第八話
「そういえばお会いするのは初めてですね。私、此比良桜夜って言います。どうぞよろしく」
「こちらこそー。あ、私は一色円ね。それで、こっちは桐嶋忍先輩」
互いの自己紹介を口火に和気あいあいと桜夜と円が盛り上がる最中、隣の席ではまるで鏡合わせのように仏頂面が二つ向かい合っていた。
「…………」
「…………」
司は頬杖をつきながら必死に窓側へと視線をずらしている。目の前の人物の姿を目に入れたくないと頑なに、眼下に広がる国道を走る車を意味もなく視線だけ追い続けていた。注文したコーヒーには一切手を付けていない。付ける気もなかった。
対して、向かい側に座る桐嶋忍もまた仏頂面で頬杖をついていた。時折、胸ほどまで伸びた髪を静かにかき上げながら注文したダージリンティーを一口つける。
薄桜色の唇、星の無い夜空のように艶やかな黒髪に令嬢然とした気品ある佇まい。しかしその面影は昔と変わらない――遠い遠い過去の幼馴染。
横目でちらちらと様子を窺う自分が、何故か酷く矮小な存在に思えてしまうのは現在と過去とで生じた距離感からか。
「久しぶり、だな」
「……そうですね」
視線は窓の外側を向いたまま言葉だけで返す。
沈みかけた夕陽がビルの合間から漏れている。眩しい気もするが、いっそ眩しいまま何も見ずに済むならそれでいいと諦めた。
カチン、と小さな音が立つ。忍がカップをソーサーに置いた音だということは見るまでもない。
忍の言葉から数十秒が経過。
それきり忍は何も言わないし、司も何も答えない。彼女はともかく、今の司には話したい言葉の持ち合わせは無い。
隣できゃいきゃいと談笑が弾む中にも関わらず二人は無言。そもそも今の二人は“先輩”と“後輩”、或いは“男”と“女”であって、知れず男女を意識してしまうこの年頃ともなると昔ほど気安く話せる境遇では既に無かった。
「……十年ぶりか」
「……そうですね」
お互いに喪に服したかのようなトーンでぽつぽつと、傍目には会話と映らないような拙い言葉のやり取りを続けている。
気分が悪い。
居心地が悪い。
帰りたい。
今すぐに脱出したいのは山々だが、桜夜に物理的に強引に席へと押し込まれ、さらに彼女自身が蓋をするような形で司の隣に腰を下ろしてしまい身動きが全く取れなかった。
「……あまり、変わってないようだな」
「……そちらこそ。お変わりないようで」
十年も経てば背も変わるし声も変わる。司だって背は伸びているし、忍に至っては目のやり場に少々困るほど胸部の自己主張が激しい。
……だから、何なのだろう。
こんな話にいったい何の意味があるのだろう。
完全に冷め切ったコーヒーを見下しながらため息を吐こうとしたその時だった。
「そういえば、先輩と蒼井くんってどういう関係なんですか?」
円の声が沈黙し合う二人の間をバッサリと切り拓く。
司は毛頭答える気はなかったのだが、意外なことに忍がぽつりと答えた。
「……幼馴染。と言っても、出会ってから十年ほどの空白があるが」
「空白?」
「小学一年の時に司が引っ越した。で、つい最近ここに帰ってきた……そうだろう?」
「……えぇ、そうです」
窓の向こう側の景色を見つめたまま司は答える。
そんな司の態度が気に食わなかったのか、窓ガラスに反射する忍の顔が僅かに歪んだ。司は見て見ぬふりを決め込み目を閉じる。
「……えぇっと?」
円としては、淀んだ場の空気を和ませようとしたついでに、常日頃からクールで地を通している先輩の淡い恋話を期待したつもりだったのだが、二人の険悪な雰囲気に呑まれ思わず言葉を失ってしまった。
ほぼ初対面の桜夜に救済を求めるような視線を送ると、彼女もまたムムムッと眉間にしわを寄せ小難しそうな表情を浮かべている。
「……さ、桜夜ちゃん?」
ほとんど目の前にいるのにも拘らず、円の上ずった声は桜夜に届かなかったらしい。そのまま忍、司、桜夜の三人は時間が止まってしまったかのようにピタリと動きを止めてしまった。桜夜は忍を真剣に見つめ、忍は司を睨み、司は知らん顔。
「うわぁ……ど、どうしよう……」
部活を終えて忍を誘い、寄り道でストレス発散がてら他愛の無いおしゃべりに興じるつもりだったのに、突如現れた桜夜と司のおかげで場は一変。
頭上で軽快に響くBGMは全く空気を読めず完全に場違いで、今の円たちのテーブルには火曜サスペンス並みのシリアスな選曲が望ましい。
「……」
「……」
「……」
円が入店と同時に真っ先に注文したメロンソーダは、今の彼女と同じく冷や汗をびっしょりと垂らし、コースターの中で呆然と立ち尽くしていた。
※
「あの、ちょっといいですか!」
すっかりと日が暮れ、カスミハイツ最寄りのバス停で下車した時には既に夜の帳がしっかりと落ちていた。
両手に紙袋を抱えた桜夜がそのまま腰に手を当て、今からお説教しますよみたいに構えてから一言。司はそれを無視して階段をコツンコツンと靴音を響かせて上っていく。
「ま、待ってくださいよ! 私の話を聞いてください!」
「待たないし、聞きたくもない。もう俺の役目は済んで、これ以上関わる理由はない。じゃあな」
「忍ちゃんのこと、幼馴染なのにどうして名前で呼ばないんですか?」
「……あのなぁ」
うんざりしてきた司が階上で振り返ると、自然桜夜を斜めに見降ろすような形になる。こちらを見上げる桜夜の瞳はまっすぐ頑な、それでいて何故か悲痛な色を映している。演技なのか素なのかはともかく、その程度で司はたじろがない。
「今の俺とあの人は先輩で後輩。わかるか? 年功序列みたいなもんだ。おいそれとタメ口利けるような仲じゃないんだよ」
「そんなの関係ありません。アレは全部、司君が意図してやっているじゃないですか!」
「……何を根拠に?」
「見ていれば分かります! 私、忍ちゃんが可哀想で……」
桜夜の声が夜風に吸い込まれ消えていく。
理解不能だった。
何故彼女はそこまでして司、延いては忍をも気に掛けるのか。
桜夜とは数日前に偶然出会っただけで、それ以前の繋がりや関係はこれっぽっちもない。忍はどうか知らないが、少なくとも司からして見れば完全に赤の他人。それがどうして、他人の問題だというのに悲しみ、その顔を歪ませるのか。
……馬鹿馬鹿しい。
「お前には関係ない」
「ま、待ってください!」
振り返るつもりなど一切無く、司は桜夜の声を遮断するかのようにドアを思い切り叩きつけるようにして閉じた。階下で取り残された桜夜は、しばらく閉ざされたドアをじっと見つめ続け――やがてため息を漏らした。
「…………やっぱり、私の所為だ。私の所為で、司君は変わっちゃった……」
司と別れた途端、両手の荷物が急に重くなったような気がした。中身は衣類ばかりだというのに、今は鉛の溜まったバケツを握っているかのように感じる。
全て、自分が招いた結果なのだ。
司と忍の仲が悪くなっているのも、司が他人を嫌っているのも。
全ては、あの日罪を犯した自分の所為。
不意に見上げた月の光が眩しくて、桜夜は静かに涙を零した。
うぅん、どうも迷走気味な感じ;
とりあえずここで第一章は終了となります。
では、待て次回。