『黄昏に抗いし者』
ヴィトーリオの最後に一抹の後味の悪さを覚えながら、貴夜は目的の部屋に通じるドアの前に立った。そして意を決し、そのドアに手を伸ばそうとした。
「だめです。そのままでは危険です」
いきなりシェラがそう言い出し、気の急いている貴夜の腕を押さえた。
「離せよ」と言おうとした瞬間、思いがけぬ強い力で引っ張られた。それと同時に、目の前のドアから黒い影が飛び出した。
「殺してやる! てめぇだけは殺してやる!」
眼を血走らせ、唸り声を上げて現われたのは、片腕を失ったままの中根であった。残った左手に手斧を握り締め、長い牙を剥き出しにしていた。
いまにも飛びかからんばかりの、怒りに歪んだ中根の胸に、リーゼロッテは切り落とされた右腕を投げつけた。いったいどこにそれを持っていたのだろうと、貴夜は訝しく思う。
「返すわ。もう必要ないから」
傲慢な笑みを浮かべてそう言い捨てたリーゼロッテに、中根は狂おしいまでの怒りを爆発させた。凄まじい速さで跳躍し、リーゼロッテの細く白い首に手斧を叩きつけようとした。
だがその重い刃は、リーゼロッテに届きはしなかった。白くしなやかな指が、斧の刃を軽々と受け止めている。
「生まれたばかりの『従者』が、このわたしに指一本触れられると思っているの?」
リーゼロッテは嘲笑い、中根の身体を手斧ごと軽々と持ち上げ、貴夜が入ろうとした扉へ叩きつけた。
木製の扉は中根がぶつかった衝撃で破壊され、部屋側に向かって開いた。そしてその奥に向け、リーゼロッテは右手を差し出すと、冷たい笑みを浮かべて短い呪文を詠唱する。
リーゼロッテの周りに、小さな光の球がいくつも浮かび上がり、そしてそれは尾を引いて室内に飛び込んだ。小さな爆発音がなんども響き、閃光がその扉から漏れてきた。
「な、なにするんだよ! あの部屋には沙樹が居るかも知れないんだぞ!」
思わず貴夜が食って掛かると、リーゼロッテは口の端に冷笑を浮かべたまま、
「わたしがそんなドジをする訳ないでしょ」と、吐き捨てるように呟く。
貴夜は思わず言葉を失った。まだなにか言いたかったが、思うように言葉にならない。
「なにをしているです? 言い争っている暇はないのでは?」
シェラの淡々とした声が貴夜の背にぶつかる。
「そうよ、いい加減にしなさい」初音の呆れたような声がその後を追う。
「──わかっているよ!」そう言い捨てた貴夜は、完全に破壊されている扉の向こうに足を踏み入れようとした。だがその襟首を掴まれ、それ以上前に進むことができない。
「あなたは後よ」
襟を抓んだ初音は、ぐいっと貴夜を引き下げ、そのままポッカリと空いた闇に飲み込まれていった。そのすぐ後に、唇を尖らせて貴夜を睨みつけたリーゼロッテが続く。
「ちょ、ちょっと待ってよ!」と、慌てて貴夜は二人を追った。
半分崩れたドア枠をくぐると、すぐに二人は立止まっていた。貴夜は思わずリーゼロッテの小さな背中にぶつかってしまう。
「ご、ごめん」慌てて貴夜は謝ったが、リーゼロッテは振り向きもしなかった。
リーゼロッテの怒声を覚悟していたが、そんな様子は欠片もなかったので、貴夜は訝しく思った。が、その理由はすぐに貴夜の目に飛び込んできた。
暗い部屋の中央で、中根は情けない悲鳴を漏らしながら横たわっていた。全身が鋭いパイプのようなもので抉られたように、ポッカリと孔が開いたり欠けたりしていながらも、まだ生きているのが異様だった。だがリーゼロッテ達はそんなものに一瞥もくれていない。
リーゼロッテの視線を辿ると、そこには巨大な体躯のあの男が立っていた。暗闇の中、それに融けるように黒いマントを身に纏い、ただ紅い目だけが熾き火のように燃えている。
巨大な幅広の黒い剣を抜き、杖のようにその柄に両手を置き、安っぽい毛織のソファに腰掛けていた。そしてその隣に立っているのは……。
「東──條……? なぜ──なぜ君が……? 攫われたのは沙樹じゃなかったか?」
暗闇の中でもはっきりと、貴夜は思っても見なかった人物の姿を認め、思わずそんな呟きを漏らしてしまった。
「沙樹じゃなくてがっかりした?」
艶やかな長い髪をかき上げ、愛莉は微笑を浮かべる。だがその笑みは、普段のどこか遠慮がちな、楚々としたものではなく、淫らで艶のあるものだった。
「そうよね。貴夜君は沙樹が攫われたからここまで来てくれたんですものね。わたしがここに居るなんて考えても見なかったのでしょう?」
愛莉の声は淡々としているが、その瞳には蒼白い鬼火が燃えているようだった。憎悪と哀しみ、そして自嘲の念が入り混じったような、見ていると心を揺さぶられるような表情だった。泣き出しそうな顔にも見える。
貴夜の背筋に怖気が走った。そして受け入れがたい事実を認識した。
「──ああ。この娘は『血族』に変わってしまったようだわ」
リーゼロッテは無感情に、事実だけをそう述べた。貴夜はそれに反論したいにのに、その言葉が口から出てこない。
「あなたには関係ないわ! わたしは貴夜君に聞いているのよ!」
いきなり感情的になった愛莉が、凄まじい目でリーゼロッテを睨みつけた。
「あなたが──あなたが現われたなかったら、わたし達はこんな目に逢わなかった。あなたがわたし達に──」
怒りと憎しみが篭もった目で睨みつけられても、リーゼロッテは涼しい顔のまま、
「わたしはなにも悪くないもの。わたしはあなたになにもしていないわ。タカヤはわたしのものなのだから、あなたにとやかく言われる筋合いなんてない」
と、愛莉が叫ぶ言葉を遮るようにそう言った。
愛莉は目を見開いて絶句した。驚愕のあまりに呆けたようになっている。そんな愛莉に、畳み掛けるようにリーゼロッテは言葉を続ける。
「それで? もう一人の娘は何処に居るの? あなたはいまの状態を自ら選んだのだからいいとして、サキとか言う娘を早く連れて来て。そうじゃないと貴夜も納得してくれないんだから、ここから帰ることもできないわ」
自ら選んだとはどう言うことだ? そう貴夜は問い詰めたかったが、リーゼロッテが唇を尖らせるのを、そのまま唖然として見守るしかできなかった。
「あの娘は諦めるがいい」
無機的なその声は穏やかさえ感じられた。だがその言葉を発した男の身体からは、鬼気と呼ぶようなオーラに包まれていた。
いままで茶番じみた会話を無視していた黒衣の男は、『オーガ』と呼ばれている黒き剣の戦士は、ゆっくりとした動作で立ち上がる。
「どういう意味よ?」リーゼロッテがすかさず訊ねた。
黒衣の男はわずかに皮肉めいた笑みを口の端に浮かべた。そして東條に左手の人差し指を向け、「それはこの娘に訊くがいい」と答える。
愛莉はその目に憎悪の色を浮かべつつ、後退りしながら『オーガ』から距離を置いた。
「なんだよ? それはどういう意味なんだよ!」貴夜は目に見える現実を振り払うように叫んだ。いまだに愛莉が違うモノに変化したのなど、信じたくなかったのだ。
「この娘は我が望むことなく『血族』に変化したのだ。ただの奴隷とすべく血を啜ったと言うのに、自ら我が『仔』に成り上がったのだ」
「なんですって? そんなことって──そんなこと、あり得ないじゃないの!」
リーゼロッテが苛立たしげに叫んだ。
「だが事実なのだ。我は貴様達を呼び寄せる手駒として、この娘を隷属しようと考えた。もう一人の娘は素養がなかった為、ただの食餌としかならぬと思ったのだがな。だが事例がまったくない訳ではなかろう? この娘は本来、『闇の種族』の敵性を備え──」
「──もういい! ぼくは──そんなのはどうでもいいんだ。結局、沙樹どうなったんだよ! ぼくは、沙樹はもちろん、東條だって連れて帰る積もりだからな!」
貴夜は平板な声と冷静な表情の、小憎らしい『オーガ』に向かって叫んだ。その後ろに佇む愛莉は、口元に手を当てて信じられないと言った表情を見せていた。
リーゼロッテは一瞬だけ困ったような、そして痛ましげな表情を浮かべたが、
「──そうね。あなたが望むままに」と呟き、すぐに落ち着いた表情に戻った。
「そうはいかんな。その少年は置いていって貰おう。ほかの者はすべていらぬ」
相変わらず感情の現われない『オーガ』の声が響く。
「フン、冗談じゃないわ。タカヤはわたしのものだっていったでしょう? たかが『血族』風情が、真に選ばれし者を手に入れようとするなんて。愚かにもほどがあるわ」
傲慢な口調で冷たく笑うと、リーゼロッテはいきなり大きな身振りで印を空中に刻む。
「闇の中でしか生きられない『吸血鬼』よ。血と肉を漁る忌まわしい『食人鬼』よ。かつては聖なる戦士に名を連ねたと言う、神の栄光を捨て去った憐れな迷い仔よ。せめて二度と手に入らぬ、燦々たる太陽の光によってその呪われた生を終えるが良い。
闇の眷族には『蒼星と紫水晶の処女』、そして人の子からは『黄昏に抗う者』と呼ばれしこのわたし、『オーバー・ロード・オブ・セブン』の一人であるリーゼロッテが、自らの手でそなたの頚木を外してくれよう」
リーゼロッテはいきなり口調を変え、謡うように言葉を紡いだ。その姿はまさに『闇の主』と呼ぶに相応しい、氷のような冷酷さと神々しいまでの威厳に満ちていた。
黒い戦士は顔色も変えずにリーゼロッテを凝視している。一切の防御行動も取ることなく。
「闇より解き放たれなさい! 穿て! 『太陽槍』!」
リーゼロッテは右手を前に突き出した。その掌から凄まじい光の奔流が、まるでレーザー・ビームのように放たれた。光条は槍のように黒衣の戦士に向かい、その胸に突き立った。
その光の眩しさに、貴夜は思わず目を逸らして瞑る。直視していたのなら一時的にでも失明状態になってしまうと感じたのだ。
「な──なぜ!? なぜわたしの『太陽槍』に耐えられたと言うの!」
眩しさが消え、光の奔流が途絶えたと思った瞬間、リーゼロッテの悲鳴にも似た叫びが響いた。慌てて貴夜は黒衣の戦士に目を向ける。
貴夜は知らなかったが、『太陽槍』と言う魔術は、太陽の光を収束させた凄まじい破壊力を秘めた単一攻撃魔法だったのだ。本来は太陽の姿が現われている時が最大の出力を得られる魔法であり、通常の魔術師ではそれほどの破壊力を発揮できないが、リーゼロッテの膨大な魔力によって、夜の間であろうと充分な破壊力を持つそれを放つことができた。『闇の種族』相手には最大級のダメージを与えられる、必殺の魔術だったのだ。
貴夜が薄目を開けて見ると、そこには悠然と立つ、黒いマントのほとんどが破れてしまった赤毛の『オーガ』の姿があった。身につけていた黒い胸当てが完全に消失して、その奥には紫色の水晶が散りばめられた鎖帷子が除いている。
「──なるほどね。『緋の聖戦士』の魔術法具を奪ったと言う訳ね……。魂だけではなく、彼の授かりし魔聖具さえも……」
苦々しい声でリーゼロッテは呟いた。かなり悔しがっているような口調だ。
「しょせん貴様の力は魔術に依存し過ぎているのだよ、『黄昏の姫神』よ。『闇の主』本来の力を追求していれば、このような物で無効にされるような術に縋る必要はないものを」
拳を握り締め、唇を噛み締めるリーゼロッテに、『オーガ』は無表情に言い放った。
「そんなの……。わたしの勝手でしょ!」
リーゼロッテはいきり立って叫んだ。
「不自然なのだよ、それは。貴様は『闇の主』なのだ。人間の血と魂を啜り、それを糧として生きるべき存在なのだ。光に背き闇の中を彷徨う、永遠の生を得た呪われたる者。忌まわしい、そして超越した力を持つモノ。それが我ら『闇の種族』ではないか。その狂おしいまでの殺戮本能と闘争心を、なぜ無理に押さえつけなければならないのだ?」
破れたマントを脱ぎ捨て、『オーガ』は平板な声でそう言った。
「あなたの如き『血族』にそんなこと言われたくないわね。あなた達『血族』は自ら選んでそうなったんじゃない。でも、わたしには選択する自由もなかったわ!」
リーゼロッテの唇はめいた笑みを浮かべているが、その目はどこか哀しげだった。
「超越した力? そんなものがなんなの? 永遠の生命だって望んだ訳じゃない。孤独に、ただ独りで生きていくことに意味があると言うの? ただ力だけを求め、互いに道を歩む者を持とうとしないあなたが、わたしのなにをわかると言うのよ!」
「道を歩む者? ふむ。確かに私はいままで『血族』など欲してはいなかった。それに疎ましい『従者』さえも、必要以外には造ろうとしなかった。だがそれらが共に道を歩む者とは言えまい。しょせんは使い捨ての眷族ではないか。『仔』である『血族』と言えど、互いに運命を共にする存在ではなかろう。
それに貴様はこの千年の間、そのどちらも造ろうとしなかった。孤独が嫌なのなら、なぜ眷族を造ろうとしなかったのだ? なぜ『仔』を生み出さなかったのだ?
──結局、それほどまでに貴様は『主』であることを拒んでいるのだ。『黄昏に抗いし者』とは言い得て妙な名であるな」
『オーガ』の無感動な言葉が、最後になって揶揄するような調子を孕んだ。
色の違うリーゼロッテの瞳に、怒りと戸惑いの色が浮かんだ。だがリーゼロッテはなにも言い返すことなく、桜色の形の良い唇を噛み締めるだけだった。
「もうよい。しょせん貴様は出来損ないの『闇の主』なのだ」
半壊した黒い胸当てを、自らの手で引き剥がした『オーガ』は、黒い剣の切っ先を真上に向け、胸の前で捧げ持つように構えた。
「ならばこの手でその忌まわしき生に終焉を与えよう!」
ナイフのように鋭い牙を剥き出し、疾風の如き速さで『オーガ』は跳躍した。




