第21話:空白
屋敷に戻った時、すでに朝のざわめきは消えていた。
使用人たちは、いつも通りに動いている。
廊下には足音があり、遠くでは食器の触れ合う音がする。
――何も変わっていない。
それでも。
どこか、遠く感じられた。
「お嬢様、お戻りでいらっしゃいますか」
侍女の声。
振り返ることなく、私は小さく頷く。
「ええ」
それだけを返す。
それ以上の言葉は、私たちには必要なかった。
私室へと向かう足取りは、いつもと同じ。
乱れも、迷いもない。
扉が開き、閉じる。
静寂が戻る。
私はソファーに腰を下ろした。
背もたれに体を預けることなく、姿勢を保ったまま。
しばらく、何も考えない。
考える必要も、なかった。
ふと、指先が動く。
無意識に。
何かを掴もうとして――
止まる。
そこには、何もない。
……そうでしたわね。
視線を落とす。
空の手。
軽い。
あまりにも。
ほんの一瞬だけ、力を込める。
けれど、すぐに緩めた。
――いけませんわね。
私はゆっくりと立ち上がる。
窓辺へと歩く。
カーテンをわずかに開けると、昼の光が差し込んできた。
眩しい。
思わず、目を細める。
空は高く、どこまでも澄んでいる。
遠く。
見えない場所へと続いている。
……もう、夜ではありませんのね。
祈りを捧げた月は、どこにもない。
私はカーテンを閉じた。
それ以上、外を見ることはなかった。
「お嬢様」
背後から、静かな声。
「本日のご予定ですが」
彼女も普段通りに戻っている。
だから、私も……。
「予定通りで構いません」
間を置かず、答える。
侍女は、ほんのわずかに息を止めたようだった。
だが、すぐに頭を下げる。
「かしこまりました」
いつもと同じやり取り。
何も変わらない。
何一つ。
――そう。
何も。
変わってなど、いない。
それから。
季節が、巡った。
春が過ぎ。
夏が訪れ。
秋が静かに落ちていく。
そして――冬。
気が付けば、一年が過ぎていた。
午後のサロン。
いつもの時間。
いつもの場所。
整えられた空間に、私は一人座っている。
テーブルの上には、丁寧に用意された茶器。
湯気の立つ紅茶。
向かいの席は――空いていた。
周りは上級階級らしい会話で盛り上がるっていた。
「……」
誰も来ない。
それでも、私は待っている。
いつも通りに。
背筋を伸ばし。
視線を落とさず。
微笑みを浮かべたまま。
扉は開かれない。
足音も、ない。
静寂だけが、ゆっくりと広がっていく。
紅茶の香りが、わずかに変わる。
温度が、落ちていく。
それでも。
私は、ティーカップに手を伸ばさない。
――冷めているはずなのに、そう思えなかった。
ただ――
そこにあるものを、見ていた。
――本日の試験は。
婚約者候補は、誰も訪れない。
それだけのこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
私は、静かに息を吐く。
そして。
何事もなかったかのように、言葉を落とす。
「……では」
誰もいない席へ。
「始めましょうか」
返事はない。
当然だ。
けれど。
それでも構わなかった。
私は、問いを続ける。
「あなたは――」
その言葉は、空へと溶けた。
誰にも届かないまま。
静かに、消えていく。
それでも。
私は、止まらない。
止める理由が、どこにもないから。
――試験は、続いている。
誰も来なくなっても、終わらせる理由がないのだから。




