第三話 列の端
翌日、父と母は朝のうちに出ていった。それぞれに仕事がある。昨日と同じように母は朝食を作り、父は食べ終えると腰袋の中身を確かめて戸口の靴を履いた。
職を授かる前なら、二人を見送ったあとでアシェルも外へ出ていた。レオンたちと木剣を振り、山へ入り、ダンジョンの入口まで走る。何もしない日があってもそれでよかった。
けれど昨日、職を授かった。父も母もそれぞれの仕事へ向かい、レオンも《剣士》として歩き始めた。
家の中にはアシェルだけが残された。
やることは――なかった。
椅子に座り、朝の火が残る暖炉を眺めた。薪の端が赤くなり、時折ぱち、と小さな音を立てる。それ以外には何も起きない。誰かが呼びに来るわけでも、今日から何を覚えろと教えてくれる人もいなかった。
昨日までは、何もない一日を退屈だと思わなかった。好きなことをしていい時間だったからだ。でも今日は違う。みんなには行く場所があるのに、自分にはない。
昨日、村長から言われた言葉を思い出した。
――自由にしていていい。
職を授かる前なら嬉しかったかもしれない。今日は少しもそう思えなかった。
アシェルは家を出た。行く場所を決めたわけではない。ただ歩いているうちに、村外れへ向かっていた。石を避けて傾いた柵の横を抜ける。何度も通った身体が覚えている道だった。
その先には小さな空き地があった。子どものころから何度も遊んだ場所だ。草の上に木剣が一本転がっている。誰かの忘れものだろう。
アシェルは少し迷ってから拾い上げた。何度も握ってきた重さだった。両手で構えて一度振ると、ぶん、と鈍い音がする。もう一度踏み込む。今度は剣先がわずかに流れた。
「……違うな」
何が違うのかは分かっていた。レオンならもっと速く、もっとまっすぐ振る。握りを直してもう一度振ったが、やはり同じだった。自分が振っても、昨日までと何も変わらない。自分は《剣士》ではないのだから。
何度か振ってやめた。昔なら上手くいかなければレオンが来るまで続けていたはずなのに、今日はその理由を見つけられなかった。
そのとき足音が聞こえた。反射的に木剣を元へ戻し、近くの茂みに身を隠す。葉が頬に触れてから、自分が隠れたことに気づいた。
悪いことをしていたわけではない。それでも出ていく気にはなれなかった。今は誰にも会いたくなかった。
葉の隙間から空き地を見る。やがて現れたのはレオンだった。アシェルは無意識に身体を低くした。
レオンは草の上の木剣を見て足を止め、辺りを見回す。
「……いないのか」
誰を探しているのかは聞かなくても分かった。アシェルは何も言わなかった。
レオンが木剣を拾う。ついさっきまで自分が握っていたものだった。
構えて一振りする。
空気が裂けた。
踏み込んだ足を追えなかった。木剣が止まってから遅れて音が届く。二振り、三振り。速いだけではない。剣先がぶれず、身体も流れない。振り終えたときには、もう次の一撃を出せる姿勢になっている。
昨日までとは違う。
重さも長さも握った感触も同じ木剣なのに、振ったときの音まで違った。
アシェルは自分の右手を見る。まだ木剣を握っていた感触が残っている。
昨日、レオンは《剣士》を授かった。職を授かるとは、進む方向だけでなく、そのための力まで身体に馴染んでいくことなのだろうか。
なら、自分はどうなのだろう。
《迷い人案内人》を授かってから何が変わったのか。
やがてレオンは木剣を元へ戻した。一瞬こちらを見たような気がして息を止めたが、何も言わず空き地を離れていった。
足音が消えてからアシェルは茂みを出た。木剣はさっきと同じ場所にある。もう一度拾おうとは思わなかった。
家にも帰らなかった。戻ったところでやることはない。
歩いているうちに村の入口へ出た。
立派な門があるわけではない。低い石垣が途切れ、荷車がすれ違える程度に道幅が広くなっているだけだ。片側には水場があり、反対側には荷車を寄せる空き地がある。少し進めば教会、その先には家々と畑がある。山へ入る道も一本しかない。
アシェルは入口に立って村を見た。
小さい。
知っていたはずなのに、今日は特に小さく見えた。
雨の日にぬかるむ場所も、家畜が通る時間も、荷車の車輪を取られやすい石も知っている。教会へ行くなら水場の横。畑へ荷を運ぶなら空き地側。朝の山道なら左端の方が乾いている。
考えなくても分かる。
ずっとここで暮らしてきたからだ。
そして同じことを村の人間も知っている。自分だけが知る道ではないし、誰かに教えなければ困ることでもない。
アシェルは石垣に手を置いた。
案内人。
道を示し、土地に不慣れな者を目的地まで導く者。大きな街なら必要とされるという。
なら、職そのものがおかしいわけではない。
必要とされる場所はある。
ただ、ここではない。
道は一本。
分かれ道もほとんどない。
ここでは誰も迷わない。
――今のところ、この村では使い道がない。
昨日より少しだけ、その意味が分かった。
意地悪で言われたわけではなかった。本当に、なかった。必要とされる場所と自分がいる場所が合っていない。
遠くから荷車の軋む音がした。村の外から一台の荷車が近づいてくる。御者は見覚えのある近隣の男だった。
アシェルは一歩だけ前へ出た。
案内人なら、こういう時に声をかけるのではないか。
「ここは……村だよ」
口にしかけて、自分でおかしいと思った。
何を言っているんだ。
そんなことは見れば分かる。
水場はこちら。
教会ならまっすぐ。
荷を下ろすなら――。
そう続けるより早く、男は水場を避けて空き地側へ荷車を寄せ、そのまま教会の前を通っていった。
迷わなかった。
当然だ。何度も来ている男なのだから。
アシェルは開きかけた口を閉じた。
ダンジョンの入口までなら誰より道を知っている。山道の癖も、沢沿いの近道も、引退した冒険者が話していた古い地名も頭に残っている。
道を覚えることは好きだった。その先に何があるのか考えるのも好きだった。案内人という名前だけなら、自分に合っている気さえした。
ただ、その力を使う相手も場所もここにはない。
子どものころ、この入口から外へ出るたびに胸が躍った。この道の先にはダンジョンがあり、さらに先には知らない街がある。いつか冒険者になれば、もっと遠くへ行ける。
ここはずっと、その始まりだった。
でも今は違った。
入口は――希望の始まりではなかった。
外から荷が入り、外へ人と物が出ていく。そのための境目にすぎない。
アシェルは石垣から手を離して村の中へ戻った。家も教会も畑も、昨日までと変わらない。
職を授かれば、自分の道が始まると思っていた。けれどその入口はここにはなかった。
その日、家に戻っても何も言えなかった。父も聞かなかった。ただ夕飯の途中で一度だけこちらを見た。
翌日、父が村長のところへ行ったらしい。何を話したのかは聞かなかった。
その数日後、父が珍しく昼前に家へ戻ってきた。土のついた靴のまま戸口に立つ。
「――明日はついてこい」
「……どこに?」
床に寝転がって天井を眺めていたアシェルは、片肘をついて身体を起こした。
「仕事だ」
一瞬、意味が分からなかった。
「俺も?」
「――ああ。村長に話はしてある。手伝いだ」
手伝い。
その言葉に、アシェルは思わず身を乗り出した。
あの日から村の中を歩き、何かを運ぶ人がいれば目で追った。畑に人が集まっていれば近くを通った。自分にもできそうなことを探していた。
でも「何かないか」と自分から聞くことはできなかった。職を授かったばかりの自分が仕事をくれと言って回るのが惨めに思えた。
だから待っていた。
誰かに必要だと言われるのを。
「……いいのか?」
「手伝いだと言っただろ」
父はそれ以上言わなかった。
アシェルは口元が緩むのを止められなかった。
「うん。行くよ」
翌朝、アシェルは父より先に靴を履いていた。
父と並んで村を出る。向かったのはいつもの山道より浅い森だった。朝の光はまだ白く、木々の間には薄く霧が残っている。
何人かの大人がすでに集まっていた。荷台付きの小さな車と縄と布。その横には解体された魔物の肉と骨が置かれている。
生臭い匂いが鼻に入った。思わず顔をしかめる。冒険者が仕留めた魔物を運ぶ仕事と聞けば、子どものころならもっと格好のいいものを想像していただろう。実際には血と肉と骨の匂いがする。
「……連れてきたのか」
「補助だ。よろしく頼む」
父が答えた。
補助。
《迷い人案内人》として呼ばれたわけではない。父の仕事についてきただけだ。
それでも昨日までとは違う。
今日は、自分にも来る場所があった。
「これをつけろ」
父が腰袋から小さな金具を取り出した。くすんだ鉄の輪に親指ほどの魔石がはめ込まれている。
受け取って首から下げると、魔石が服越しに肌へ触れた。ひやりとして、アシェルはわずかに肩をすくめる。
「魔物避けだ。弱いやつなら寄ってこなくなる。絶対に外すなよ」
「魔石で動いてるのか?」
「そうだ。村じゃ貴重だが、こういうのまで削るわけにはいかん」
「……うん」
指先で金具をつまむ。冷たい石が歩くたび胸の骨にこつりと当たった。
いつもなら父の首にあるものが、今日は自分にもある。
アシェルはそれをもう一度指で確かめてから手を離した。
運ぶのは浅い森で仕留めた牙猪と、昨日のうちに解体された角兎だった。食べられる肉は食糧庫へ運び、皮や骨も持ち帰る。
《運搬士》の若者が二人、大人たちに混じって縄を通していた。荷の下へ差し込み、引いて結ぶ。その動きに迷いがない。
「そこを持つんだ。――違う。もっと低く持て。力で上げるな」
「……こう?」
「そうだ。そんな感じだ」
言われた通りにすると、さっきより楽だった。ただ力を入れるだけではない。持つ位置が変われば、同じ重さでも負担が変わる。
何度かやれば覚えられるかもしれない。
縄が掌に食い込む。痛い。けれど自分が手を離せば荷が傾く。アシェルは握り直した。
列になって森へ入ると、湿った土と葉の匂いに肉の生臭さが混ざった。歩くたび魔物避けが胸骨に当たる。父たちは一定の速さで進み、時折後ろを確かめる。
アシェルは遅れないようについていった。
途中で列が止まった。
前方にレオンがいた。
革鎧を着て、腰には鉄の剣がある。
アシェルは自分の手元を見た。
縄。
肩の荷。
首から下げた魔物避け。
少し先にはレオンの剣。
同じ日に職を授かったのに、もう持っているものが違った。別に縄が嫌なわけではない。仕事に連れてきてもらえたことはありがたい。
「――右だ」
年長の冒険者の言葉に反応してレオンが動く。踏み込みが見えず、鉄の剣が走った。低い唸り声のあとに何かが倒れる。
「進むぞ」
父の声で前を向いた。
レオンの背中が遠ざかっていく。
アシェルは縄を握り直し、父の背中を追った。その日は最後までついていった。家に着くころには腕も背中も痛み、掌には縄の跡が赤く残っていた。指で触れると少しひりついた。
「……どうだったの?」
「まずまずだ」
夕飯の席で母が父を見ると、父は椀を持ったまま答えた。
アシェルは汁を一口飲んだ。褒められたわけでも、役に立ったと言われたわけでもない。でも駄目だったとも言われなかった。明日も行けるかもしれない。そう考えながら、もう一口飲んだ。
「今日も行くぞ」
翌朝、父が戸口で言った。
アシェルの手が止まった。昨日ついた掌の縄跡は、まだ薄く赤い。
「うん」
返事をして立ち上がる。手はもう靴へ伸びていた。
その日も森は湿っていた。アシェルは言われる前に布を取り、縄を押さえ、荷が傾きそうになると肩を入れた。
「……それでいい」
父が一度だけ言った。
アシェルは返事をせず、次の縄へ手を伸ばした。昨日できなかったことが今日は少しできる。職が違っても、仕事そのものは覚えていけるのかもしれない。
その日は牙猪が二頭だった。《運搬士》の若者は一人で半身を担ぎ、アシェルは角兎を二羽ずつ抱えた。
重い。
それでも持てた。
今は始めたばかりだ。持ち方を覚えて身体が慣れれば、もっと重いものも運べるようになる。父だって最初から何でもできたわけではないだろう。帰り道、若者の一人が言った。
「前よりはましだな」
誰のことかは分からなかった。
アシェルは前を向いたまま歩いた。春の終わりまでは、それでよかった。父に呼ばれればついていく。《迷い人案内人》として必要とされているわけではない。それでも父に「行くぞ」と言われる朝が待ち遠しく、言われる前から靴を履いた。
村を歩くときも以前ほど人の目が気にならなくなった。
何日か経つと森へ入る道や荷をまとめる順番も覚えた。縄の結び方も一つ覚えた。
レオンを見ることもあった。大人の冒険者と並び、一人で茂みへ入り鉄の剣を抜く。声はかけなかった。それでも同じ森にいる。同じ道を通って村へ帰る。まだ完全に離れてはいない。そう考えられるだけでよかった。
夏が近づくころ、少しずつ違うものが目についた。
最初は荷だった。
牙猪の半身を《運搬士》は一人で担ぐ。アシェルは二人で持つ方へ回される。坂道でも彼らは足を止めず、アシェルは途中で一度踏ん張る。
最初は慣れの差だと思った。彼らは《運搬士》で自分は手伝いだ。持ち方を覚えて身体が慣れればいい。けれど、荷を下ろしたあとも違った。若者たちはすぐ次へ行き、アシェルは腕が動くまで少し待つ。
誰も遅いとも弱いとも言わなかった。だからこそ気づいた。自分に回ってくる荷が違う。
ある日、大きめの牙猪が出た。《運搬士》の若者が半身を一人で担ぎ上げる。アシェルには声がかからなかった。代わりに角兎の束を渡された。
「こっちを頼む」
「……うん」
受け取る。十分に重い。それでも牙猪と比べると軽い。だから渡された。これなら自分でも運べる。列にも遅れない。できるようになったから任されているのだと思っていた。
でも――逆なのかもしれない。
自分が運ぶものは、いつもこれくらいだった。
持てるもの。
遅れないもの。
誰かの邪魔にならないもの。
自分にできるものだけを最初から選んで渡されていた。ただ、仕事をもらえたことが嬉しくて気づかなかっただけだ。
列が動き始める。
前を歩く若者の肩には牙猪。
自分の腕には角兎。
同じ列を歩いている。でも、同じ仕事ではなかった。アシェルは角兎を抱え直した。腕に重さがかかる。これなら最後まで運べる。
それでいい。仕事なのだから、できることをやればいい。そう考えて前を向いた。それでも少し先で揺れる牙猪の脚が、何度も視界に入った。
村へ戻るころ、風が冷たくなった。日差しはあるのに春が戻ったようだった。畑の麦は伸び方が揃わず、雑穀の葉も色が薄い。
「今年は冷えるな」
前を歩く男が言った。
誰も答えなかった。代わりにため息が周りから聞こえてきた。
荷を下ろし終えると、アシェルは腕を見た。皮膚が赤く擦れ、肩にも痛みが残っている。今日も最後までついていった。けれど《運搬士》の若者たちは、もう次の荷を片づけていた。
アシェルは赤くなった皮膚を指で押した。
痛い。これだけ痛いのだから頑張った。それは自分でも分かる。でも、頑張ったことと役に立ったことは同じではない。袖を下ろし、赤い跡を隠した。
家へ戻ると、母が戸口でこちらを見た。
「今日は遅かったわね」
「少し、大きいのが出たんだ」
「そう」
夕飯の椀はいつもより少し重かった。汁が多く、具も一つ多い。アシェルは母を見た。母は自分の椀を見ている。父も何も言わない。アシェルも何も言わずに食べた。母が無言で励ましてくれているようだった。椀の中の汁は温かかった。
その夜、寝台へ入っても肩が痛んだ。寝返りを打つたび、擦れたところが布に触れる。痛む肩を下にしないよう身体をずらした。
目を閉じると森の道が浮かんだ。父の背中。縄。胸骨に当たる魔物避け。腕の中にあった角兎。少し先を歩く《運搬士》たち。
渡された荷はほかの者より軽かった。力不足。全部、分かっている。それでも今日一日が無駄だったとは思いたくなかった。
縄の結び方を覚えた。日々、早く動けるようになっている。今日だって最後まで荷を運んだ。
肩が痛むたび、今日もあの列を歩いていたことを思い出せた。痛みが残っている間だけ自分はまだあの中にいる気がした。
明日も呼ばれればいい。
小さい荷でもいい。
列の端でいい。
まだ……ここにいたかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
少しずつ仕事を覚え、ようやく自分の居場所を見つけたように思えたアシェル。
けれど、同じ列を歩いていても、見えている景色は少しずつ変わり始めます。
次回も読んでいただけると嬉しいです。




