闇からの使者
シャワーをおざなりに浴びた後、貴夜はようやくさっぱりとした気分になった。澱のように残る興奮と恐怖はすでに薄れている。
だが、着替えを置いてある篭からシャツを取り出した時、その短剣が目に入った瞬間、数々の疑問が頭に浮かんできた。
この短剣はいったいどう言う物なのだろう? どうしてあの剣を受け止めることができたのだろう? そう思いながら、貴夜は飾り気のない実用的な短剣をじっと見つめた。
思い返してみれば、自分がどうやってあの『聖戦士』の剣を受け止めることができたのか、不思議でしょうがなかった。もしこの短剣でなければ、あの魔剣は刃をへし折って貴夜を両断していたかも知れないのだ。
もちろん、自身の信じ難い身体能力にも疑問が残る。一瞬の内に十メートル以上離れた場所に移動し、そして電光の如き速さの一撃を受け止めた自分の肉体。それはすでに、貴夜が『主』と言うモノに変化しているからではないのか?
リーゼロッテは、貴夜の封印が完全に解かれていないと言っていたが、それはどこまで解かれているのだろうか?
異常な身体能力といい、戦いを求める高揚感といい、貴夜はなにかが変わっているのを自覚できないまま、いつのまにか変容してしまっているのではないかと怯えていた。
(ぼくは──やはり『闇の種族』なんてものに変わってしまっているのか……?)
父の形見の短剣を握り締め、貴夜はぼんやりとそんなことを考えていた。
「貴夜? ねぇ、まだ入っているの?」
扉の向こうで初音の声がした。どこか焦れたような声であった。
「いま行くよ! いま着替えていたところなんだ」
貴夜は慌てて答えると、まだ湿った髪をかき上げて扉を開けた。
居間のソファでは、すでにシンプルな白いワンピースに着替え、新しい藍色のリボンを金髪に結わえたリーゼロッテが、優雅な風情で紅茶のカップを片手に微笑んだ。
身だしなみを整えたリーゼロッテは、やはり絵画の世界から抜け出たように優雅で、そして夢のように美しかった。
「気分はどう? もう落ち着いたかしら?」
リーゼロッテは銀鈴のような声で悪戯っぽく笑った。
「それはどう言う意味だい? ぼくはもう興奮してなんかいないよ。それはリーゼロッテにもわかっているだろ?」
むっつりとして向かいのソファに腰を降ろすと、リーゼロッテはなにか含むように笑う。
「な、だんだよ? なにか言いたいことがあるのかい?」
「誰も興奮していたなんて言っていないわ。恐れていたと考えるならともかく」
「恐れていた? 誰がなにに恐れていたって言うんだよ」
「あら? あなたは怖くなかったの? 自分が自分とは違うものに変わって行くことが。わたしは怖かった。それに悲しかったわ。もしあの方がいなければ、自分自身を呪い、そして世界を呪って本当の悪魔に堕ちていたかもしれないもの……」
リーゼロッテは微笑みを絶やさぬまま、わずかに悲しげな声で呟いた。
貴夜はその儚げな姿に、思わず言葉を失ってしまう。
「それよりも──あなた達ケガはなかったの?」
紅茶が入ったカップを貴夜の目の前に置きながら、いきなり初音が問い掛けてきた。
「ケガ? ケガってなんのことだい?」
貴夜は姉がなにを言っているのかわからなかった。なんと言っても、貴夜とリーゼロッテは深夜の散歩に出かけただけ──すくなくとも初音にはそう説明したのだ──なのだから、ケガなんかする訳がない。
「あなたは……。あんな血だらけで帰ってきたのに、なにもなかった訳がないじゃないの!」
呆れたように初音はリーゼロッテを指差した。
片方の眉を吊り上げた初音に見据えられ、自分の迂闊さと愚かさ加減に、貴夜は心の中で罵った。そしてリーゼロッテにも不信感を覚える。リーゼロッテは自分と貴夜の本性を、初音に隠し通す気がないのだろうか?
「ああ──あれは……」
貴夜はそれに答えようと口を開いたが、すぐに口篭もりリーゼロッテに視線を向けた。どう答えれば初音を誤魔化すことができるか、咄嗟には思いつかなかったのだ。
「大丈夫よ、ハツネ。わたしには傷一つ残っていないから。もちろん、タカヤだって無傷よ」
平然とした顔でリーゼロッテは紅茶のカップを口に近づけた。そして一口飲んだ後、満足気な笑みを浮かべる。まったく持って現在の状況を意に介していないようだ。
「──そう。それならいいのよ」
不思議なことに、初音はあっさりと引き下がった。その表情はいまだに納得しているようなものではないが、取りあえず疑問があっても口にしないらしい。
もちろん貴夜はそれを不審に思うが、かと言って問い質すこともできない。
「さぁ、あなた早く休みなさい。ひどい顔色をしているわよ。なにをしていたか知らないけれど、かなり疲れているみたいだからもう寝なさい」
「わかったよ……」
姉の態度に違和感を覚えながらも、貴夜は素直にそれに従う答えを返した。そして「それじゃお先に休ませて貰うよ」と、大儀そうに立ち上がる。
次の瞬間、派手な音を立てて居間の窓ガラスが砕けた。
「な、なんだ?」
思わず甲高い、悲鳴のような声を貴夜は張り上げた。それに反してリーゼロッテやシェラは微動だにせず、ただ視線だけを割れた窓に向けている。初音は眉を顰め、つかつかとカーテンの引かれた大きな窓に向かって歩き出す。
「だめだよ姉さん! まだ危ないかも知れないじゃないか!」
貴夜は慌てて初音の腕を掴んだ。初音はわずかに目を眇め、風に揺れているカーテンを見つめていたが、いきなり「伏せて!」と叫び、貴夜を押し倒すようにして床に転がった。
床に肩を強打し、貴夜は思わず呻き声を漏らしたが、目を瞑ることはなかった。カーテンを突き破るようにして部屋に飛び込んできた、その黒い影から目を離せなかったのだ。
「──なんのようだ? 中根」
貴夜は初音を庇うように立ち上がる。そして大きく口を歪めて笑う、中根の姿をしたソレを睨みつける。
もうソレは中根ではないのだろう。貴夜はすぐにそう認識していた。わかるのだ。いまや貴夜の認識力は、ヒトとヒトとは違うモノの区別が自然と理解できるようになっていた。
「おまえの大事な女を預かっている。返して欲しければおまえ一人で来い」
中根は酩酊したような表情で、淡々とした言葉でそう言った。
「な──なに言ってるんだ? 女って──」
沙樹のことなのか? と、続ける前に、リーゼロッテの苛立ち混じりの声が響いた。
「大事な女って誰のことよ? 貴夜にとって大事な女ってのは、このわたし以外にないわ!」
リーゼロッテの叫びに中根は眉を顰め、そして怯えたような表情を浮かべた。
「なぜ──おまえは……?」
気圧されたように中根は後退りした。そして次の瞬間、貴夜の横から初音が飛び出した。
裂帛の気合がその唇から放たれ、大上段に振り上げた両手──その先には白刃の輝きがあった──を、一気に振り下ろす。
空気を裂く音と、肉と骨が断ち切れる音が貴夜の耳に響く。一拍の後、中根の絶叫が耳朶を打った。見開かれた貴夜の目の端に、肩から切り落とされた右腕が転がるのが映る。
怒りと激痛の悲鳴を上げ、中根は破られた窓に向かって跳躍した。さらに白刃の輝きがそれを追いかけるが、一瞬早く中根は闇に消えた。
空を薙いだ白刃を構えたまま、初音は小さくした打ちする。その眇められた目に、冷たい殺気が宿っているのを、貴夜は信じられないような顔で見つめた。そしてその右手に握られた、青白い妖しい輝きを放つ日本刀を……。
初音は見たこともない鋭い眼つきで振り向くと、
「あなた──貴夜にはどこまで……?」と、リーゼロッテに氷の刃のような視線を向ける。
「あなたのこと以外はそれなりに教えたわ」
詰まらなそうな声で答えながら、リーゼロッテは床に転がった腕に近づいた。
「なぜ? 私や桐生の家についてはなにも話していないと言うの?」
「だってあなたが話さないでって言ったんじゃない。わたしは約束を守るもの。──そんなことより、これからどうするの?」
リーゼロッテは破られた窓の向こうを見据え、不敵そうな笑みを浮かべた。
「ああ、あいつを追いかけないと! きっと沙樹が攫われたんだ。早く助けに行かないと!」
貴夜は慌てて玄関に向かって駆け出した。その背に、「どこに向かえば良いのかご存知なのですか?」と、シェラの落ち着き払った声がぶつかって、貴夜は急にその足を止める。
「ねぇ、そのサキって娘はそんなに大事な娘なの?」
リーゼロッテは皮肉めいた笑みを貴夜に向けている。
「あたりまえだよ! 沙樹はぼくの幼馴染なんだ」
貴夜は躊躇いなど見せずにはっきりと断言した。
「そう。それならわたしが案内してあげる。ハツネが先走った御陰で場所も聞き出せなかったけれど、こいつの落とし主は追うことができるわ」
リーゼロッテは乗り気ではなさそうな声で、断ち切られた右腕を無造作に拾い上げた。