プロローグ
第一話 最後のお客様
朝六時四十五分。
店のシャッターを開けると、まだ銀色の街は眠っていた。
誰もいない店内に足を踏み入れる。
革靴の音だけが静かに響く。
照明を点け、タオルを温め、ハサミを一本ずつ並べる。
それは二十年以上変わらない、一日の始まりだった。
「おはようございます!」
七時半になるとスタッフが次々と入ってくる。
まだ眠そうな新人。
いつも元気だけは一番の若手。
黙々と掃除を始める中堅。
「今日は予約パンパンですね。」
「ありがたいことだ。」
店長である俺は予約表を眺めながら頷いた。
満席。
昼休憩はたぶん取れない。
それでも嫌ではない。
忙しい店には理由がある。
九時。
最初のお客様が来店する。
「今日はいつもより短めで。」
「何かあります?」
「娘の結婚式なんですよ。」
鏡越しに目が合う。
少し照れくさそうに笑うその顔を見て、俺も笑った。
「じゃあ、お父さんらしく格好良くしましょう。」
ハサミを入れる。
髪は、その人が歩いてきた時間を語る。
白髪。
癖。
傷跡。
全部、その人だけの歴史だ。
だから俺は髪だけを切らない。
その人が明日、少しだけ胸を張って歩けるように整える。
それが理容師という仕事だと思っている。
昼を過ぎても店は途切れなかった。
新人は焦り、予約は押し始める。
「急げ。」
そう言いかけて、やめた。
「急ぐな。丁寧にやれ。」
新人は驚いた顔をする。
「でも予約が……」
「五分早く終わるカットより、一か月後も来てくれるカットの方が価値がある。」
その言葉に、新人は黙って頷いた。
夜九時。
最後のお客様は、八年間通ってくれている常連だった。
七十八歳。
毎月きっちり四週ごとに来る。
「いつも通りで。」
「もちろん。」
静かな時間だった。
世間話をして、笑って、髪を整える。
帰り際、その人はマントを外しながら言った。
「君に髪を切ってもらうとね。」
俺は顔を上げる。
「まだ来月も頑張ろうって思えるんだ。」
言葉に詰まった。
理容師になって二十年。
何千人もの髪を切ってきた。
賞をもらったこともある。
雑誌にも載った。
でも、その一言ほど嬉しい言葉はなかった。
「来月もお待ちしてます。」
そう言って見送った。
その背中が、自動ドアの向こうへ消えていく。
それが、その人を見た最後だった。
翌朝。
一本の電話が鳴る。
「昨日伺った父ですが……夜中に息を引き取りました。」
店内の音が消えた。
言葉が出なかった。
電話の向こうで娘さんが続ける。
「父が最後まで『髪を切ってもらってよかった』と話していました。本当にありがとうございました。」
電話が切れたあとも、俺はしばらく受話器を握ったままだった。
床屋は、人の人生に何ができるのだろう。
ずっと考えてきた。
その答えを、最後のお客様が教えてくれた気がした。
髪はまた伸びる。
でも、人には「次」が来ないこともある。
だから一回一回の仕事に意味がある。
俺は静かにハサミを手に取った。
その一本が、まさか世界を変えることになるとは、このときの俺はまだ知らなかった。




