第四話
時刻は午前七時十二分。
申し訳程度にと付けたカーテンを開け放つと、真っ青な空に綿菓子を千切ったかのようなまばらな雲がぽつぽつと広がる清々しい空模様が広がっていた。
夜明けの風はキリッと冷たく爽やかで、胸いっぱいに吸い込むと全身の眠気がいくらか吹き飛んだような気がした。
「さて、と」
ワイシャツに袖を通し、壁に引っかけてあった制服をテーブルの上に放る。
そのまま顔を洗いに洗面所へ向かい歯磨きやら何やらを一通り済ませると、洗面所に設えてある鏡がコトコトと小さな音を立てて揺れ始めた。音の見当はだいたい付いていた。
「……おばさんか。何もこんな朝早くから掃除しなくてもいいのに」
カスミハイツの管理人である老夫婦のおばさんは還暦をとっくに迎えているというのに、暇さえあれば使われていない部屋を一人で掃除したりするという非常に溌剌としたご婦人である。感心する半面、その苦労の甲斐なくほとんど新居者が来ないことを哀れとも思う。
……それにしても、今日はやけに気合いが入っているらしく音の止む気配が一向に感じられない。コトコトという小さな音はガタガタと一段階レベルアップし、あまつさえ一瞬アパートが縦揺れするほどの衝撃と轟音が壁越しに響いてきた。押し入れの中まで徹底的にやっているのだろうか。ずいぶんと入念なことである。
そうこうしてるうちに身支度を整え終わりちょうど七時三十分。小気味いい音を立てながら階段を下りていくと、今度はおじさんとバッタリ出くわした。
「やぁ司くん、おはよう」
「お……おはようございます」
ここに越してきてから早二週間だが司は未だに馴染めないでいた。
決して老夫婦に対して苦手意識があるとかそういうわけではなく、これは単純に司の人見知りの性格故だ。
おじさんの朗らかな笑みに対し、ぎこちない作り笑いと軽い会釈だけ済ませてさっさと出かけようとした瞬間、おじさんの方からこんな言葉が投げかけられてきた。
「そうそう。今度司くんの隣のお部屋に新しい人が越してくるから、来たら挨拶とか忘れないようにね」
「……新しい人?」
踵を返したその先で、おじさんはこっくりとややスローモーションで頷く。
「司くんと同い年くらいの、めんこい子だったよ。たぶん司くんと同じ学校に転入……なんじゃないかなぁ? もしかしたら今日学校で聞かされるかもしれないねぇ」
「…………」
再び朗らかに微笑むおじさん。硬直した司の態度を見て年相応の面もあるんだなぁとか思われたのかもしれない。……その実、“めんこい”の意味が分からなくて固まっていただけなのだが。
おじさんの微笑みに見送られながら司は路地を往く。歩きながら、今朝の掃除はその“新しい人”とやらのための準備なのだと納得した。久々の新居者となればおばさんも張り切っているのだろう。司の聞く限り、あのアパートには数か月ほど新居者がいないという話だ。
「……ま、誰が来たって俺には関係無いんだけど」
歩き続けているうち、司の通う市立神在高等学校の白い校舎が見えてきた。
全校生徒の数は……正確な数字は忘れたが県の平均よりかは多いぐらいか。
校舎のすぐ傍には隣町とを分断する神在川があり、昨日司が帰宅していたのはこちらの河川敷側の道である。
さて、当然だが校門周辺や昇降口まで来れば登校してきた生徒で溢れかえっている。
ニコニコと笑い合いながら、正しく青春を謳歌してますよーとでも言いたげな女子グループ。
昨日は徹夜でゲームでもしていたのか欠伸しっ放しの男子生徒が横切れば、朝露のような汗をきらめかせるテニス部の女子数人、それに見とれている野球部員など十人十色の登校風景。
そんな中で司は極力目立たないように――と言っても、元から目立つタイプではないのだが――仏頂面で顔を引き締めながら歩きだした。なるべく、他人とは距離を取るようにして。
司は他人が苦手だった。
ここで言うところの他人とは自分以外の人間のことを指す。
昨晩の桜夜の話はともかくとして、幼少の頃から人付き合いに関して苦手意識が常に付きまとっていたのは事実だった。それが高じて今はすっかり他人嫌いで、事実司に友人と呼べるような人物はいなかった。
もっとも司は別に友人を欲したりなどはしていない。
他人との繋がりを酷くめんどくさいと心の奥底で決めつけている司にとって友人なんてモノは邪魔な存在でしかないのだ。
「――ッぁだ!?」
昇降口に辿り着き、自分のロッカーを開けようとしたその時だった。
取っ手に手を伸ばしたのと同時、背後から何かがぶつかり思い切りロッカーに顔面を強打した。
文句の一つでも言ってやろうかと振り返ってみると、そこに立っていたのは女生徒だった。
「ぅわ……わわわ!? ご、ごご、ゴメンナサイ! だ、大丈夫ですか!?」
「……ッ」
八の字に曲がりっ放しの眉に、おどおどと怯え混じりの気弱な瞳。背丈は司より数センチ小さい程度だろうに、上目遣いの所為か実際よりも小さく見える。今時珍しい(?)おさげ髪は気弱な印象をさらに強め、これで眼鏡を掛けていればクラスの端っこで読書が似合いそうな感じの少女だった。
「け、怪我とかしてない……? あの、骨まで折れたりとか、潰れちゃったりとかしてない……??」
「……ただロッカーにぶつかっただけだから。気にしなくていい」
なるべく感情を込めないよう平淡な声音で淡々と返し、司はそれっきりで終わらせるため足早にローファーへ履き替え立ち去ろうとした――それなのに。
「ま、まま待って待って!」
しつこい。
無視してそのまま進もうとした司の腕を、驚くことに少女は強引にがしりと掴んできた。
「んな……!?」
「は、鼻血出てるのに放っておけないよ! ……はい、ハンカチ!」
そしてあろうことか、少女はそのままハンカチで司の顔を拭い始めた。手渡されるだけと思っていたところにまさかの実力行使で、思わず司は面喰ってしまった。
そんな反応の司をどう見たのかは知らないが、彼女は満足げにうんと頷きそのままハンカチをずいと差し出した。
こういうシチュエーションで手渡されると、例え安物のハンカチでも高級品に見えてしまうのが不思議である。しかし、レースのハンカチともなると本当に高級品の可能性がある。
「まだ血が止まってないかもだから、あげる。大事に使ってね」
「いや、でも貰うわけには……」
「じゃあ洗って返してくれればいいよ。あ、私『一色円』。1―Cだけど、君の名前は?」
「あ、蒼井司……クラスは1―B」
「そっか、隣のクラスなんだね。よかったぁ」
何が、と問いただす勇気と余力は既に無かった。
「あっと、私今日に日直だから行くね。じゃ!」
当初彼女に抱いていた気弱そうな印象をぶち壊すかの如く、円と名乗った生徒はパッタンパッタンとローファーを響かせながら怒涛の勢いで走り去っていった。そんな彼女の背中を呆然と見送って――司は重い溜息をついた。
「なんで朝っぱらからこんな目に……?」
何処かの誰かはイイコトがあるとかほざいていたが朝っぱらからツイてない。
手にしたハンカチは、それでも一応念のためにと丁寧に折り畳んでポケットにしまい込む。今日中に洗濯して明日には返さなくてはならない。大変めんどくさい。
気を取り直し、司は自分の1-B教室へと向かって歩きだす。
教室に入ってしまえばあとは不貞寝するなり読書して適当に過ごすなりと基本的に自由だ。幸いにも司の席は最後列の窓際。多少のことでバレたりはしないし咎める友人もない。教室の後ろ側の引き戸に手を掛け席へと向かおうとして――止まる。
「……」
何てことはない。
よくある、自分の席に他の誰かが座っているという状況。
椅子だけ借りておしゃべりするならともかく、何も机の上にまで腰掛ける必要はないだろう。が、そんな文句は心の奥底のブラックホールに吸い込まれ消えゆく。
本日二度目の溜息。
マリアナ海溝とまではいかないがそれ相応に深く吐き出せたような気がした。このままここに居ても埒が明かないので、しばらく何処か――具体的に言えばトイレ――で時間を潰そうか。
そう思って踵を返した時、今度は顔面に柔らかい衝撃が。
「っと悪ぃ。お、転校生じゃんか」
「……失礼」
ぶつかってしまったのは男子生徒。
視線をなるべく反らす癖のある司は顔をろくすっぽ見なかったが、声は中々渋みのあるバリトンだった。
そのまま脇を通り過ぎていこうとした矢先、何故か今度は肩をがしりと掴まれる。
「おいおい。ホームルームはもうすぐだぞ。忘れモンか?」
「……いや、別に」
一見すれば司の態度はかなり感じ悪く映るはずだ。
せっかく声掛けてやったのになんだその態度、と罵られても文句は言えないほどに。
だから彼も気を悪くしてそれ以上接してこないと、そう思っていた司の予想は呆気なく裏切られた。
「なら教室入ろうぜ。……あ、そうか。自分の席を忘れちまったってヤツだな。転校してきてまだ二週間ぐらいだもんな。しゃーないしゃーない」
「お、おい……!」
司の制止も全く聞かずに強引に引っ張られ教室に入る。男が男に引っ張られて入室という珍妙な光景に周囲の視線が軽く刺さる。決してそんな気はない。
「で、お前の席ってどこだっけ?」
「……」
司が答えずにいると、彼は一人で教卓へと向かい座席表を取り出して勝手に確認し始める。席が分かるや否や、今度は司の席でたむろする生徒たちの前に仁王立ちした。
「おい、それじゃ転校生が座れないだろ。さっさと散れ散れ」
「はぁ……? 別にまだホームルーム始まんねぇしイイじゃねえか」
「お前がよくても転校生はよくねぇだろが。うだうだ言ってると、お前らの机を中庭の池に放り込むぞ」
脅しとしか思えない彼の言動に、司の席で喋っていた二人の生徒は渋々といった面持ちで引き下がっていった。完全に退いた辺りでくるっと振り返り、呆ける司を手招きしてきた。
「ほれ、これで問題ないだろ?」
「……どうも」
それ以上言いようがないので、司はやや生温かい椅子に腰を下ろし鞄の中身を机に移していく。
……と、ここであることに気付き首を上げる。
件の男子生徒は、何故か司の前の座席に腰を下ろしていた。そんな司の怪訝な視線を背中で敏感に感じ取ったのか、不意に振り返ってきた彼と視線がぶつかってしまった。
「どうした? そんな不思議そうな顔して」
「いや、その席は……」
「あん? オレの席がどうかしたか?」
彼の発言に司は心底驚いた。
自分の席なのだから自分が座るのは当然のこと……なのだが、彼が自分の前の席の主だったということに驚きを隠せなかった。今の今まで全く気付かなかったし、司はそんな身近な彼の名前すら覚えていなかった。
「自己紹介とかは……そういや面と向かってはしてなかったな。オレは藤堂連司ってんだ。よろしくな」
「……」
こくりと一度だけ頷いて、司は持ってきた文庫本に視線を落とした。連司はそんな司の態度を見て小さく微笑をこぼしてから正面に向き直ってしまった。やれやれ、と背中が語っている。
それにしても……だ。
司は登校してから今に至るまでの珍事に首を傾げる。
……おかしい。
常日頃から努めて冷たい人間、近寄りがたい雰囲気を出しているつもりなのに今朝に限ってからすでに二人の人物と接触してしまっている。普段なら到底あり得ない状況に、自分でも上手く受け止められずにいた。
もしかしたら、今目の前で起こっていることは全て夢なのかもしれない。
隣の部屋に人が越してくるというのも夢、鼻血出してハンカチを受け取ったのも夢、席を奪還してもらったのも全て夢であるならば――
「おーい席に着けよー。今日は重大発表があるからなぁー」
そう口火を切って現れた担任の教師の言葉にハッと我に帰り、司は読みかけのページに栞を挟んで閉じる。
……して、“重大発表”とは何だろうか。
まさか抜き打ちのテスト……いや、何もホームルームで告げる必要も無さそうだが。
全身から覇気が失せ、生徒間では脱力先生だとか呼ばれている1-Bの担任はよれよれのベストの位置をちょこちょこ修正しながら、もはや手遅れとしか思えない禿頭に手を当てニコニコと微笑う。
何だ、娘が結婚したとかそんな他愛の無い話題だろうか。
「えー突然だが、このクラスにもう一人転入生が加わることになった」
ちなみに一人目の転入生は司。
司の時もこんな反応だったのだろうか。教師の言葉を受け分かりやすくどよめくクラスメイト達。
え、男? イケメン?
途端に鏡とにらめっこし始める女子たち。
女? 美人か?
あらぬ期待に胸を膨らませる男子たち。
司はそれらを呆れながら傍観していた。
転校生が美男美女なのはフィクションだけの話だから諦めろ、とは司の持論。
ごほんごほんと、若干本気でむせたような咳払いで生徒たちを静まらせると教師は続けた。
「あー、静かに。一応言っておくと今回は女子だ。男子諸君は期待して構わんぞ」
突如、割れんばかりの野太い歓声が沸き起こる。
んな大袈裟な。
こういうクラスのテンションには到底ついていけそうにないのだが、目の前に座る連司もその他大勢と同様らしい。いちいちこちらに振り返ってニヤニヤと笑みを司に振りまいてくる。
「おいおい、今度は女の子の転入生だってよ! ちょっと期待しちまうよな?」
「…………」
転入生など毛頭興味無い。
司は無視を決め込んで文庫本を再び開く。
他の男子はざわざわと落ち着きが無い。
さっさと転入生とやらを招いて絶望してしまえばいいのに。教師がもう一度咳払いして、お待ちかねの転入生の名前を呼んだ。
「では此比良さん、入ってください」
「は、はーい! 今参ります!」
今の今まで存在を忘れかけていた声を全く予想しない形で耳にした瞬間、司はまるで業務用の大型冷蔵庫に全裸で放り込まれ全身が瞬時に凍りついてしまったかのようなおぞましい感触を味わった。
何故?
どうしてこんな場所でアイツの声が聞こえる?
朝から連続で起こる奇異に苛まれ幻聴でも聴いているのだろうか。そんな司の馬鹿げた妄想は、わずか二秒で霧散してしまった。
担任教師の隣に、気がつけば亜麻色の髪の少女が微笑んでいる。
何故か神在高等学校指定の制服に身を包み、紺色のスカートの裾を弄びながら、何故か少々恥ずかしそうに頬を染めている。
見目麗しい転入生の登場に男子生徒諸君のボルテージが最高潮に達し、教室全体が震えだすほどの大歓声に包まれる。はいはい静かにという教師の言葉はほとんど焼け石に水だった。
「おら、しーずーかーにー! これじゃ此比良さんが自己紹介できないだろ!」
「ふふふ。元気なクラスで何よりですね!」
その言葉の矛先が、何処となく司に向けられているような気がするのはきっと気のせいである。
絶対に、断じて、気のせいである。
“此比良さん”とやらの視線がまっすぐこちらを向いているのも、全て気のせい。
“此比良さん”は鼻歌混じりに黒板に自分の名前をチョークで書いていく。やたら小難しい漢字をスラスラと見事な達筆で書き終えるとその場でターンして大輪のスマイル。
「初めまして! 私、此比良桜夜って言います! こうして1-Bの皆さんと出会えたのも何かのご縁、これから是非、仲良くしてくださいね!」
「……最悪だ」
「? 今何か言ったか?」
連司の声には無言で返し、司は机に突っ伏し現実から目を背ける作業に徹しようとした――それなのに、教師の余計な一言でそれが叶わないと確信する。
「じゃ席は……蒼井、お前の後ろが空いてるから、机を用意してあげなさい」
「な……はぁッ!?」
最後列の席のはずなのにどうして空席が?
いやそんなことよりもどうして、よりにもよって司の後ろに桜夜を宛がうのか、まさか教師の禿頭は内部にまで達しているのか、全く何の必要性もない指示に司は半身乗り出しそうになった。
「ん? どうした?」
「いや、だから……ッ」
「異論ないならホレ、予備の机を貰いに行って来なさい。何なら、此比良さんと一緒でもいいぞ?」
「だから……ああ、もう!」
ここで悪態をついても状況は一切好転してくれそうにない。
周囲の視線、主に男子の抉るような視線が司へと突き刺さる。渋面を浮かべたまま教室を出ていくと、ちょこちょこっとまるで子犬のように桜夜が近づいてきた。
「では、改めまして。よろしくお願いします。自己紹介とか……します?」
「…………黙っててくれ」
頭痛が痛い。
別に日本語が間違っているだとか今はそんな瑣末なことはどうだっていい。
今朝から続いていた珍事の結末は、司の心をどん底に叩きつけるには十分すぎる威力だった。
お久しぶりです!
今日からまた更新再開となります。
少しだけ路線を修正し、ややコメディを追加していく感じになるんでしょうか。
とにもかくにも重視するのは読みやすさ!
これからまたよろしくお願いいたします。
なお、次話は来週を予定しております。