鬼斬り
狭い、閉塞されたように感じる正面のホールに足を踏み入れると、貴夜は父の形見の短剣を自然な動作で引き抜いた。
初音がそれを見て胡乱な表情をしていたが、貴夜は特になにも言わずに、躊躇いもなく先頭を進んで行くリーゼロッテを追う。まったく光の射さないの暗闇の中、リーゼロッテは危なげなく階段を目指して歩みを進める。
最初は戸惑ったが、貴夜自身も暗闇を苦にしなかった。意識して目を凝らすと、昼間のように辺りは鮮明に視認できるのだ。それは『主』の資質が開花した結果であり、封印が解けてしまったことの証でもあった。
だが不思議なことに、初音も灯かりを必要としないようで、日本刀の柄に右手を添えながら辺りに視線を向けている。
いったいどうしてなのだろう? 貴夜は疑問に思ったが、ここに向かう途中の会話を思い出し、初音もまた人間ではないと言うことを改めて感じた。結局、初音も貴夜も忌まわしい血の一族なのだから……。
「来るわよ」リーゼロッテの何気ない声に、すぐさま初音は反応した。
初音は日本刀を鞘走らせると、その刃に左手の指を沿わせ、なにやら小さな囁きを唇から漏らした。するとその刃は青白い輝きを発する。
鋼の刃に魔を調伏させる力を付与する。それが初音の力であり、桐生の一族に伝わる技であった。そしてその業故に、桐生の血には『鬼』が宿っているのだ……。
思わず貴夜の口から溜め息が漏れる。だが物思いに耽る暇などなかった。
二階に向かう階段から、二つの影がゆらりと現れたのだ。
それは背の高い、体格の良い二人の男だった。なぜだろうか、二人とも一切の衣服を纏わず、まるで戯画のように誇張された筋肉が剥き出しになっていた。四肢のバランスもどこか歪んだ、嫌悪感を湧き起こすような肉体であった。くすんだ紅い輝きを放つ双眸は、酷い飢餓に苛まれているように感じられる。
(これが血族? まるで──『鬼』そのものじゃないか……)
貴夜は思わず右手の短剣を握り締める。
男達は餓えたように牙を剥き出すと、一人がリーゼロッテに向かい、遅れてもう一人が貴夜に踊りかかった。
リーゼロッテが短い呪を放つ。振り下ろした右手から三つの光弾が放たれ、空中の男の肉体を貫いた。そして次の瞬間、男の体内で光の爆発が起こり、男の筋肉質の肉体は粉々に砕け散ってしまった。
仲間の死に目もくれず、もう一体の『闇の種族』である男が、貴夜に向かって長い右腕を振るう。その指先に、鎌の刃の如き鉤爪が備わっているのを認めた時、横合いから初音が跳躍した。そして振りかぶった一刀を、乱杭歯を剥き出しにした男の肩口に叩きつけた。
その刃は盛り上った鋼の如き筋肉を切り裂き、骨を砕いて男を両断する。そして次の瞬間、絶叫と共に男は塵と化して崩れ去る。
「ぼうっとしてないで! 自分の身は自分で守りなさい!」
リーゼロッテの厳しい声が耳朶を打った。途端、貴夜は短剣を片手に階段を駆け上った。その後を追うように、リーゼロッテと初音も駆け出した。
目的の最上階に辿り着くと、廊下にはまたも『従者』と思しき男女が待構えていた。数は八人ほどだが、リーゼロッテにとってこの程度の数は雑作もなく屠ることができる。
だが──あの男は別だった。煌く剣を右手に提げている、最後尾に位置した『聖戦士』の成れの果てを睨みつけ、リーゼロッテは唇を噛んだ。
「あれは──あいつはあの……?」
横に並んだ貴夜が、驚愕の呟きを漏らした。貴夜もあの男がわずか数時間前に対峙していた、『緋色の騎士』ヴィトーリオであるとわかったようだ。
「堕ちたのね。『オーガ』に魂を喰われたのよ。わたしは甘かった……」
リーゼロッテが忌々しそうに答えると、『聖戦士』の成れの果ては虚ろな目を向けて、右手の剣を振りかぶった。
その姿は『血族』ではなく、完全に支配された奴隷。『オーガ』はこれまでに、ただ一人も『血族』を生み出していない。彼はこの世でただ独りを、永遠の孤独を望むのだ。
リーゼロッテは『オーガ』とそのすべてが疎ましかった。あまりにも自分とは正反対の存在が憎く、そしてわずかだけ羨ましい。いや、羨ましい訳ではないだろう。ただその強さと頑なさ、『闇の種族』としては完璧なその精神が、リーゼロッテにはないものだから……。
どうしてわざわざ孤独を望むのか、それになぜ耐えられるのか、リーゼロッテはそれがまったく理解できないのだ。
ヴィトーリオの剣が振り下ろされた瞬間、奴隷どもは鉤爪が生えた両手を振り上げて突進してきた。その目標が自分であることをリーゼロッテは充分に承知していた。貴夜が存在する限り、『オーガ』にとって『七主』たる自分はただの障害に過ぎないのだから……。
すでにリーゼロッテの両手は印を結び、呪文を紡ぎ上げていた。魔法防御力が低い『従者』など、この呪文の一撃で滅ぼすのは簡単だった。
ただしあの『聖戦士』を除けばと言う注釈はあるのだが……
狭い廊下を天井や壁を床代わりにして、三次元的な移動方法で迫り来る『従者』であった。貴夜は目まぐるしく位置を変える敵に、視線を慌しく移動させる。さすがに『鬼斬り』である初音は、じっと彼らが到達するのを待構えていた。
(でも、白兵戦なんかにならないわ……)
リーゼロッテはゆっくりと両手を広げて胸の前に突き出した。そして呪文の最後の一節を唱え終える。
魔術が発動した。古代エジプトの太陽王の魔術により、リーゼロッテの両手からは巨大な、見る者の目を焼きつかせるような光球が放たれる。そして魔術によって造り出されたその擬似太陽は、ゆっくりと前方に進み、そして徐々に巨大に膨れ上がり、廊下の狭い空間一杯に拡がっていった。
『ラーの太陽』は次々に『オーガ』の奴隷どもを飲み込んでいく。絶叫が上がる度に、すでに人ではない奴隷は一人、また一人と、塵さえ残らずに燃え尽きてしまった。
神々の時代に遡るほど古い古代の魔術を、リーゼロッテは長い年月の間にいくつも習得していた。この『ラーの太陽』もその一つである。
「な、なによこの魔術は……」
背後で初音が感嘆と驚愕の呟きを漏らした。
この地に於ける『鬼』の血筋の家に生まれたとは言え、初音はこれほど強力な魔術を見たことはなかっただろう。人間として繰り出すのは不可能なほどの魔力を湛えた、神代にしか存在し得ないような魔術に、初音は驚愕し、そして恐怖しているのだ。
しかし……。予想通りヴィトーリオにはその強大な魔術さえも通用しなかったようだ。小さな太陽がいきなり消滅すると、彼は緋色の剣を振り下ろした状態でリーゼロッテを睨みつけていた。紅い、闇の眷族の瞳で……。
ヴィトーリオは間髪いれずに剣を振り翳して跳躍した。黒いロングコートの裾が翻り、紅い剣の軌跡がリーゼロッテの頭上に向かって落ちる。リーゼロッテはあらゆる防御の呪文を思い浮べるが、そのどれもが、神の力が込められた魔術法具である、その緋色の剣を防ぎ止めるのは不可能だと知っていた。
硬い金属を打ち合せる甲高い音と、飛び散る紫色の火花によって、リーゼロッテは頭上に落ちてきた幅広の刃が止められたのがわかった。
「早く避けて!」苛立ちを隠そうともしない初音の声が耳朶を打つ前に、リーゼロッテはもちろんその場から飛退いていた。口をあんぐりと開けた貴夜の横に立つ。
体勢を整えて改めて二人の戦いを凝視する。次はリーゼロッテが感嘆の溜め息を漏らす番だった。
なんと言う動きであろう。『聖戦士』であるヴィトーリオの剣戟の鋭さは最初からわかっていた。だが初音もそれに負けないほどのスピードで、両手の日本刀を激しく振るっている。『主』であるリーゼロッテでさえも、二人の剣先を認識するのは不可能だった。
『闇の種族』と化した『聖戦士』と白兵戦で対等に戦える。これが『鬼斬り』の実力なのだろうか? リーゼロッテは素直に初音の力に驚嘆した。
だがさすがにその体力までは同等にはならなかった。どれほど驚異的な身体能力を有していようと、初音はヒトの範疇にある。人外の化け物である『闇の種族』のいスタミナに及ぶべくもない。
初音の斬撃は次第にスピードが落ち、ヴィトーリオの魔剣を受け流すことが難しくなっていた。やがて防戦することだけに集中しても尚、手足の表面に切り傷を生じ始めている。
それを見ていた貴夜が、必死な顔つきで、あの短剣を握り締めながら飛び出そうとした。リーゼロッテはその腕を掴み、貴夜が小さな戦場に向かうのを阻止した。振り返った貴夜はリーゼロッテを睨みつけるが、リーゼロッテも負けじと睨み返した。
「あなたがあそこに行っても、ハツネの邪魔になるだけよ」
リーゼロッテの静かな声を聞き、貴夜は視線を逸らした。
貴夜が素晴らしい潜在能力を秘めているのは間違いない。だが戦闘に関しては、まったくの素人同様なのだ。だから貴夜を危険な場所に送ることはできない。こんな場所で貴夜を失うなど、リーゼロッテは耐えられない。
リーゼロッテ自身があの剣戟の嵐の中に飛び込むことも考えた。だが白兵戦に於いて、リーゼロッテとてあの二人に及ぶことはないだろう。生きて来た年月の割に実戦の経験が極端に少なかったいままでの状況を、リーゼロッテはすこしだけ悔やんだ。
結局、リーゼロッテの武器は魔術だけなのだ……。
そうこうしている内に、遂に初音の刀が弾き飛ばされた。振り上げられた緋色の剣が、そのまま無防備となった初音に振り下ろされようとした。
「姉さん!」遂に貴夜が駆け出した。
リーゼロッテはせめて目くらましにでもと、短い呪文を詠唱する。『光の矢』の魔術はそれほど強力なものではないが、初音をその場から逃がす為の牽制にさえなれば良いのだ。
三本の銀色の軌跡がヴィトーリオに向かって飛んだ。気がついたのかヴィトーリオは、マントを翻しながらその内二本を空中で叩き落す。しかし、残りの一本がその右脇腹に突き立った。そして次の瞬間、振り上げた腕は力なく垂れ、苦痛の声がヴィトーリオの口から漏れた。その隙に貴夜が初音を助け起こし、ヴィトーリオとの距離を置いた。
(魔術が通用した? なぜなの?)
絶対魔法防御を付与された、紫水晶のチェインメイル『エントゥーリ』を着用しているヴィトーリオに、攻撃魔術が通用するはずはない。だが彼は、脇腹に受けた傷から暗紅色の液体を滴らせているのだ。
リーゼロッテはすぐにその意味に気づいた。彼はあの鎖帷子を着ていないのだと。
その理由までは思いつかなかったが、ヴィトーリオが『聖戦士』にしか着用できぬ魔法の鎧を着けていないのは確かだ。
いまがチャンスだと気づいたリーゼロッテは、長い呪文を紡ごうと印を結んだ。
だが、結局はその呪文詠唱も途中で途切れることになった。
一瞬の空白の間、刀を拾い上げた初音が、その輝く刃を一閃させたのだ。
魔力の込められた刀は、その刃のなかばまでヴィトーリオの胸に埋め込まれている。
長い吐息がヴィトーリオの口から漏れた。そしてわずかに唇を歪め、静かに目を瞑る。力なくだらりと垂れた右手から、紅い輝きを放つ魔聖剣が滑り落ち、重い金属音を立てた。
初音は表情を失くした白い顔のまま、ゆっくりと刃を抜いた。ヴィトーリオの身体は支えを失ったかのように、そのままリノリウムの床に崩れ落ちた。そして小さな笑みを浮かべるとなにやら呟き、そのまま事切れたようだった。
(やっと──開放されたのね……?)
その穏やかな最後の表情を見て、リーゼロッテは心の中で黙祷した。
四人が見守る中、ヴィトーリオの肉体は急激に腐敗していき、その白骨さえも塵と化した。
──これが『闇の種族』の死であった。後には白い、細かな灰のような塵しか残らないのだ。
いつも──そう言う風に終わってしまうのだ。
リーゼロッテは胸に小さな痛みを覚え、密かに嘆息した。




