1.出勤
晩秋の夜の街を、蹄の音が響く。
磨き上げられた黒塗りの車体は街灯の明かりを映し込み、栗毛の大きな馬は一定の歩幅で石畳を踏みしめる。
送迎専用として用いられるその馬車は、内部もまた一流の職人の手で仕立てられていた。
深紅の革張りの長椅子。厚手の絨毯。
壁には小さな鏡が取り付けられ、揺れを和らげる工夫が随所に施されている。
女性は膝の上で手鏡を開き、唇の紅を指先でそっと整えた。
髪に乱れはない。襟元も整っている。
白い襟飾りも、ほつれ一つなかった。
手鏡を閉じると、今度は丁寧に折り畳まれた手紙を取り出す。
上質な便箋には、美しい文字が綴られていた。
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昨夜は心尽くしのおもてなしを賜り、誠にありがとうございました。
お帰りの際に頂戴した焼き菓子も、大変美味しくいただきました。
あなた様の温かなお心遣いに、深く感謝申し上げます。
秋も深まり、朝夕の冷え込みも日ごとに増してまいりました。
どうかお身体を大切になさってくださいませ。
神の御加護が、いつまでもあなた様の上にありますよう、お祈り申し上げます。
オデット
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手紙を丁寧に折り、蝋で封をする。
「昨夜の紳士様へのお手紙です。」
御者へ差し出す。
年配の御者は慣れた手つきで受け取り、胸元の革鞄へしまった。
「承知いたしました。屋敷へ戻る際に、お届けいたします。」
「よろしくお願いいたします。」
女性はもう一冊の帳面を広げる。
今月の予約帳だった。
空欄だった頁には、すでに幾人もの名が書き込まれている。
休みは月に二日だけ。
昼の仕事が休みの日に合わせて、ようやく空けられた日だった。
今日の欄には、見慣れない名前が記されている。
『ジークフリート様』
初めて迎えるお客様だった。
どんな方だろう。
少しでも日常の疲れを癒して差し上げたい。
そんなことを考えながら、帳面を静かに閉じる。
やがて馬車は、森に囲まれた高台へと入っていった。
街の喧騒が遠ざかり、静寂な暗闇が車窓を流れていく。
馬車は静かに、貴族の別邸が立ち並ぶ湖畔の丘へと進んでいた。
石造りの門。
手入れの行き届いた庭園。
湖を見下ろすように建てられた瀟洒な館。
この界隈で有名な豪商が客人をもてなすために構えた別邸の一つだったが、今は貸別荘として様々な方が利用されている。
馬車がゆっくりと停まる。
「到着いたしました。」
御者が扉を開く。
オデットは革鞄を手に取り、静かに地面へ降り立った。
玄関まで続く石畳を一歩、また一歩と進む。
胸の奥が重い。
帰りたい。
昼の時間へ戻りたい。
そんな思いを胸の底へ押し込め、扉の前に立つ。
深く息を吸う。
ノッカーに手を掛ける。
──コン、コン。
乾いた音が夜の館に響いた。
胸の奥へ本当の自分を静かにしまい込む。
背筋がすっと伸び、口元に柔らかな微笑みが宿った。
"オデット"は、今日も完璧な笑顔で扉が開くのを待っていた。




