37.紺青
「……う、あ?」
口内に広がるのは、己の不覚故の忌まわしき味。ユウヤは不快感に眉を顰める。
しかし、この身体が痛みに震えることはない。
おそるおそる目蓋を持ち上げる。視界は、何かの影で薄暗く覆われていた。
血潮は、ユウヤの内側から溢れ出るものではなかった。
びしゃり、と大きく散ったものがユウヤにぶつかっただけ。
そして、その出所はユウヤではなかった。
暗さの訳は、影だった。
それは、これまでユウヤの命を刈り取ろうと残酷に飛び回っていたはずだった。
影は、ユウヤより小さな体を両手をいっぱいに広げ、立ち塞がっていた。
それは僅かにゆらめき、こちらを振り向こうと体を捻るーーことが出来ず、膝から崩れ落ちる。
刹那に交差した視線は、安堵の色を見せていた。
目の前で揺れる、相対する彼女とは異なる青。己を守った紺青が、崩れた。
仰向けに倒れ伏したその時に力なく傾いた首は、ちょうどこちらを向いている。
は、と赤い息を吐き、緩く微笑んでいた。
体の前面からは、複数の裂傷による出血。口から次々と溢れ出す血の塊はごぼりと音を立て、彼の呼吸を妨げる。
ーー動けない。
ちかちかと、その瞳は意識の狭間を揺蕩う。きっと、何か告げようしていた。
口元を震わせるが、それは。
「ぐ、ぷ……ッ」
ごぷりと、そこから赤が漏れる。口から大量の血の塊を吐き出し、ぜいぜいと嫌な呼吸音を繰り返す。
「ゆ、や。だ、じょ……ぶ……?」
息の切れ間に紡がれた言葉。その意味を受け入れるのに、ずいぶん時間を使ってーー直後、できなくなってしまった。
ーーあの時も。
かつての光景が、重なる。呆然と眺めていれば、『今』が動いた。
そろそろと滑った指先がわずかに持ち上がる。
ーーまた、届かない。
震えを止められぬまま、伸ばした手。
応えるように、震えながら伸ばされた手。
それが目的を達することはなかった。
ぱたり、と軽い音を立て、落ちていった。
命を含んでいるくせに、とても、とても軽い音で。
それは、いつかの記憶。
伸ばされた手が遠ざかっていった。追って掴まえた手が冷えていった。
そんな、あの日を想起させた。
ただ、時は『今』だ。
今、この瞬間、それは目の前に。
「アイム……?」
いつかこの手で救ったはずの人間。
それが、今はどうだ。ぴくりとも動かず、血の中に身を浸している。雨で流れた血液が、渦を巻きながら水たまりを侵食していく。
昼から深夜へ、光から暗闇へ。眼前に広がる光景が、あの日のものへと変わる。
転がる人間の身体が三つほど。立っているのは自分だけ。
何も、できなくて。
力の入らない体で立ち上がり、前へ踏み出す。
「いやだ」
いつも熱いくらいの体から、真っ赤な熱のもとが流れ出す。
「おいて、いかないでくれ」
徐々に下がる瞼は、もう開かない。
「ひとりに、しないで……」
伸ばされた手が、触れることはない。
決して。二度と。
冷たくなる指先とは裏腹に、頭は沸騰しそうなほど煮えくり返っている。
ああ、耳鳴りがうるさい。
ユウヤの中の何かが、喧しく叫ぶ。正体のわからないそれが感情へ侵食し、塗り替える。
そして、言語化に至る。
ーー報いを。
身を焦がすほどの怒りは、その手に剣を握らせた。
見ずとも分かる。これは、いつかの炎の剣。
怒りを源に顕現したそれは、使用者の肌をも焦げ付かせる火花を散らす。
ごうごうと鳴る火を握り、立ち上がる。標的はただ一人。眼前に立つ者。害意を持ったそれ。
目線をひとつに定め、踏み出す。
時折目障りな影が辺りを走り抜けるが、炎の前に霧散する。それらを無視し、歩みを進める。
幾度も迫る影は、炎の前に姿を消していく。憤怒の炎は、襲い来る影の全てを喰らい尽くした。
荒く地面を擦る音が聞こえる。
それは誰かが踏み出す音であり、誰かが後ずさる音でもあった。
一つ進めば、一つ下がる。同じ行動の先、歩幅の差で距離が近づく。
小さな体を見下ろせば、それは呆けたように蹲み込んだ。もはや、戦闘を続ける意志などないだろう。生への意志さえ、同じことかもしれない。
炎剣を真下に向けて握り直し、喉元に刃を突きつける。
紺碧は瞬きもせず、降り注ぐ火の花弁を見つめていた。己の瞳にも、同じものが映っていることだろう。
最期の光景を共有するのはひどく業腹だが、それでも構わない。
互いに等しく炎を宿す。激情と恐怖の差など、些末なものだ。
全て、焼き尽くすのだから。
なだらかな喉元に切先を滑らせる。微かな音、焦げた匂いを近くしたその瞬間、何かが体に衝突した。
脇腹を中心として狙われたその動作は、己を排除するには至らない。むしろ、相手がその場に転がった。
しかし、まさに振るわれんとしていた炎剣の軌道が逸れ、女の薄皮一枚のみを切り取って地面に突き刺さる。血の一線が滴り落ちたことを見届け、改めて妨害の原因に剣を向ける。
これもまた、女だった。
想像よりも素早い動きで身を起こしたかと見れば、血を流しながら呆然と空を見上げる女に覆い被さった。
火の粉を浴びながら、それを気にした素振りもない。そして、顔を上げ、言った。
「どうか、それだけは」
まっすぐにこちらを見据え、それ以降口を開かない。
この行動には、何の意味があるのだろう。
己が相手取るべきは庇われているそれで、被さっているそれではない。
僅かに芽生えた虚無の情に、動きを止める。
ふと、後ろを振り向く。
今なら、動くようになっているかもしれない。ほんの少しだけ、そんな『もしも』を望んで。
そうでなくとも、この身を動かす原動力として、再確認しておきたかったーーのかも、しれない。
本当に、些細な思いからだった。
ーーそれなのに。
いつの間にか、姿が無くなっていた。
事態を受け入れられず、数秒硬直する。前方から風を切る音が聞こえ、状況に気がついた。
攻撃を知覚した瞬間、腹に何かが巻きついたかと思うと、そのまま後ろへ引かれる。そして、視界が暗く閉ざされた。
誰かが目を塞いでいる?
導き出した攻撃の原因とは異なる何かを引き剥がそうともがく。
きっと、振り解くのは容易かっただろう。ただ、そうはならなかった。
「ユウヤさん!」
ーー声が聞こえた。
その瞬間、思考が晴れる。靄がかっていた頭が、何かを取り戻したような心地だ。
即座に現状把握に移る。
視界と動きを遮っていたのは、タクヤ。今なお、ユウヤは羽交締めにされている。動きを止めたユウヤに安堵したのか、長いため息をついていた。
次に、首だけ後ろを向く。
ユア、リズが寄り添って立っている。その近くにソウタ。ユウヤの斜め前、肩で息をしているヒナリ。
こちらに背を向けて跪くアイリ。そして、その目の前に横たわるーー
「アイリが治すから、大丈夫! ユウヤさんは、自分のことやって!」
ユウヤには視線をよこさず、忙しなく手を動かすアイリ。
アイムだ。
身を挺してユウヤを庇い、致命傷を負ったはずだった。
近づいて姿を覗き込めば、意識はなくとも、わずかに顔色を取り戻している。血の痕はあれど、新たな出血は見られない。命の危機を脱するまでの手当が済まされていた。
ひどい怪我を負ってしまっている。それでも、命は取り留めた。
全てを確認し終え、全身の力が抜けていく。支えきれなかったか、タクヤの腕からは放り出された。
ちらりと振り向けば、腕組みをしたタクヤが無言でこちらを見下ろしていた。
威圧気味の雰囲気に耐えきれず、ユウヤは目を逸らす。
やらかした、とは思っている。我を忘れて暴れてしまったのだと、理解してはいる。ただ、ここで『その時の記憶が曖昧だ』などと言えば……
しかし、頭を鷲掴みにされ、強制的に首を戻される。
「下がれって言ったでしょ」
目線を合わせながら、普段から考えると硬い声が言う。
「……そんなこと、言ってたか?」
たっぷり間を置いて、結局何も手立てが浮かばず、口走ったのがこれだ。
タクヤが微笑んだ。
その笑顔を見て、『やらかした』、とユウヤは思った。
「いってぇ!?」
ばちん、と額が弾かれる。痛む箇所を手で押さえれば、タクヤは立ち上がり、また冷めた瞳でこちらを見た。
「前のお返し。俺だって痛かったんだよ?」
いつの話だよ、と思いはしたが、口には出さない。なぜなら、この一瞬で学びを得たから。
「ま、怪我がなくてよかったけどさ」
ふ、と息を吐いて、タクヤが話し始める。
「俺の魔術じゃ、あの子には効かない。影を操ったところで、逆に制御を奪われるかもしれない。だから、ユアとリズと里の人には頑張ってもらうとして……」
一呼吸おいて続けた。
「君は俺と組む。いいね?」
首肯を返す。
魔術での支援が可能なユア、呪術を扱える残りの人間。ここに当てはまらない人間が混ざったところで、妨害をするだけになりかねない。となると、残り物二人で動くことになるのは当然だ。
「あの子は虹だ。これまで通りだと、殺すことになる」
「そのことなんだがーー」
あの攻防の最中に見た、ほんの一瞬の一筋の光を説明する。
そして、できることなら彼女を取り戻したいのだと。
全てを聞いたタクヤの顔は、やはり険しい。当然、わかってはいたが。
しかし、すぐにその険を納め口を開いた。
「話はわかったけど……戻る時の条件も、再現性があるのかどうかもはっきりしない。それをぶっつけ本番でやるって?」
静かにこちらを見下ろすタクヤ。その言葉は、あまりにも当たり前のものだ。
「迷ったら死ぬ。それは理解してるよね?」
もちろん、わかっている。
タクヤの言っていることも、アレンの教えも、それはユウヤに刻まれた全てなのだから。
「それでも、助けたい」
自分でもわかっている。
どれだけ矛盾にまみれ、馬鹿なことを言っているかなんて。
ただ、ここで取りこぼさなくても良い命かもしれない。たった一瞬、その一縷の希望が、ユウヤを矛盾にとどまらせていた。
可能性があることが、今のユウヤの腕を鈍らせている原因なのだ。
タクヤは深く息を吐いてーーそれはそれは、長い息を吐いて。
「そうかい」
一言呟き、また息を吐いた。
それは諦めだった。きっと、ユウヤにとっては良い方向の。
「こっちの命優先、努力はする方向でいこうか」
さて、と気持ち上げられた声音が、こちらに手を差し伸べる。
「二人でやるのはシャーロットぶりだ。まさか、忘れてないよね?」
「当たり前だ。あんなの、忘れられるわけねぇだろ」
ユウヤを立ち上がらせ、タクヤは笑う。
たったそれだけで、全てがうまくいくような気にさせてしまうこの男は、物理的な攻撃力ではない恐ろしいものを秘めている。
そう思いながら、ユウヤは踏み出した。
「それならよし。さあて、行くぞ。ーー少年?」




