覚醒─黄金の剣
リーゼロッテは空中に円を描きながら呪文を発動した。だが『環の護り』の魔法は、魔聖剣の斬撃に対してほとんど防御力を持たないだろう。かの剣を防ぎ切る魔術は、短時間の詠唱で造り上げられるものではない。
仕方がない。ここは腕の一本でもくれてやろう。
そう覚悟しながらも、次に打つ手は思い浮かばない。『オーが』が言った通り、リーゼロッテは『闇の種族』としての戦闘経験が不足しているのだ。白兵戦になれば、かつて『聖戦士』として『闇の種族』を相手に戦っていた、目の前に迫っている『オーガ』と、その手に握られた魔聖剣に敵うはずがないのだ。
苦い思いを噛み殺し、リーゼロッテは左腕を上げた。紙の如く頼りない光の盾を翳す為に。
空気を切り裂く音が、金属を打ち合う甲高い音に取って代わった。それはリーゼロッテが差し出した左腕の手前で起こった音だった。
「さっさと退きなさい!」
長い髪を振り乱し、両手で握った刀を打ち付けるようにして、初音がその黒い剣を受け止めていた。その瞳は金色の輝きを発して、瞳孔が縦に細まっていた。
(鬼の力を解放しているのね……)
初音の膂力は『オーガ』と拮抗していた。それはつまり、初音がその血に宿る『鬼』の力を解放しているからに違いないのだ。
不思議なほど淡々とリーゼロッテはそう考えていた。
自分と違い、初音は忌まわしいその血の力を、躊躇うことなく解放している。最愛の弟がその場に居ると言うのに、リーゼロッテを助ける為に……。
いまだに闇を拒み続けているリーゼロッテには、そんな選択はできない。ましてやようやく見出した、共に生きてくれるだろうパートナーの目の前では……。
「──なにやっているのよ! 早く──逃げなさい!」
喰いしばった歯の隙間から、初音はリーゼロッテに向かって叱咤した。ぼんやりとしていたリーゼロッテは、その声でようやく己を取り戻した。それと同時に、初音の握る刀の刀身が二つに折れる。
いきなり突き飛ばされた。一瞬の後、貴夜の絶望的な叫びが響き渡る。
床に転がり、慌てて顔を上げると、その身体の中央に黒い剣を突き立てられ、苦痛に表情を強張らせた初音の姿がリーゼロッテの目に飛び込んできた。
ずるっと剣が抜け、初音は膝を着いた。唇から鮮やかな赤い液体が吐き出される。
「ハツネ!」リーゼロッテは知らず内に悲痛な声で叫んでいた。そしてなにかを考える前に、リーゼロッテは床を思い切り蹴って跳躍した。
右手にヴィトーリオから奪った緋色の剣を握り締めて……。
渾身の力を込め、リーゼロッテは長剣を『オーが』に叩きつけた。もとより剣技など知らない。ただ力一杯にそれを叩きつけるしかできなかった。
凄まじい衝撃が右腕を伝わり、握っていた魔聖剣は弾き飛ばされた。本能的にわずかに身を捩ると、次の瞬間、右の乳房に冷たい、そして熱いなにかが突き立った。全身に凄まじい衝撃が伝わっていく。
「勇敢ではあるが愚かなり。『七主』ともあろう貴様が、激情に任せて白兵戦を我に挑むなどとは……。貴様とて我ら『聖戦士』の戦闘力を知らぬ訳ではあるまいに」
平板な声で『オーガ』は剣をゆっくりと引き抜いた。
「だが寸前で心臓への一撃を回避するとは、さすがに『闇の主』ではあるがな」
リーゼロッテは全身の力が抜けるのを感じ、右胸の傷を押さえながら肩膝を床に着いた。再生能力はほとんど働いていない。これが魔聖剣による傷の特徴だった。
いままで感じたことのない激痛を必死で堪え、顔を上げて『オーガ』の表情のない顔を睨みつける。貫かれた肺から逆流する血が喉に込み上げてこなければ、罵声を浴びせ掛けるくらいはできるのに……。
「もう良いだろう。このまま貴様は、理想を抱いて消え逝くのだ。それも本望なのだろう、『黄昏の姫神』よ?」
忌まわしい黒い刃が振り上げられるのを見て、リーゼロッテは最後の気力を振り絞り、震える膝に力を込めて立ち上がろうとした。このまま膝を屈した状態で、『オーガ』に止めを刺されるのは絶対に嫌だった。
振り下ろされようとする黒い剣を確りと見据え、赤い瞳を睨みつけたリーゼロッテは、いきなり信じられないものが視界に入ったのを認識した。
それは黒髪を靡かせ、床に転がって行ったはずの緋の魔聖剣を両手で握った、『オーガ』の血族と成ったあの少女の姿だった。
「東條っ!」貴夜の驚愕の叫びが聞える。
少女は悲痛な表情で剣を『オーガ』に突き出した。不意を突かれたのか、『オーガ』の横腹にその切っ先は吸い込まれるように突き立った。魔聖剣故に、あの鎖帷子さえも貫いたのだ。
「小娘が!」そう叫ぶ『オーガ』の声に、怒りの色が宿っていた。
黒い剣が翻り、禍々しい軌跡を描いて少女の胸を切り裂いた。悲鳴を上げて少女は仰向けになって倒れ込む。無残な胸の傷は、それが『闇の種族』であっても致命傷であるだろう。
「と、東條っ! 貴様! よくも……」
貴夜の震える声がそこで途絶えた。奇妙な予感がリーゼロッテに走り、慌てて後ろを振り返る。貴夜の確認する為に。
そこに貴夜は立ち竦んでいた。だがその目には黄金の光が満ち、右手の短剣は違うものに変化していた。それは彼の背丈ほどもある長大な剣で、ルーンが描かれたその刃に黄金の光を纏わせていた。
禍々しくも美しい、優美でありながらも残忍なその武器は……。
「──あれは『イシュランディール』……? あの方の剣がなぜ……?」
リーゼロッテは誰ともなしにそう呟くと、全身に冷たい汗が吹き出ているのをいまになってようやく感じた。