第33話:続行
ティーカップが、王子の手の中で静止する。
落ちるはずだった音は鳴らない。
掴み取ったのではない。
――奪った。
そう表現する方が近い。
指先に残っていたはずの重さが消えたことで、ようやく理解する。
視界は揺れていない。
だが、その認識さえが一拍遅れる。
「毒だ」
短い断定。
王子に迷いはなかった。
確認でもない。
ただ、事実として置かれる。
私は彼を見ていた。
それは評価ではなく、分析でもない。
ただ、その言葉の“速さ”を見る。
……先に、決めた。
こちらはまだ、“使うかどうか”を選んでいる途中だった。
だが彼は、その過程を飛ばしている。
「今、出て行った侍女を止めろ!」
続けて落ちる声。
近くに控えていた従者が、一瞬だけ躊躇い――すぐに動く。
足音が遠ざかる。
温室の均衡が、目に見えない形で崩れていく。
私は息を一つ吐く。
浅い。
胸が少しだけ痛い。
だが乱れてはいない。
喉に、かすかな熱が残る。
……入っている。
量はわずか。
致死には遠い。
だが、無視できるものでもない。
「飲んだのか」
王子の視線が落ちる。
私の喉元へ。
その問いに、私はすぐには答えない。
王子は代わりに、カップの内側を見る。
液面は、わずかに揺れている。
彼の手の中で。
「……少量ですわ」
事実だけを返す。
誇張も、隠しもしない。
王子は一度だけ目を細める。
それ以上の反応はない。
「解毒は可能か」
問い。
だが、それは私に向けられたものではない。
判断の確認。
周囲の者は何も答えられない。
だから、私は答える。
「問題ありませんわ」
今度は迷いがない。
それが事実だからではない。
……ここは、遅れない。
遅れてしまえば、彼の選択は決まると思った。
遅れていい場面ではないと、理解しているからだ。
王子はわずかに頷く。
それだけで、場が進む。
「医師を呼べ」
短く命じる。
すでに一人は走っている。
無駄のない連携。
私はそれを見ながら、ゆっくりと背もたれに体を預けた。
「……お嬢様」
エリスが私の背中に手を当てる。
でも、力は抜かない。
抜く必要もない。
だが。
……外れた。
一つだけ、明確に。
予測から。
視線を上げる。
王子は、こちらを見ていない。
カップの中身を、静かに観察している。
揺れ。
香り。
残滓。
そのすべてを確認している。
……同じことをしている。
だが、順序が違う。
こちらは“見てから決める”。
彼は“決めてから確認する”。
その差は、小さいようでいて。
決定的に質が違う。
私は目を閉じる。
ほんの一瞬。
すぐに開く。
意識ははっきりしている。
身体の反応も、まだ軽微だ。
遅効性の毒。
あるいは、量の問題。
どちらにせよ。
処理は可能。
問題は、そこではない。
「……試験は」
王子が言う。
視線はまだ、ティーカップの中にある。
「続けるのか」
その言葉に、私はわずかに息を止める。
問いではない。
確認でもない。
ただ、選択肢が置かれる。
今なら。
中断できる。
理由もある。
正当性もある。
誰も否定しない。
だが。
……それは、選ばされている。
先ほどと同じ。
形を変えただけだ。
私はゆっくりと姿勢を戻す。
背を預けるのをやめる。
「当然ですわ」
声は変わらない。
揺れもない。
「この程度で中断する理由にはなりません」
事実でもあり、意思でもある。
エリスの息を呑む音が聞こえた。
王子は、そこで初めてこちらを見る。
真正面から。
「そうか」
短い。
だが、ほんのわずかに口元が緩む。
評価ではない。
納得でもない。
……確認された。
何をかは、明確にしない。
する必要がない。
「では」
私はティーカップのないテーブルに手を置く。
指先は、まだ正常に動く。
感覚もある。
問題はない。
「第二の問いの続きを」
止めない。
止まらない。
止めさせない。
「お答えいただけますかしら」
沈黙。
だが今度は、質が違う。
崩れた均衡の上に、意図的に積み直された静寂。
王子は、ゆっくりとティーカップをテーブルに戻す。
もう中身に意味はない。
それでも丁寧に扱う。
「守るもの、か」
繰り返す。
思考ではない。
確認でもない。
言葉として、なぞる。
「一つでは足りないな」
視線が、こちらに戻る。
揺れはない。
先ほどと同じ。
だが、どこか違う。
「だが」
一拍。
「優先順位はつける」
私は、何も言わない。
評価もしない。
ただ、聞く。
今はそれでいい。
「俺が守るのは――国ではない」
王子の瞳が私を捉えて離さない。
試験だったはずなのに、瞳の熱が違う。
その言葉の続きが落ちる直前。
温室の扉が、強く開かれた。
空気が流れ込む。
均衡が、さらに崩れる。
足音。
報告。
捕縛。
遅れてやってくる“外の現実”。
だが。
私は視線を動かさない。
王子も同じだった。
言葉の続きだけが、この場に残されている。
だが――この男は試験をもう受けていない。
――すでに選び終えているかのように。
そして、私の耳に届く音は全て遠のく。
僅かに見た視界は王子の輪郭だけを捉えていた。




