一人は一番機知に富んでいた。彼は景小龍の返事を受けると、立ち上がったまま壁に手をついてもたれかかった。傍から見れば間抜けに見える体勢だ。
「小僧、俺を踏み台にしろ。お前一人で抜け出して助けに戻ってこい」
賢い見張りが言ったことに、もう一人の粗暴な見張りが驚き、
「相棒何を言っているんだ。こいつ一人で抜け出せても戻ってくるわけが無いだろう。馬鹿なことを言ってないで他の方法を考えてくれ」
と諌め、相方の肩に手を置くと壁から離そうと力を込めた。
賢い見張りは微動だにせず、
「上に登れたら門の方へ行け。近くに物置小屋がある。そこから縄を持って来てくれ」
淡々と続けた。
人一倍義を重んずる景小龍である。そう請われた以上は必ず、二人を助けに戻るだろう。だが他人が、ましてや人を騙して生きてきた悪党がそんなことを信じられるはずがない。
賢い見張りと打って変わって粗暴な見張りは難色を示していた。だが、止めようがない。自身の知恵が相方に劣っているのは自覚しているし、背を向けて知らん振りをした。
「分かったよ。門の近くの物置小屋だね。直ぐに戻るよ」
応えると軽功の技を使い、景小龍が飛んだ。助走をつけられるほど広くないため、その場で跳躍、躍り上がった空中で見張りの肩を捉えて踏込みと同時に再び舞い上がる。
ぐんぐんと迫る壁の向こう、出口。されど、そこには景小龍の体ひとつ分足りない。悔しさに歯ぎしりしながら着地すると、もう一度挑んだ。しかし結果は変わらない。
この様子を粗暴な見張りは横目で見ていた。
(相棒は期待していたようだが、とんだ期待はずれだ。あいつを信じようと信じまいと、ここから抜け出せないのならどうでもいい)
ふん、と鼻を鳴らして視線を逸らした。放っておけば諦めて大人しくなるだろうと考えたのだ。それからは死を待つだけだ。体力を消耗している分、景小龍が果てるのは早いだろうとほくそ笑んだ。
「相棒お前もこっちに来い。俺の肩に足をかけて、踏み台になれ」
出し抜けに言われた言葉に、肩を竦めて返す。
「ここから出たくないのか」
「出たいさ。さっさと抜け出して、あの怖いお頭の元からもとんずらこきたいね」
「ならばお前も手伝え」
「それは嫌だね。確かに俺も踏み台になれば、その小僧一人は抜け出せるかもしれない。だが、俺たちはどうなる?」
「僕は必ず戻ってくるよ」
すかさず答える景小龍。
「信用ならないね。義がどうだとか、悪党が好んで使う言葉だ。お前が俺たちと変わらない悪党で、見捨てられないとは言いきれない」
見張りに役は一気に言い立てた。悪党として生きてきた彼は人の真心を知らない。景小龍がいくら言葉を尽くしても説得はできないだろう。
賢い見張りは呆れ顔だ。他に脱出する手立てが思いつかないのだから、景小龍に賭けるしかない。
「相棒よく聞いてくれ。悪党は騙されても死なない。代わりにマヌケが一人増えるだけだ」
粗暴な見張りはしかめっ面をしながら頷いだが、応える素振りは無い。
やれやれと肩を竦めた賢い見張りは、他に手はないかと考え始めた。だが八方塞がり。脱出するにはどうにか三人で協力するしかないだろう。
「小僧、名前をなんという」
「景小龍」
「そうか景小龍。ではお前が今手にしているとので、大切なものはなんだ」
問われて考える景小龍だが思い当たらない。着の身着のまま旅に出たし、父にさえ形がある物を贈られたことはない。敢えて言うならば、父の遺書が最も大切だろうか。そう思い至ると、懐から出して見せた。中身を見せずに、外の宛名だけである。
「それは遺書か。確かに大切なものだろうな。では俺に渡せ。おまえがここを抜け出して、俺たち助けに戻って来たら返してやろう」
これは流石に断りたい景小龍。
「そんなことをしなくても僕は必ず戻ってくるよ」
「信用なるかよ。置いてけ」
と粗暴な見張りに口を挟まれてしまい、渋々渡した。
賢い見張りが受け取った遺書を懐に入れるのを見ると、粗暴な見張りはようやく手伝う気になった。武術ができるわけではないが、運動はできる。相方の肩に足をかけて踏み台になった。傍から見ればやはり馬鹿馬鹿しい見た目だが、三人にとっては九死に一生を得る苦肉の策だ。
景小龍は踏み台になっている二人に礼を述べると、可能な限り勢いをつけて飛び上がり、続けて二度、見張りの二人を使って三度躍り上がった。結果は期待通り、とうとう壁を越えて落とし穴から抜け出した。
着地してすぐに下に向かって、
「すぐに縄を取ってくる。待ってて」
と告げると、やってきたように屋根に昇って門の方へ駆けた。
目指すは物置小屋、夜闇に紛れて景小龍が駆けた。
2.
「待て、僕の義弟になんて事してくれるんだ!」
雄叫びを上げた景小龍は、矢も盾もたまらず、弾かれるように飛び出て名無しの前に立ち塞がった。
縄を探しに物置小屋に来た景小龍は、『鉄扇人屠』雲東弦に名無しが倒されるところに出くわした。
純真な景小龍は、名無しに騙されたとは万が一にでも考えておらず、雲東弦の卑劣な罠に嵌ったと怒り心頭である。それに、義弟である名無しが九死に一生とあれば後先考えずに飛びててしまうのは無理もない。
突然現れた景小龍に雲東弦は些か、困惑の色を示した。目の前に現れたこいつは、罠に嵌り落とし穴の底にいるはずの少年で違いない。されど、どうやって抜け出したのか。よもや、この少年は見た目に反して並ならぬ武功を身につけているのか。そう考えてしまい、実の所、自分の実力に遠く及ばない景小龍を、強敵ではないかと疑っていた。
本来であれば、雲東弦が指を弾いて銀針を飛ばせば、景小龍は避けられない。一条の銀の光は確実に景小龍の喉元を食い破り、命を奪い取るだろう。
だが、強敵と見た雲東弦はじわりと手汗が浮かぶ指を引っ込めて、鉄扇に指をかけた。銀針ではなく、鉄扇で相手取るつもりだ。
「小僧、俺の前に立ち塞がったからには死んでもらうぞ」
言い放つと、両手に持った鉄扇を開いて、空気を切り裂きながら景小龍の首元へ一閃。
特注の恐るべき切れ味を誇った鉄扇は、鉄にすら傷をつける。柔らかい人肌など、草の葉のように簡単に断ち切れるだろう。
景小龍は空気を切り裂く一閃に、その鋭さを察すると、軽功を展開して後ろに飛び退いて回避した。そこへ、雲東弦は演舞のように流麗な動作で一回転してさらに追い打ちをかける。巨体には似合わぬ身軽さだ。
この一手は、逆に身を縮めて相手の懐へ入って躱し、拳を振るった。型や理屈のない、酔っ払い同士のどつきあいにあるような一打である。それでも、並ならぬ内功を持つ景小龍の一撃は雲東弦に痛手を負わせた。打ち付けられたのは腹部、強烈な痛みに驚いて後ずさる雲東弦、その顔には冷や汗が浮かんでいる。
(この少年、どう言うか訳か軽功の腕はそこそこに見えるし、内功も充実しているように見える。しかし、今の一撃はまるで素人、武芸の心得があるように見えない。それでもこの痛み、恐らく敢えて手加減したに違いない……)
雲東弦は用心深い。故にこそである。彼はまるっきり、景小龍を実以上の強敵と思い込んでしまった。
実際は軽功は多少、内功は並よりも上程度で、鉄扇を続けざまに二発躱わせたのは、雲東弦が用心深い故に、本来の六分ほどの技の冴えだったからである。
さて、ともなれば、雲東弦は迂闊に攻めいられない。出鱈目な掌法での一撃は無論腸が煮え切る思いだが、本来の威力を発揮されたら一溜りもないだろう。そう考えて後ずさる雲東弦に、景小龍は勢いに乗った。
(こいつ、身なりはとても強そうに見えるが、見掛け倒しだ。僕の一撃で恐れを成している。このまま懲らしめて、義弟を助け出そう)
決めるが否や、景小龍が仕掛ける。
軽功の技で一気に間合いを詰めると、これまた出鱈目に腕を振り回して殴りつける。雲東弦は大袈裟に身を反らして躱すと、一歩後ずさった。あと一発でも受けてなるまいかと警戒しているのだ。
実力のあるものが、実力のないものに恐れを成して弱腰で戦う。誠に道化に相応しい演目であるが、これを唯一目にしている名無しは、その滑稽さを見抜いていた。
雲東弦の用心深さを知っているし、武芸の心得がないとはいえ、自分と相も変わらない景小龍に絶大的な武功があるとなど考えない。だから、腹の虫ぐつぐつと騒いでいるのを我慢して唇を震わしていた。
そうしている間に、二発放たれた景小龍の拳を、雲東弦はごろごろと転がりながら避けた。あまりにもの滑稽さに、名無しはついに耐えきれなくなった。そして、
「やい『鉄扇人屠』!見たか俺の義兄の実力を。そいつはそうさ、なんたって兄貴は『武君七俠の弟子なんだ。まだ子供だからってあなどるな、兄貴はその気になれば虎だって百人将だってちょちょいのちょいさ!」
と雲東弦を揶揄い始めた。
これに怒り心頭、顔を真っ赤に染める雲東弦だが、持って生まれた気質は変えられず、景小龍の攻撃には防戦一方だ。
ますます勢いづく景小龍、続いて三発放つと、躱されてなるかと、踏み込んでさらに間合いを詰めた。
雲東弦はまたもや逃げる。景小龍が一歩踏み込めば、二歩逃げる。
「恥ずかしくないのか大悪党さんよ!全く笑えてくるぜ、この臆病者」
すかさず名無しが揶揄う。これに、とうとう雲東弦が我慢を辞めた。
怒りのままに踏み込んだ。景小龍とは相打ちの覚悟、閉じた鉄扇で突いて殴りつけた。思わぬ反撃に景小龍の防御は間に合わない。硬い鉄扇に殴りつけられ、鈍い一撃にたたらを踏んで三歩ほど下がる。この確かな手応えを奇妙に思いつつ、雲東弦は鉄扇を扇いで追撃。景小龍は避けようと身を翻すが、足がもつれて臀を地面に打ち付けて倒れた。
一瞬の静寂。無様を晒した景小龍に、雲東弦はその隙をつくのも忘れて、目を見張った。今の動作、あまりにも、あまりにも素人の動き、まるで産まれたての子鹿、へっぴり腰の弱気な百姓。とても、武功を身につけているものの動きでは無い。
……まさか。この少年は武芸が出来ないのではないか。総疑問に思った時、雲東弦は体を小刻みに揺らしながら、顔を紫に染めた。全て察しがついた。己の勘違いや、景小龍の本当の実力を。
「……小僧、お前には最も無惨で情け容赦ない死を与えてやる」
殺気を込めた重く冷たい声だ。
景小龍は背筋が凍りつく思いをした。威圧感、確かな強敵の鋭いまでの殺意に、怯え足が竦んでしまう。
「兄貴、駄目だ逃げよう!」
名無しが必死に叫んだ。雲東弦の恐ろしさを、景小龍よりも深く知っている。景小龍が決して敵わないことも。
はっと我に帰った景小龍は、名無しの方へ跳ねた。そこへ、銀針が襲いかかり、既のところで空を突いた。もし、我に返るのが一瞬遅かったら脳天を穿かれていただろう。
景小龍は名無しを抱き上げで、肩に担ぐと出口に向かって走り出した。雲東弦を後ろ背に駆ける、駆ける。その背を逃すまいか、雲東弦が三本の銀針を放つ。襲い来る銀針はどれも、真っ直ぐに景小龍へ向かって飛ぶ。それに背を向けているのだから、躱わせる道理は無い。
しかし、
「兄貴、思いっきり飛んで」
と名無しが耳元で叫ぶから、景小龍は反射的に従った。すると、銀針は景小龍の足元をすり抜けて行った。
この名無し、どうやら武芸は出来ないようだが目はいいようだ。雲東弦が放つ銀針を捉えると、右へ左へと景小龍に指示を出して既のところで避けさせる。これでは後ろに目があるのと同じ、いやそれ以上の効果があり、景小龍は銀針を掻い潜りながら、物置小屋を抜けて中庭を駆けた。
目前に迫るは唯一の出口である門。しかし、そこには門番が二人いる。囲まれてしまえば、どんなに名無しが目を凝らして軌道が読めても、躱すことは出来ない。
そう悟って、どうにか門番に気づかれずに通り抜けられないかと考える景小龍だが、名無しはいきなり大声を上げた。
悪党共の酒盛りはとうに終わっており、あるのは夜の静寂。ならば、名無しの大声に門番が気づかないはずはない。妙な天の巡り合わせもなく、変事に気づいた門番が振り向くと、景小龍と目が合った。
途端に、
「曲者だ!」
と叫んで、真正面から迫り来る。景小龍は強行突破できまいかと目を走らせるが、名無しを抱えているのでそうも行きそうにない。足を止めて、向かい打つつもりだが、その隙を逃すまいと雲東弦が銀針を飛ばした。
それを見逃さなかった名無しは、
「今だ、屈んで」
と耳打ちすると、景小龍は疑わずに身を屈めた。すると、景小龍の背中を捉えるはずだった銀針が迫り来る門番に突き刺さり、悲鳴が二つ上がった。
元々景小龍の背に向けて放たれたものの、流れ弾なのだから、痛みはあるが大したことないのだが、突如襲いかかってきた頭領の銀針に門番は面を食らった。
その隙に景小龍はするりと脇を通り抜けて、屋敷の外へ出た。このまま、曲がりくねった路地へ向かえば、逃げ切ることができようか。景小龍の胸に一抹の安堵が訪れた。
自分一人では、雲東弦をどうしようにも出来ない。逃げ切ることも出来ない。だが、正に天の巡り合わせか、名無しのおかげで逃げおおせそうだ。
そもそもが、名無しと巡り合わなければ、雲東弦と手を混じえることはなかったのだが、景小龍は感謝の念を抱いていた。
だが、気を抜くのは早すぎた。
路地裏に逃げ込もうと、足を早めたその時、銀針が更に襲いかかってきた。
「頭を右に傾げて」
例の如く、正確な名無しの指示に、間髪入れずに応える景小龍。果たして、銀針は景小龍を通り過ぎて、目の前の壁に突き刺さった。続いて二発迫る。
「一つは大きく右に、それから上半身を反らして」
考えるより早く指示に従って避ける。またもや銀針は景小龍を過ぎ去っていく。が、上手く躱せたとそう思った途端に、景小龍の右腹に鋭い痛みが走った。
それはありえない事だった。景小龍の背後から放った銀針が、景小龍の正面の右腹に突き刺さっているのだから。
新手が現れたのか、はたまた妖術か。
仰天して辺りを見回した次の瞬間には、左肩、右膝に鋭い痛みが走って、景小龍が呻いた。
どれもまさに、正面から放たねば当たらぬ場所であるはずだ。
「兄貴、ここを離れて」
この不可思議な現象をいち早く悟ったのはやはり名無しだ。雲東弦が景小龍目掛けて銀針を放てば、名無しに捉えられて躱されてしまう。雲東弦の暗器の腕はかなりのものであるが、見えているのならば躱せないこともない。だから、景小龍を狙っては意味が無い。
ならば、他のものを狙えばいい。例えば、壁に突き刺さった銀針。
景小龍を襲った不可思議な攻撃、それは新手の攻撃でなければ、妖術でもない。雲東弦の卓越した技術によるものだ。
雲東弦は敢えて外した銀針に、また銀針を当てて、反射させ有り得ざる方向から景小龍を狙ったのだ。
景小龍はこれに気づかない。それでも、名無しが離れろというのだから、従うつもりだ。だが、突き刺さった銀針はいずれも深々と肉を抉っており、致命的ではないが、負った傷は易くない。
景小龍は既に、思うように体を動かせないでいた。これには、名無しを抱えているせいもあるし、昨日から軽功の技で体を酷使し続けた疲れもあるし、雲東弦から放たれる殺気のせいでもあった。
(クソ、ここまでか。あともう少しだったのに……)
名無しは諦めがつくのも早い。対して景小龍は足を引き摺って、もがいているが、容赦なく飛んでくる銀針は背にも腹にも突き刺さる。
雲東弦が急所に向かって放ち、景小龍を殺すのは時間の問題である。
景小龍はとうとう膝を折って地に着けた。名無しは投げ出され、転がったが動くことは出来ない。
まさに絶体絶命、景小龍は傷つき、名無しは指先を動かすことも出来ない。
このままでは二人とも殺されてしまう。そうはいくまいか。景小龍は、ふらふらと立ち上がって名無しの前に立った。
「僕を殺してみろ。だが、義弟には指一本触れさせないぞ。お前に殺されたって、喉元に噛み付いて道連れにしてやる」
この窮地にたって景小龍はまるっきり命乞いをするつもりなどなかった。ただ、義弟を傷つけるのは許さないと凄んだ。
名無しには理解できなかった。景小龍という人間を。己が騙され利用されていたことも知らず、命を投げ打って、自分を救うつもりでいるのだから。
「……はやく、はやく逃げろよバカ兄貴!」
名無しは叫んだ。景小龍を理解できないから。景小龍を許せないから。自分のために命を投げ打つ選択をした、景小龍を許せないから。
義兄弟がなんだと言うのだ。名無しと景小龍は確かに義兄弟の契りを交わしたが、会って一日も経っていない。知り合ったばかりで、他人と変わらないじゃないか。なのに、何故、何故一人で逃げないのか。この窮地に至っては、名無しなど放っておいて、一人逃げ出した方が幾らかは助かる見込みがあるかもしれない。
それでも、景小龍は決してその選択をしない。
「嫌だ。義弟を死なせて一人のうのうと生きてられるか」
名無しの前からは決して引かない。もう、逃げ出すつもりは無い。
「ならば死ね」
雲東弦が指を弾き、景小龍の眼前を赤が染めた。