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鬼人の棲家

 駅から五百メートルほど離れた、やや寂びれ始めたその一角に、目指す廃ビルが佇んでいた。灰色の壁は黒ずみ、もちろんどの窓にも明かりが漏れてはいなかった。


 タンクトップにミニスカートの愛莉は、わずかに寒気を覚えた。妙に湿った空気は、温く纏わりついてくるほど熱気をはらんでいると言うのに……。


「──ここなのよね? 間違いないわよね?」


 沙樹が声を潜めて訊いてくる。黒いTシャツにスリムのブルージーンズと言う姿だった。


「そうだと思うけれど──」


「ちょっと、はっきりしないわね。──でも、看板を見る限り、このビルがそうだとしか思えないわねぇ」


 沙樹は腕を組んでビルを見上げると、舌打ちして苛立たしげに呟いた。


「本当に行くの?」愛莉は不安な気持ちを隠さずに訊ねた。


「もしかしたらってこともあるでしょ? それに、愛莉一人で行かせられはしないわ」


 沙樹は怒ったような顔で答えた。


「違うの。わたし達だけで行くのは良くないんじゃないかと思って……。神代君も呼んだ方がいいのではないかしら……?」


 愛莉が遠慮がちにそう言うと、沙樹は顔を顰めてしばらく考え込んだ。だがすぐに、きっぱりとした声で「それはよした方がいいね」と答える。


「アイツの性格から言って、もし中根の奴がそこに居たのなら、本当に殺しかねないからね。それだけ顕人は怒っているんだよ」


 沙樹は肩を竦め、疲れたように息を吐いた。


 確かに顕人に連絡を取るのは得策ではないのかも知れない。もし本当に貴夜が拉致されていて、そして傷でも負っていたのなら……。


 顕人はその時、本気で中根を叩きのめしてしまうだろう。それは誰も止めることのできない怒りであり、中根の命は保障できないものになるだろう。顕人にはその力があり、そしてそれ以上に狂気にも似た貴夜への思いがあるのだ。


 そう、沙樹は顕人に、そんな危ういものを感じているのだろう。


 愛莉も顕人のそんな感情には気づいていた。顕人は貴夜を異常なほど大事に思っている。


 誰にでもおなじように対応する顕人であるが、貴夜に対してだけは特別な感情を抱いているのがわかる。彼らが同性愛のカップルと揶揄されるのも、そんな顕人の態度からである。


 愛莉がもっとも嫉妬する相手。それが神代顕人と言う、女生徒の人気を大きく得ていながら、誰にも興味を示そうとしない少年だった。


「でも本当に──貴夜君がそこに居るのかしら……?」


「悪戯の可能性も有るけれど、確認しない限りはなんとも言えないね。だけど、わざわざあんたのケイタイにメールが送られたのを考えると、中根が待っているのは間違いないんじゃないかな」


「それじゃあ……。罠かも知れないってこと?」


 愛莉は思わずぞっとして、剥き出しの両肩を自分の腕で抱き締めた。


「大丈夫よ。あたしがついてるんだから、愛莉に指一本触れさせないわ。あいつは愛莉に惚れていたんだから、他の男を引き連れている訳はないと思う。きっと他には誰も居ないに違いないわ。中根一人くらい、あたしが叩きのめしてやるから安心して」


 自信たっぷりに沙樹は笑みを浮かべる。それはどこか喜びを含んでいるように思えた。


 本当にそうなのだろうか? 愛莉はまだ不安だった。


 確かに沙樹は強い。なにか特殊な拳法を、幼少の頃から習っているようで、男であろうとも沙樹に勝てる者はそういないと、あの顕人が保障している。


 それでも愛莉は、中根の粘りつくような視線を思い出し、言いようのない不安に陥っているのだった。


 だが、もし本当に貴夜が捕まっているのだとしたら? 自分達が赴かなければ、中根によって貴夜が酷く痛めつけられるとしたなら?


 そう考えた愛莉は、意を決して沙樹に従うことに決めた。






 廃ビルにはもちろん、電気が通っている訳はなく、エレベータは動かず灯かりもなかった。


 小さな窓から漏れる月明かりと、沙樹の手にある小さな懐中電灯だけが、二人の視界を照らす頼りない光源であった。


 暗い階段を二人は身を寄せ合い、息を殺しながらゆっくりと上がって行った。足音を立てないように靴を脱ごうとさえ考えたが、リノリウムの床は酷く汚れて見え、靴のそこがべたつくように感じられたので、さすがにそれは思いとどまった。

 スニーカーの沙樹は音も立てずに階段を一段一段、軽やかに踏みしめていくが、愛莉はパンプスだったのでやはり多少の音は立ててしまう。

 それでも四階に辿り着いても、二人の気配に気づいて中根が姿を現わすことはなかった。


 目的であるスナックの埃塗れの看板が見えた。安っぽい木製のドアの上にぶら下がっているそれは、『カシス』と筆記体で書かれている。


 喘ぐように息を殺しながら、愛莉は沙樹に手を引かれてそのドアの前に立った。

 階段を昇る前に、沙樹と愛莉は打ち合わせを終えていた。


 ドアの向こうに誰が居るのか、そして何人の男が待構えているのかはっきりするまで、沙樹はドアの陰に隠れて様子を見る。もし中根以外に誰かが居るようであれば、すぐに警察に連絡をする。そして同時に、顕人に対してメールを送信する。

 顕人に送るメールは、すでに打ち込みを終えていた。後は送信のキーを押すだけだった。沙樹のケイタイは警察の電話番号を打ち込み、それも発信ボタンを押し込むだけに用意されている。


 心臓が激しく鼓動を打っている。その音が扉の向こうにも聞えるんじゃないかと思うほど、愛莉の心臓は大きく暴れていた。


 これ以上は待っていられなかった。このままでは心臓が破裂してしまう!


 愛莉は緊張と恐怖に耐えかね、そのドアを体ごとぶつけるようにして押し開いた。


 足が縺れ、前のめりになりながら愛莉はドアの向こうに消えて行った。


 沙樹は荒くなる呼吸を無理やりに押し殺し、素早くドアの脇に隠れた。ドアは完全に閉まり切らないから、そこから顔の半分だけ突き出し、薄暗い部屋の中を窺う。


 シンと静まったその部屋に、大勢の人間が居るような気配はない。薄暗い闇の中には、愛莉ともう一人の人物のシルエットしか見当らないようだ。


 愛莉の持っていた懐中電灯は、赤い絨毯の敷かれた床に転がっていた。その光が照らし出したのは、ぼんやりと突っ立っている男の両脚だった。


(あれは──中根なの……?)


 暗闇に慣れ始めた沙樹の目には、薄ぼんやりと浮かぶその姿を、中根のものだと認識した。


 愛莉の息を飲む音が聞えた。転んだ反動で床に落ちた懐中電灯を、手探りで探しながらもその目は中根に釘付けだった。


 おかしなことに、中根は愛莉を見てもそのまま無言で棒立ちになっていた。ようやく懐中電灯を見つけた愛莉が、その光を顔に向けたと言うのに、それでも中根はぼんやりとした表情で愛莉を見返すだけだった。


「た、貴夜君はどこなの?」


 愛莉は震える声で、それでも精一杯の怒りを込めて叫んだ。


 中根は虚ろな目で愛莉を見つめているが、なにも言葉を発しようとはしない。

 形容し難い違和感が沙樹の胸に込み上げてきた。


(アイツ……なんなの? まるでクスリでもやっているみたいだわ)


 反応のない中根の態度を見て、沙樹はこのまま隠れていても意味がないと感じた。それ以上に、愛莉を一人で中根に対峙させる訳にはいかないと感じたのだ。

 それほど中根の状態は異様だったのだ。


「ちょっと! なに呆けてんのよ! 貴夜はどこ? やっぱりあんたの嘘だったの? はっきりしなさいよ!」


 沙樹はドアを潜り抜け、愛莉の前に立ちはだかると、まだぼんやりとしている中根に向かって叫んだ。


 中根は濁った視線で沙樹を見ると、ゆっくりと唇の端を吊り上げた。


「──ああ、飯塚か……。おまえになんか用はないぞ」


 平板で虚ろな響きを持つ声で、初めて中根は口を開いた。


「あたしだってあんたなんかに用はないさ! さっさと貴夜がどこにいるのか教えな!」


「そんなの知るかよ」


 ようやく中根は、いつものように人を喰ったような調子で答えた。だが不思議とその声に、普段のような小心さや臆病さはなく、傲慢な自身を漲らせていた。


(なによ……。コイツ、いつもとちょっと違うわ)


 わずかに沙樹は怯んだが。そんな様子を微塵も見せることはなかった。もしすこしでも沙樹が気弱になれば、愛莉にそれを気づかれてしまう。


「ふん。やっぱり貴夜を捉まえたって言うのは嘘だったんだね! 愛莉を誘き出してどうするつもりだったのさ!」


「バカだな、おまえは。やることは一つだけだろ?」


「なっ! あんたは──」


 沙樹の腕にいきなり愛莉がしがみついてきた。はっきりとわかるほど震え、怯えている。


「──でも、もうそれはいいんだ。もっと大事な役割ができちまったからな」


 相変わらず平板な、そしてどこか茫洋とした声で中根は独り言のように呟いた。

「なぁ、おまえらが俺に捕まっていると知ったら、きっと桐生は怒り狂って、俺のとこに来ちまうだろうな?」


 中根は已然と、まるで科白を棒読みするかのような調子で問い掛けてきた。その瞳の奥に、鬼火のように妖しく輝く紅い光があるのを認めた沙樹は、ここに留まることの意味に気づいた。慌てて愛莉を抱えるようにして、いま入ってきたドアを目指して駆け出す。


 だが、わずか二三歩ほど移動しただけで、それ以上は前に進めなくなってしまった。


 しがみつく愛莉の爪が腕に食い込んだ。でも苦痛など感じる余裕など沙樹にはなかった。


 二メートルほどの距離をおいて、入り口を塞ぐように立っている黒尽くめの大男に、沙樹は完全に気を飲まれてしまっていた。


「なるほど。確かにこの娘達からは、あの少年に近しい残留オーラを色濃く感じられるな」


 男は平板な声でそう呟くと、ゆっくりと唇を吊り上げた。それは笑みと言うよりももっと忌まわしい表情であった。


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