ラスト
夫を亡くした後も、息子も娘も立派な国王夫婦として責任を全うしている。
二人は全ての国民から愛される人物になった。
見届けた私はそこで静かに余生を過ごすことを決めた。
王家が所有する湖畔の別荘。
湖畔は、静かだった。
風はほとんどなく、水面はわずかに揺れるだけ。
夜空には満ちた月。
その光が、湖に落ちている。
――二つの月。
ひとつは、変わらぬままに。
ひとつは、揺れながら。
私は、その境界に立っていた。
足音がひとつ。
背後から、近づいてくる。
振り返る必要はなかった。
知っている。
その気配も、歩幅も、間の取り方も。
すべて。
――ずっと前から。
やがて、その足音が止まる。
わずかに距離を残して。
それが、彼らしいと思った。
そして――
衣擦れの音。
片膝をつく、気配。
静かな所作だった。
けれど、その音だけが、この場に確かな重みを落とす。
「……お返しいたします」
低く、落ち着いた声。
変わらない。
いいえ。
変わっていないように、聞こえるだけ。
私はゆっくりと振り返る。
月光の中で、彼は膝をついていた。
差し出された両手の上にあるのは――
ひとつの扇子。
見覚えのある、意匠。
長い年月を経てもなお、失われていない形。
私は一歩、近づく。
水面に落ちた月の光を、踏み越えて。
指先が、わずかに震えた。
それでも、止めはしない。
差し出された扇子に、触れる。
ほんの、軽く。
その感触は、記憶の奥を撫でるようだった。
「……お借りしていたものですので」
彼はそう続ける。
余計な言葉はない。
それで十分だと、知っているから。
私は扇子を手に取る。
開くことはしない。
ただ、その形を確かめるように、指でなぞる。
昔と、同じように。
「……変わりませんのね」
思わず、零れた言葉だった。
彼は、わずかに目を細める。
それだけで、答えになる。
沈黙が落ちる。
けれど、それはもう重くはなかった。
水面の月が、静かに揺れている。
私は、扇子を見つめたまま言う。
「これは、もう必要ありませんわ」
顔は上げない。
そのまま、言葉だけを落とす。
「隠す理由が、なくなりましたもの」
風が、ほんのわずかに通り過ぎる。
それでも、水面は大きくは揺れない。
彼は、すぐには応えなかった。
ただ、その場に在る。
それだけで、十分だった。
やがて――
「……では」
短く、声が落ちる。
私は顔を上げる。
彼は、変わらぬ姿勢のまま、こちらを見ていた。
「はい」
それだけを返す。
それでいいと、わかっているから。
彼は、ほんのわずかに息を吐いた。
それは、安堵にも似ていた。
「今度は――」
言葉が、一瞬だけ止まる。
けれど、迷いではない。
選んでいるだけだ。
「私のものとして、預からせていただいても」
夜は静かだ。
月は、変わらずそこにある。
水面は、揺れている。
私は、扇子を握る手に力を込める。
そして――
ゆっくりと、それを差し出した。
「ええ」
短く、答える。
それで、十分だった。
彼の手が、それを受け取る。
今度は、借りるためではない。
返すためでもない。
ただ、そこにあるものとして。
触れた指先が、わずかに重なる。
それだけで、時間は満ちていた。
言葉は、いらない。
すでに、すべて終わっている。
そして――
ようやく、始まった。




