母の面影
横須賀基地の近郊に、小さな公園がある。小さな遊具と砂場があるだけの公園に、今や子供が遊ぶ事など無い。大人だって用があって近寄る事など皆無であろう事が分かる。
しかし、確かにいる。三人の人間が。
中村ヒマワリは、公園内を嬉々として走り回る小さな少女を見据えながら、目を見開き、隣に立つ最愛の妹である中村スミレへ向け、恐る恐る問いかけた。
「スミレ、あの子は」
「初春の隠し部屋に居たんだ。本当に運が良かったよ。あのまま放置してたら、あの子は」
「【遺産】――なのか?」
「うん。睦さんが調べてくれた。あの子は間違いなく、遺産だ」
砂場に備えられた熊の手やスコップ、バケツを用いて、砂のお城を作っている様子が見受けられる。
年はいくつ位だろう。まだ幼さを残してはいるが、第二次性徴が始まっている身体つきを見るからして、十二歳程度ではあるだろう。
しかし幼子のようにはしゃぎ、砂をバケツの中に入れ、バケツをひっくり返し、塔を作って笑っている少女の顔は――ヒマワリの頭へ焼き付けるように、しっかり記憶されていく。
「――お母、さん」
ボロボロ、と。溢れ出る涙を、抑える事が出来なかった。
ヒマワリは、頬を伝う涙をそのままに、少しずつ、砂場で遊ぶ少女へと、近づいていく。
そんなヒマワリの様子に気が付いたのだろう。少女は立ち上がってヒマワリの元へと駆け、彼女の手を握る。
小さな手、幼い手、しかし少女の温もりは――ヒマワリが追い求めた【母】の温もりと、同じ。
「お姉ちゃん、どうしたの? どこか痛いの?」
少女は、ただ問いかける。ヒマワリが泣いている理由が、分からないから。
分かる筈など無い。少女はヒマワリでは無い。ヒマワリがこれまでの人生で培ってきた経験を、持ち合わせてなどいないのだから。
「違う……違うんだよ」
「じゃあ悲しいの? 悲しい時は涙が出ちゃうって、本に書いてあったもん」
【マリナ】と名乗った少女は、首を傾げて、尚も問いかける。
「そう、そうだな。でも、少しだけ違う。悲しいだけじゃない。嬉しいんだ」
「嬉しいのに、泣いちゃうの?」
「人間は、複雑なんだ。嬉しくても涙は出る」
「アタシ、嬉しくて泣いた事、無いよ?」
「いずれ分かるよ――なぁ、マリナちゃん」
ヒマワリは、思わず声を出してしまう。続けて出そうとした言葉を、一度だけ喉の奥へと引っ込めて――
しかし溜め続ける事など、出来やしなかったから、確かにマリナへ、問いかけてしまう。
「お姉ちゃんと、一緒に来ないか? お姉ちゃんが、外の事をいっぱい教えてあげる……私は、マリナちゃんと、一緒に居たい」
素直な気持ち。素直な願い。ヒマワリは、涙を流しながらも、しかし確かな笑顔を持って、マリナへと願い出るのだ。
「うんっ! アタシ、お姉ちゃんと一緒にいるっ。だってお姉ちゃん、泣き虫さんだもん」
あはっ、とマリナが笑う。溢れ出る涙が止まらない。
まるでダムの崩壊のように、勢いを増して、ヒマワリの体内から水分を奪っていく。しかしそれでいい。それでいいのだ。
「ああ、ああ……っ、お姉ちゃん、泣き虫だから……っ、ずっと……一緒に居てくれ」
かつて愛した【母】の面影を、一人の少女に重ねながら。ヒマワリは、マリナを強く抱きしめ、涙する。
この涙を――抑える必要など、無いのだから。
**
二十二時半の事である。
成田空港の構内で搭乗手続きと危険物チェックを済ませた真船軌跡、伊勢真里菜、瀬川美奈子の三人は、搭乗ゲート付近のガラス奥に見えるジェット機を二つ視界に入れつつ、口をポカンと開けていた。
小さなジェット機だと、軌跡は感じた。周りに点在する航空会社の機体と比べて、一回り分小さい事も理由の一つだろう。
しかし大きな翼を有し、それが空高く飛び立つ事を知っている軌跡にとって、その存在こそが驚くべきものだ。
――なにせ二つのジェット機は、中村ヒマワリ【個人】が所有する物だと言うのだから。
「荷物の搬入は完了。蕾、神姫、刹那の三機も順次、一番機と二番機に搬入される」
「本当に二機とも、先生の所有物なのですか?」
「ああ。連合に所属していた時に使わなかった危険手当と退職金がたんまりと残っていたので、二機とも一括購入だ。これも税金対策という奴かな」
「はえー……いっぱいお金貰えるんですねぇ、軍人さんって」
「瀬川、連合は軍とも呼ばれる事はあるが、正式には軍じゃ無い。それにあの時は、一歩間違えれば、死の世界だったからな」
「今は違うと?」
「現在は巣の監視と爆撃技術が向上した結果、少なからずクシュラとの戦闘で死ぬ危険性は格段と減ったよ。それに私は【対AD戦闘】もやってたからな。死傷率は対クシュラよりも高かった」
「連合の人間が対AD戦闘、ですか?」
「ま、今は忘れなさい。それより、だ」
そこからヒマワリは教師としての言葉を連ねていく。
これから向かう場所は外国だから日本の常識は通用しないだの、水や食糧などの口にするものは信用に足るものだけにしろだの、困った時には日本大使館に駆け込むようにだの――彼女自身も退屈そうな表情で語っているので、三人も適当に聞き流している。
全て語り終えたヒマワリは、そこでようやく何時も通りの表情に戻り「さて」と一拍置いてから、乗降について説明を始めた。
「今から乗るジェット機は、訓練用ADを乗せる重量の関係上、乗務員を除き、二人ずつに分けて搭乗する」
「二人ずつ、ですか?」
美奈子が言葉を繰り返すと、ヒマワリも頷く。
「一番機には私と軌跡ちゃん」
「えぇ――!?」
と、そこで真里菜が嬌声を上げて驚いていた。
顔面を蒼白にさせ、何やら思いつめた表情で目を見開いているので、軌跡と美奈子が表情を合わせた。
「では、瀬川と真里菜さんが二番機に搭乗、という事で?」
「その通りだ。瀬川、真里菜を頼むぞ」
「あ、はい。分かりました」
「軌跡ちゃんは構わんか?」
問いかける割には、ヒマワリの声に、軽さは無い。
重たい口調で、まるで拒否は許さんと言わんばかりに軌跡を睨み付けているので、軌跡も負けじと睨み返す。
「別に構いやしませんが……理由を聞かせて頂けるんでしょうか」
「ああ。機内でたっぷりとな――『軌跡君』?」
彼女が小声で呟いた、軌跡の呼び方を聞いて、ヒマワリと同じ機に乗る理由が、真里菜と美奈子に聞かせる事の出来ない内容である事を察した軌跡は、ジッと彼女と見つめ合った後に、コクリと頷いた。
「よし。では先に我々が搭乗するぞ。その後に二番機の搭乗が許可されるので、指示に従う事。分かったな。瀬川、真里菜」
「はいっ」
「……はぁい」
それぞれ返事を返した二人の答えに納得したヒマワリは、軌跡の肩に手を置きながら、歩き出す。
そんな二人の様子を見届けた後、美奈子がチラリと真里菜へと視線を向けた。
彼女は未だに、何か恐れる様に俯きながら、下唇を噛んでいるようだった。真里菜へ「座ろっか」と提案すると頷くので、近くにあったベンチへ腰かけ、フッと息を吐いた。
「どうしたの、真里菜ちゃん。元気ないよ?」
どうしても気になってしまうので、つい尋ねてしまう。
それと同時に自分が如何に残酷な質問をしたか、それは美奈子本人にも分かった。
真里菜は嘘をつく事が出来ぬ子だ。自分が問えば、彼女の不安や悩みを、全て打ち明けさせねばならぬ事と同義である。
だがこれから二人は、同じ機内で二人きりとなる。
そんな時間を過ごすと言うのならば、少しでも真里菜の心配事は解消しておきたいと考えた美奈子の言葉を、真里菜は理解していたのだろう。
「美奈子ちゃん……あ、あのね。怒らないで、聞いて欲しいんだ」
「? うん」
恐れる様に声を震わせながら、真里菜が言葉を紡いでいく。
自分は怒るような事をされたのだろうかと考えるが、何も思い当たる節が無く、首を傾げながら、彼女の言葉を待つ。
「アタシ、その……もしかしたら、軌跡ちゃんの事……好き、かもしれない」
「え」




