第七話 ― 遊びの代償
その場所から漂う臭気にハルは思わず、手で口元を覆う。生理的な不快感を煽るその臭いに彼の目じりに涙が浮かんだ。そんな彼の顔をアヒムとアリスは何事か、といったふうに覗き込む。
「急にどうしたんですか?」
「……調子、良くないの?」
アヒムは急に顔をしかめたハルを不思議に思い、アリスは彼を心配するようにそれぞれ声をかけた。
「酷い臭いがする」
「臭い? 何か感じますか?」
「わたしには、よく分かんない……です」
二人はハルの言葉に首を傾げる。しばらく鼻に注意を向けて嗅ぎ取ろうかと努力しているようではあったものの、どうやら無駄な努力に終わったらしい。
「そういえば忘れかけていましたけど、貴方は獣人でしたね」
「半分、な」
ハルたちのやり取りを聞き、アリスが不思議そうに尋ねる。
「それが何か関係あるの?」
「獣人というのは肉体的に強いだけでなく、五感においても人間よりもずっと優れている場合が多いんですよ」
そして、それは半獣人であっても同じであった。ハルもアドニスなどには後れを取るものの、その辺りの人間と比べれば、そういった能力に関してはずっと鋭敏だ。ちなみにハルがこの世界で香水を作るに至った経緯にもこれが関係していたりする。
「ごかん?」
「つまり鼻がよかったり、遠くのものがよく見えたり、耳が良かったりってことだよ」
アリスの疑問にハルが答える。そのせいで初めにこの村に来たときは大変だったことをハルは今でも鮮明に覚えていた。家にはアドニスがいるおかげでフィーリアもかなり気を配っていたようで、時々気になることはあってもそこまでではなかったのだ。
けれども、村となるとそうは行かない。所々から漂う悪臭に慣れるまでハルにとってはまさに地獄であった。その時、初めて彼はフィーリアの努力を知ったのである。
「便利そうな能力だと思っていたんですけど……どうもそうでもないみたいですね」
依然、鼻を隠すハルに哀れみの視線を向けながらアヒムは言う。
「……生まれてこのかた、半獣人で得したことはほとんどないさ」
精々、薬草の採取に役立つぐらいだろうか
「もう! そんなこといっちゃダメだよ!」
自分を卑下するようなハルの物言いを聞きアリスは彼を窘める。そんな彼女に”ゴメンゴメン”と軽く謝ると一向は再び件の空き地へと足を向けた。入り口さえ草に覆われたのその場所には既に耕作地として開発しようとしていた面影は残っていない。時の流れを感じさせるような、もの悲しさを漂わせた薄暗い道がただ続いている。
「ねぇ、ところで、どうしてこんなところに来るの? 落し物を探してるんだよね?」
不安を感じたのかハル隣に立ったアリスが二人に聞いた。
「あー、いや、その……」
「実はその前に私の用事に付き合ってもらっているんですよ。ここには珍しい香草の類が自生していると彼に聞きましてね。私も彼の探し物に付き合う代わりに、というわけです」
”そういえばそういうことになっていたな”と今更のように思い出し、弁明しようとするハルに代わってアヒムが答える。そんなアヒムに対しいまだに慣れていない様子のアリスは”そうなんですか”とどこかぎこちなく言った。
そんなギクシャクとした雰囲気のまま三人は空き地の入り口と思わしき、場所から道沿いに進んでいく。道とは言っても足元には雑草が生い茂り、突き出した枝が道を塞いでいたりと、ほとんど人の出入りがないことが分かった。偶に不自然に草が倒れているのはグレッグがここにきたからなのだろうか、とハルは考える。
「それで、鼻のほうは大丈夫なんですか?」
先頭に立ち草を分けながら進むアヒムが前を向いたままでハルに尋ねた。
「大丈夫じゃない……が、多少は慣れたよ。臭いはむしろ酷くなっているようだがな。アヒムもアリスもまだ何も感じないのか?」
「うーん、少し変な臭いはする……気がする」
「そう言われてみると」
初めから臭いを感じているハルにはソレが強くなってきたことしか分からない。しかし、他の二人もどうやら気付き始めているようではあった。
「アリスは村に戻ったほうがいいんじゃないか?」
確信に変わり始めた推測を頭の中で整理しながら、ハルは自分の手を引きながら歩くアリスに言う。
「えっ、どうして? まだ、探し物も見つかってないよ?」
「何と言うか、その、たぶんこの先には屍骸がある」
ストレートな言い方ではあったが腐敗臭から判断すれば、その状態が酷いことなどハルには容易に分かった。そんなものを子供に見せれば、最悪の場合、トラウマになりかねない。それにアリスがいないほうが行動しやすいのだから、むしろここで引き返させるほうがお互いのためだ、とハルは判断する。
「でも、ハルくんは行くんでしょ? 大丈夫だよ、わたしだってあの村で育ったんだもの!」
”わたしのほうがお姉さんなんだから”とアリスはハルに笑いかける。
確かに曲がりなりにも村育ちの彼女なら屠殺場くらいは見ていてもおかしくはない、とハルは思う。だが食肉用に殺されるそれとは話が違う。
「だけど――」
「だったら、ハルくんも帰ろうよ?」
「それは……」
そう言われてしまうとハルには返す言葉がなかった。仕方なくハルは彼女を連れて行くことにする。
そんな二人をアヒムは珍しいものを見たといった感じに観察していた。
「何か言いたいことでも?」
「いいえ、貴方にも苦手なものがあるのだなと思っていただけですよ」
微笑ましい光景でも見るような目を向けるアヒムをハルは睨む。その視線から逃れるようにアヒムはハルから目を逸らした。
「あ、あれが、例の空き地ですか?」
慌ててアヒムはすぐ先に見える開けた空間を指差す。その言葉にハルとアリスは指の先へと顔を向けた。その場所だけ周りと比べて草が少なく、木も切られている。整備途中で棄地されたことを裏付けるように所々に最後まで処理されなかった切り株が残っていた。
「こんな場所あったんだ」
「それにしてもどうしてここに作ろうと思ったのか」
驚いたように呟くアリスの横で、アヒムは理解できないといった様子で辺りを見回す。地面を掘っている途中に出たのか多くの石が隅のほうに集められている。それでも処理し切れなかったのであろう小石は片付けられないまま放置されていた。
「見た感じあまり大きな石は無かったようだし、多分、少し掘ってみてようやく気付いたんだろうさ」
「場所の確保をする前に確認するべきでしょうに……」
「今はちゃんとそうしてるよ?」
アリスの言葉を聞き”一応学ぶものはあったのだな”とハルはこぼした。
「……それにしても、特におかしな様子はないようですね。もっと死体が山積みになっているのかと」
「連続殺人犯の住処にいるわけじゃあるまいに……」
「えっ、えっ? 死体って何のこと? 香草を取りに来たんだよね?」
”屍骸があるかもしれない”
ただ、それだけ聞かされていたアリスは”何の話しているの?”といった様子で二人に尋ねる。
そんなアリスを無視してハルは空き地のさらに奥へと歩を進めていく。
「ふむ、”特におかしな様子はない”って言うのも早計じゃないか?」
「つまり、そっちにあるわけですね」
その問いかけに無言で頷き、空き地のさらに奥へと進む。見てみると雑草が生えた一部分に誰かが踏み固めたような道ができていた。二人の後ろをアリスもついて歩く。
空き地の奥へと道なき道をしばらく進むと三人はようやくソレを見つけた。
「……これは」
「臭うはずだな」
一本の立派な木、そこに何重にも回され固く結ばれた太い縄に、それは括りつけられていた。何度も逃げようと試みたのであろう、幹には縄がすれたような跡がはっきりと残っている。そこに繋がれた既に生きることをやめた肉塊には虫がたかり、酷い臭いを発していた。
「う、うぐっ、うぇっ」
止めておけばいいのに、覗き込んだアリスがそんな奇妙な音を喉から搾り出すようにしてえづいている。
アリスはソレを見るまでは問題ないと考えていた。村で屠殺現場を見たときもこれほどの不快感はなかったのだ。けれど――
既に半ば白骨化したようなその遺骸にはこれまでの経験にはないような嫌悪感をもたらすものがあった。臭いだけではない、生物として壊れた姿やそれにたかり蠢く無数の生命。アリスは内側から食い尽くされるソレを想像し眉をしかめる。
”これなら、言うとおりに待っているべきだった”
目の前のソレに同情するでもなくアリスはただそんなことを思っていた。
無表情で顔色だけを悪くする彼女を横目に見ながらハルは”嘔吐しなかっただけでも、すごい精神力だな”と彼女を評した。最悪泣き出すのではないかとハルは思っていたのだが、彼女にそういった動揺は見られない。あるのは気持ち悪い物を見たという思いだけのようであった。
「部分的に白骨化しているな。動物が食った可能性もあるが、最近死んだわけじゃあなさそうだ」
「あの女性の話だと村長の息子さんは最近も来ていたそうですけど……」
「空き地ならそこまで臭うわけじゃあないにしろ、さすがに臭いに気づかないってこともないだろうし、知っていて黙っていたか、あるいは――」
「殺した張本人ってわけですか」
まぁ、そんなことをしたくなる心当たりもあるからな
ハルが心の中でそんなことを考えていると、ようやく多少気分がマシになったのか、青白い顔で口元を押さえながらアリスは口を開いた。
「……これって、野犬、なの?」
二人の後ろに隠れ、死体を見ないようにしながらアリスは尋ねる。
屍骸の体毛は薄汚れた黒っぽい色をしており、その見かけの特徴は犬と一致している。サイズ的にも少し小さめの犬くらいだ。
「まぁ、そうでしょうね。確か森にもいるのでしょう? 大方、怪我でもしていたのを捕まえて、ここで虐待していたんじゃないですか?」
アヒムは死体を見ながらは吐き捨てるようにそう言った。
ハルも同じような考えだろうと、予測していたアヒムであったが、彼はアヒムの言葉に口を挟まずただ難しい顔でなにやら考え込んでいるようであった。
「どうかしたんですか?」
アヒムが問いかけるもハルはしばらく黙ったままだ。
”いい加減、何か喋って欲しい”などとアヒムが考えているとハルはようやくその口を開く。
「なぁ、アヒム――」
ハルは死体に向けていた顔を上げアヒムを見る。
「――コレは本当に野犬なのか?」
次話は三日以内を予定しています。