第一話 村の枠外
木剣の乾いた音が、荒い吐息のあいまを縫うように響いた。
村外れの空き地は畑にするには石が多く、家を建てるには傾斜が不向きで長いあいだ子どもたちの遊び場となっていた。踏み固められた地面にはところどころ白い石が浮き、靴底が当たるたびに、じゃり、と音が鳴る。
季節が進めば背の低い草に覆われるが、今はまだ地面は剥き出しのままだ。子どもたちが駆け回るたび、土埃がふわりと舞う。
アシェルは打ち合いの中で木剣を握り直した。
汗で少し湿った掌に柄がわずかにずれる。
滑るかもしれないという不安をのみこみ、アシェルは正面を見据えた。
目の前ではレオンが木剣を構えなおしていた。その周りを同じ年ごろの子どもたちが輪になって囲み、口々に囃し立てていた。
「そこだ、やれ!」
「また負けるぞ!」
「足! 足! そこ、踏み込め!」
「依頼受けたんだろ、早く行けよ!」
「まだ準備中だって! 薬草採ってからだ!」
少し離れたところでは、別の子どもたちが石を並べて何かを囲っていた。誰かが腰に紐を巻きつけて袋をぶら下げ、別の誰かが木の枝を掲げている。まるで依頼札みたいだったがアシェルはすぐに視線を戻した。
「お前は魔物役な! 逃げるなよ!」
「薪の依頼だってよ!」
「それ討伐じゃねえだろ!」
「討伐成功したら分け前は平等だからな!」
そんな声が木剣の打ち合いの合間に混ざって聞こえてくる。
好き勝手言うな、とアシェルは思った。周りの声は雑音にしか聞こえなかった。皆がそれぞれ自分のしたい遊びに夢中になり、好き勝手している。
息を整える内に深い集中に入り、次第にその音も気にならなくなった。そしてレオンの肩口めがけて踏み込んだ。
狙いは悪くない。いける、とアシェルは思った。いつもより深く踏み込めていた。剣先もぶれていない。
だが次の瞬間、木剣の先はわずかに届かず空を切った。かわされた拍子に身体が泳ぐ。
「―――ッ!?」
アシェルは目を見開いた。思わず息を呑む。
レオンはほんの少し身体をずらしただけだった。その流れのまま、こつん、と軽い衝撃がアシェルの脇腹に当たる。
「はい、死んだ」
レオンが言った。
「……死んでない」
「今のは死んだだろ」
「ちゃんと入ってない」
「どこがだよ」
「かすっただけだろ」
「もっと強く打ってもいいんだぞ?」
周りで見ていた子どもたちが一斉に笑った。
「なにがおかしいんだよ」
アシェルは舌打ちした。だが、自分でも負けたと分かっている。レオンは強い。幾度となく木剣を打ち合わせてきたが、レオンの目はいつも剣先を捉えている。見てから躱す。簡単そうに見えて難しいその動きをレオンは当たり前のようにやってのける。
だからこそ勝ちたいと思う。だが、レオンにとっての当たり前が、アシェルには難しい。そういう差を、嫌でも思い知らされる。
手に握る木剣の切っ先は傷だらけだった。それに比べて、レオンの木剣はアシェルと同じくらい打ち込んでいるはずなのに、目立つ傷がほとんどない。力をうまく流しているのだろう。どうすればそんなことができるのか分からない。
剣で勝てる気がしなかった。アシェルはため息をついた。
「次、入口まで競争な!」
と誰かが叫ぶと、空気が一気に弾けた。
昨日、村周辺の魔物が大人たちに一掃された。ダンジョンの入り口までの道中は今なら安全だ。その入り口までの競争は、こういう時にしかできない遊びだった。
子どもたちは一斉に駆け出す。アシェルは一瞬だけレオンと目が合ったが、互いに頷くより早く、二人は同時に地を蹴っていた。おまえには負けない。その思いだけは、言葉にしなくても通じていた。
空き地を飛び出し、アシェルたちは石の多い坂を下って山道へ入った。木々の葉がざわざわと擦れ合っている。前の日に雨が降ったせいか、土は少し湿っていた。地を蹴るたびに足が滑りそうになった。
この道が、村近くのダンジョンへ続いている。それだけで、子どもたちの胸は熱くなった。
ダンジョンで魔物と戦い、強くなる。やがて英雄となって名を上げる。この村の子どもたちにとってそれはただの夢物語ではない。外へ出るための数少ない道だった。
前を走るレオンは、やはり速い。足場が悪くても、走る姿勢が崩れない。傾いた道端の石を足裏で捉えながら、身体のバランスを調整しているようだった。
このままでは追いつけない。
それならこっちだ。アシェルは道の外れに横たわる倒木を視認すると、迷わずその脇へ飛び込んだ。
「どこ行くんだよ!」
誰かが後ろで叫ぶ。
構っていられない。
この先に近道がある。引退冒険者の男がそんな話をしていた気がする。
だが、次の一歩を踏み出した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
沢の音が右から聞こえる。藪の切れ目の先に平たい岩がある。その岩を越えれば、少し開けた場所へ出る。
知っている。そう思った。
けれど、肝心の男のことを思い出せない。顔も、名前も、声も浮かばない。
そもそも、そんな話をいつ聞いた?
アシェルは息を呑んだ。だが、それでも足を止めなかった。
沢の音は確かに右から聞こえていた。藪の切れ目の先には平たい岩があり、それを越えると視界が少し開ける。
枝をかき分け、倒木をまたぎ、湿った岩を飛び越える。袖に葉が触れ、頬を枝先がかすめる。息を切らして飛び出した先で、ぱっと視界が開けた。
目の前にダンジョンの入口があった。
山肌をえぐったような洞穴だが、入口の前はきれいに整えられている。
地面は固く踏みしめられ、枯れ葉や小枝は掃き払われていた。脇の土には黒い灰が混じり、木炭が転がっていた。野営の痕跡だ。
村にとって、ダンジョンは大事な資源だった。だからこそ村の冒険者たちが手を入れている。
だが、入り口の先だけは闇が深く、見ているだけで寒気がした。
「なんでもういるんだよ」
背後から声がした。振り返ると、レオンが肩で息をしながら、顔をしかめた。
「俺は誰にも抜かれてないぞ。どうやったんだ?」
「こっちからきたんだよ」
アシェルが親指を立てて背後を示すと、レオンは目を細めてそちらを見た。獣道とすら呼べない。かろうじてアシェルの足跡があるだけで道には見えない。
「そんなところ道じゃないだろ」
「そうかもな。でも最短だ」
「ずるいぞ。どうしてそんなところを知ってるんだよ」
「内緒だよ」
そう言い返しながらも、アシェルは少し得意げになった。レオンはもう一度、アシェルが抜けてきた場所を見やってから、肩をすくめた。
「昔からそういうところあるよな。誰も知らないようなことを知ってたり、初めてのことでも物怖じしなかったり」
「そうか?」
「そうだよ。普通は誰もこんなところは通ろうとしないだろ」
レオンは苦笑した。その顔を見て、アシェルの胸の奥が少しだけ熱くなる。
木剣では勝てない。足の速さでも、僅差で敵わないだろう。だが、こういうことならレオンに勝てる。村の外れの山道も、沢沿いの細い獣道も、引退冒険者が酒のついでにこぼした地名も、なぜだか自然と頭に残る。覚えようとしなくても残っていた。
レオンにはレオンの。アシェルにはアシェルの得意なことがある。
そう思えば、木剣で勝てないことも少しは呑みこめた。
将来、レオンはきっと剣士として冒険者になるだろう。
それならば自分はレオンの隣で足りない部分を埋めればいい。そのくらいの役目なら、自分にもきっとあるはずだ。
「なあ、もうちょい奥まで行ってみようぜ」
子どもたちが次々とダンジョンの入り口前にたどり着く中、誰かが言った。
誰もが入り口を見やり、息を呑む。アシェルとレオンも同じだった。改めて闇の深さに足がすくみそうになる。
「やめとけよ。今日は入口までって話だろ」
「一歩だけなら平気だって」
「お前、この前泣きそうになってたじゃん」
「あれは急に風が吹いたからだし」
「ダンジョンのせいじゃないのか」
「ダンジョンだって風くらい吹くだろ」
口々に勝手なことを言い合う。
「じゃあ、ほんとに一歩だけな」
ひとりが笑いながら、入り口のすぐ脇へ寄った。洞穴の縁に手をつき、暗がりの奥を覗き込もうと背伸びする。
その瞬間、アシェルは急に寒気を感じた。
頭上だ、と思うより先に身体が動く。アシェルは子どもの肩を掴んで強く引いた。相手がよろめきながら後ろへ戻った次の瞬間、洞穴の上からこぶし大の石が落ちてきた。乾いた音を立てて地面にぶつかり、砕けた欠片が跳ねる。
「……え?」
引かれた子どもが呆けた声を漏らした。
誰もすぐには喋れなかった。
「危なっ!」
「今の……見えてたのか?」
遅れてそんな声が上がる。
アシェルは答えられなかった。分かったわけではない。ただ、落ちる、という嫌な確信だけが身体に先に走っていた。
石が地面を打った音を聞いた瞬間、ほんの一瞬だけ、別の感覚が混ざる。頭の奥まで響く鈍い衝撃。視界が傾き、膝から崩れ落ちる感じ。
気持ちが悪かった。
「……ふざけんなよ、急に引っ張るな」
助けられた子どもが、青い顔のまま強がる。
「だったらそんなとこ寄るなよ」
アシェルはそう言い返したが、自分の声も少し硬かった。
ダンジョンの入り口の闇は、昼間だというのにひどく深かった。少し覗き込んだだけでは何も見えない。外の光を吸い込んだように暗く、ここから先だけ別世界に続いているように思えた。
村の大人たちは、浅い層なら資源になると言う。引退冒険者たちは「こんなところはまだ玄関口だ」と笑う。
だが、子どもたちにとっては入り口だけで十分だった。
アシェルは一歩だけ前へ出て、闇の手前で足を止めた。
冷たい空気が頬を撫でる。
昼の山道の匂いではない。村の中でも嗅いだことがない匂いだ。湿った岩と、古い土と、何か得体の知れないものが息を潜めているような匂いだ。背筋の内側を細い指でなぞられたような寒気がして、アシェルは身震いした。
「ほんと、お前らダンジョン好きだよな」
いつの間にか追いついていた年上の少年が呆れたように言った。少し離れたところで腕を組み、入り口の前に群がるアシェルたちを眺めている。
「好きっていうか、そりゃ、な」
レオンが肩をすくめる。
「冒険者になるなら避けて通れないだろ」
「まだ職も授かってないのに、気が早すぎるって」
「いいんだよ。どうせ俺は剣士だし」
「言い切るなよ」
「じゃあ、お前は何になるんだよ」
「俺? 運搬でも採掘でも食っていけりゃいい」
「夢がないなあ」
「お前らがありすぎるんだよ」
また笑いが起きる。
アシェルは闇から目を離し、岩壁にもたれかかるように立つレオンを見た。子どものくせに、もう少し大きくなれば本当に剣を持ちそうな顔をしている。
目元が強く、立ち方に迷いがない。今はまだ木剣を肩に引っかけているだけなのに、それがひどく似合っていた。
「じゃあ、そっちのお前は何になるんだよ」
年上の少年が、今度はアシェルに向かって言った。
「俺?」
「そう、お前。レオンが剣で戦いたいのは分かった。じゃあ、お前は何すんだよ」
アシェルは少しだけ考えた。
思いついたのは、いつだったか冒険者から聞いた言葉だった。
「……斥候、かな」
「お、いいじゃん」
「それっぽいな」
「地形とか道覚えるの得意だしな。さっきもすごかったし」
周りが納得したように頷く。
レオンも軽く笑った。
「似合ってるな」
――そうかもしれない。
アシェルは一瞬だけそう思った。
けれど、そのまま言葉が胸の中で引っかかった。
斥候。
前に出て、敵を見つけて、仲間に知らせる役。
間違ってはいない。自分の得意なことにも近い。
なのに、何かが違う。
さっきだって、危ないと分かったのは見つけた後じゃなかった。
敵を見つける前に、危ない場所に近づかない方がいいんじゃないか。
見つけてから動くんじゃなくて、最初から踏み込まないようにできるはずだ。
道は覚えられる。
地形も頭に残る。
足も速い。
剣だってそれなりに使える。
なら――。
アシェルは顔を上げた。
「……違う」
「は?」
「斥候じゃない」
「じゃあ何だよ」
言葉はまだ曖昧だった。
けれど、さっきよりははっきりしていた。
「みんなの戦う場所を決めるやつ」
「なんだそれ」
「危ない場所を避けたり、戦う前に安全を確保する。そんな感じの――」
レオンが眉をひそめる。
「そんな職、あるのか?」
「……分からない」
アシェルは一度だけ息を吐いた。
「でも、あると思う」
胸の奥にあった形のないものが、ようやく言葉になりかけている。
「なんだそれ」
レオンが言う。
「そんな職、聞いたことあるか?」
「ない」
アシェルは答えた。
「ないのかよ」
「でも、あるだろ」
「なんで言い切れるんだ」
「それが一番しっくりするからだよ」
「すごい理屈だな」
呆れたように笑われたが、アシェルは少しも揺るがなかった。
もし名のある職でなかったとしても、きっと似た何かはあるはずだ。道を覚え、迷わず進み、危ない場所を避けるための役目。それが自分の居場所なのだと、なぜだか確信めいたものがあった。
しばらくそんなふうに言い合ってから、子どもたちはようやく村へ戻り始めた。ダンジョンの入り口の前に長くいて、大人たちに見つかれば叱られる。みんな、そのことはちゃんと分かっている。
山道を戻りながらも、興奮はなかなか冷めなかった。
「今度は俺も使うからな」
「何を?」
「近道」
「やめとけよ。お前、たぶん途中で沢に落ちるぞ」
「落ちねえよ」
話しているうちに、いつの間にか周りの連中は別の話題で盛り上がり始めていた。
誰かが「都の冒険者は一日で銀貨何枚稼ぐらしい」と言えば、別の誰かが「そんなの絶対嘘だ」と言う。
引退冒険者から聞いた話が、皆の中で少しずつ大きくなっていく。
この村では、そういう馬鹿げた話を誰も笑わなかった。
畑だけでは食べていけない小さな村だ。近くには浅いながらもダンジョンがあり、引退した冒険者たちが戻ってきて、その古傷を見せながら昔話をする。
遠い都や別のダンジョンの話は、子どもたちにとってただの夢物語ではない。うまくいけば、いつか自分にも届くかもしれない数少ない未来だった。
村へ戻る頃には、空はもう赤く染まり始めていた。
山あいの小さな村は、陽が傾くと一気に影が深くなる。昼のぬくもりが残っていた土も、夕方にはもう冷たさを帯びはじめていた。アシェルは坂の途中で一度だけ振り返る。村の外れ、その先にあるはずのダンジョンはもう見えない。それでも、あの闇の深さだけは、まだ胸の奥に残っていた。
怖かった。
けれど、それ以上にまた行きたいと思ってしまう。その先にある未来に想いを馳せるだけで胸が躍った。
家々に明かりが灯り始め、子どもたちはそれぞれの家へと散っていく。気づけば一人になっていた。
「ただいま」
戸を開けると、温かい空気が流れてきた。
石積みの暖炉には火が入り、ぱちり、と薪がはぜる音がした。部屋の奥には、薄く煙の匂いが残っている。
「おかえり」
暖炉の前で、母が振り返る。鍋から立ちのぼる湯気が、ゆるやかに天井へと広がっていた。
「遅かったわね」
「ダンジョンの入口まで行ってた」
「また?」
「今日は俺が一番だった」
「すごいじゃない! 一番だったの?」
母が満面の笑みを浮かべて言った。
「最近はよく走ってたもんな」
そう言うと、奥にいた父が顔を上げた。
「その成果か?」
「あ、ああ。そうだよ」
歯切れの悪いアシェルの返答に父が片眉を上げた。
「なんだ? どうしたんだ? 一番だったんだろ?」
「うん」
勝つには勝った。
近道を使って、だけど。
それだけで、こんなに喜んでくれるとは思わなかった。
アシェルは少しだけ視線を逸らした。木剣の傷を指でなぞる。一瞬だけ口を開きかけて、閉じた。
「……でも木剣じゃ、勝てなかった」
アシェルは木剣を壁に立てかける。刃先は傷だらけで、握りも汗で黒ずんでいた。
誰に、とは言わない。
もうこの話題はいつものことだった。アシェルの同年代で一番強いのはレオン。
大人たちがレオンに期待をしていることは子どもたちにとって周知の事実であり、だからこそみんなレオンに勝とうと必死だった。
「レオン以外には?」
父が何気なく聞いた。
「……勝った」
「それで充分だ」
あっさりと言われ、アシェルは少しだけむっとする。まるでお前の限界はそこだ、とでも言われている気がした。
「でも、あんたはそれだけじゃないでしょ」
母が鍋をよそいながら言った。
アシェルは顔を上げる。
「競争ではちゃんと勝ったんでしょ。それでいいじゃない」
「……うん」
「それも立派な得意なことよ」
父も短く頷いた。
「剣で勝てなくても、別のところで勝てばいいんだよ。全てにおいて勝つ必要はない」
「……そうだよな」
アシェルはしばらく何も言わず、湯気の立つ椀を見つめた。
レオンは前に出て、剣で道を切り開く。
なら、自分はその隣で――
危ない場所を避けて、みんなを導く。
そういう役目がきっとある。
「俺、たぶん……そういうのになる」
「そういうの?」
母が首を傾げる。
「みんなを安全に戦わせる職だよ」
言葉はまだ曖昧だったが、さっきよりははっきりしていた。
「それはなんて職なの?」
母は少し考えてから、やわらかく笑った。
「名前はわからない。でもきっとそういう職を授かってみせる」
「名前の分からない職か」
「うん」
「でも、いいじゃない。未来が広がっている気がするわね」
「今は、それでいい」
父が短く言った。
その一言で、十分だった。
胸の奥にあったものが、ちゃんと形を持った気がした。
暖炉の火が小さく揺れる。外の冷え込みに比べて、家の中はまだ温かい。
母がアシェルの頭を軽く撫でた。
「そんなに急がなくてもいいのよ」
「急いでない」
「顔が明日にでも冒険者になりそうよ」
「なれるならなるよ」
母はくすっと笑った。
その夜、寝台に入ってからも、しばらく目は冴えていた。
ダンジョンの闇。レオンの背中。自分がなりたいもの。
そして――なぜか、はっきりとは思い出せない声。
近道の話をしていたはずの、あの男のことを考えようとしても、やはりうまく思い出せない。
顔も、名前も、どこで聞いたのかも曖昧だ。
それなのに、その話しを聞いたことや道のことだけは、はっきり覚えていた。
――まあ、いいか。
そう思うしかなかった。
深く考えるほどのことでもない。
いつか、本当にあの先へ行く。
その時、レオンが前に立つなら、自分はその隣にいる。
そう信じたまま、アシェルは静かに目を閉じた。
目を開けると、冷たい空気が頬に触れていた。
息を吸うと、肺に入ってくる空気が、昨夜のものよりもはっきりと冷たかった。
暖炉の火。
乾いた薪のはぜる音。
誰かが笑っていた気配。
ついさっきまであったはずなのに、手を伸ばしても届かない気がした。
――遠い。
アシェルはゆっくりと身体を起こした。
寝台の硬さを確かめる。
いつもと同じはずだ。
けれど、少しだけ違う。
指を動かして布に触れる。
――いよいよか。
暖炉の火。母の声。父の言葉。木剣の傷。レオンの背中。
順番もなく浮かんでは、すぐに消えていく。
どれも知っているものだった。
ただ、今そこにあるものではない。
ずいぶんと昔のもののように。
息を吐く。
冷たい空気が喉を通った。
「そろそろ起きなさい」
扉の向こうから母の声がした。
アシェルは返事をせず、もう一度だけ目を閉じた。
さっきの夢に出てきた母より、少しだけ声がくたびれている。
けれど、今日が特別な日であることだけは、寝ぼけた頭の中でもはっきりしていた。
今年で生まれて十六年目。
植物が芽吹く季節。
職の授与の日だ。
教会へ向かう道には、すでに人がまばらにあった。
いつもより少しだけ早い時間だというのに、あちこちで戸が開き、名前を呼ぶ声が聞こえる。誰もが同じ場所へ向かっている。
「冒険者になるんだろ?」
「当たり前だろ」
「俺は採掘士かなあ」
そんな声が前から聞こえた。
誰もが、自分の将来の話をしていた。
アシェルはその後ろを両親と歩きながら、静かに教会に向かった。
教会の前には、すでに人が集まりはじめていた。
石造りの小さな建物だ。村の家屋より少しだけ高く、正面の扉の上には、磨かれた古い紋章が掲げられている。普段は静かな場所だが、この日ばかりは朝からざわめきが絶えなかった。
同じ年の者たちが家族と並んで立っている。見知った顔ばかりだ。けれど、いつものように気安く騒いでいる者は少ない。そわそわと深呼吸をしたり、声を潜めていた。今日が特別な日だということを、皆それぞれに分かっていた。
「緊張してるの?」
母が小さく訊いた。
「してない」
アシェルはそう答えた。
嘘ではなかった。胸が騒いでいるのは確かだが、それを緊張と呼ぶのは少し違う気がした。
今朝の夢見のせいか、あのときの気持ちが強く胸に残っていた。
期待の方が近い。
「顔が、ちょっと硬いぞ」
父が言った。
「そうか?」
「そうだ」
アシェルは自分の頬に触れた。いつも通りのつもりだったが、父には違って見えるらしい。
そのとき、人混みの向こうにレオンの姿が見えた。
先に来ていたらしい。家族と話していたが、ふとこちらに気づいて軽く手を上げる。
アシェルも同じように手を上げ返した。
それだけで、少しだけ落ち着いた。
昨日までと何も変わらない。そう思えた。
やがて扉が開き、順に中へ入るよう促される。
人々はざわめきを抑えながら、列になって教会の中へ進んでいった。
中は外よりもひんやりとしていた。
石の壁は朝の冷たさをそのまま伝えているようだった。差し込む光もどこか白い。前方には祭壇があり、その手前に白い石の台座が据えられている。子どものころから何度も見てきたはずなのに、今日は妙に目についた。
あれに触れれば、神様から職を授かる。
それだけのことだ。
この世界では、誰もが十六でそうする。
それで、だいたいは自分の役目を知る。
それだけのことなのに、祭壇の前に立つ司祭の声は普段よりも重く聞こえた。
授与の儀が始まる。
一人ずつ名前が呼ばれ、前へ出る。
白い石の台座に手を置くと、光が灯り、文字のようなものが浮き出てくる。司祭がそれを読み上げる。
「採掘士」
ほっとしたような声が上がる。少年の父親が大きく頷き、呼ばれた少年は照れくさそうに下がった。
「薬師」
今度は周りから感嘆の息が漏れる。母親が目元を押さえ、少女は泣きそうな顔で笑った。
与えられる職はさまざまだ。けれど、どれもすぐに村の暮らしと結びつく。
ああ、あの家ならそうだろう。
あの子なら向いているかもしれない。
そういう納得が、その場にはあった。
レオンの名が呼ばれた。
空気が少しだけ変わる。
誰も口にはしないが、皆が見ていた。アシェルも同じだった。
今やレオンは引退した冒険者が舌を巻くほど剣の腕前が上がっていた。同世代の子どもはもはや誰も適わない。
レオンは迷いなく前へ出る。背筋を伸ばし、祭壇の前で一度だけ足を止めると、そのまま台座に右手を置いた。
光が走った。
それまでの誰よりも、わずかに強い。
教会の中がしんと静まる。
「剣士」
司祭の声は短く、はっきりしていた。
やっぱりな、と誰かが小さく呟いた。
それは驚きではなく、確認のような響きだった。
レオンは一瞬だけ目を伏せたあと、振り返った。
その視線がアシェルを捉える。誇るような顔ではない。ただ、少しだけ照れていて、それでもどこか嬉しそうだった。
似合っている。
そう思った。
レオンは家族のもとへ戻り、肩を叩かれていた。
大人たちの表情は明るい。村の期待が、そのまま形になったようだった。レオンはきっと冒険者となって活躍していくだろう。遠目にレオンを見ながらアシェルは思った。
興奮冷めやらぬ中、次の名が呼ばれる。
また一人、また一人と前に出ていく。
アシェルは列の中で、自分の手を軽く握ったり開いたりした。
掌は少しだけ汗ばんでいる。
やがて、自分の名が呼ばれた。
アシェルは一歩前へ出る。
歩を進めるたびに、足音が石の床に響く。教会の中が妙に静かだった。レオンと目が合うと、「次はおまえの番だ」とでもいうような顔をしていた。皆が見ている、という意識が胸をざわつかせる。
台座の前に立つ。
白い石の表面は、近くで見ると滑らかで、ところどころ薄い筋が走っていた。長い年月、何人もの手を受けてきた石だ。神話の時代から存在する、と言われても信じてしまいそうなほど古びていた。
おそるおそる右手を伸ばす。
心臓が早鐘を打つ。
そして――手が触れた。
ひやりとした感触が、あとから掌に広がった。
その瞬間、台座が光る。
淡い光だった。
けれど、他の皆と同じようにすぐに光は収まらない。
揺れた。
水面に落ちた雫みたいに、光が一度波紋のようにひずむ。
文字が浮かびかける。しかし、何かの形を取ろうとして、すぐに崩れる。
教会の空気がわずかにざわついた。
アシェルは目を凝らした。
読めそうで、読めない。
文字の輪郭が揺れている。
これが普通なのか、と思って顔を上げると、司祭は眉をひそめて戸惑いの顔を浮かべているようでほんの一瞬だけ言葉を失っていた。
もう一度光が集まり始める。
先ほどより弱く、細く、かろうじて台座に光が収まった。
「……案内人」
読み上げられた声は、わずかに低かった。
教会の中が静まる。
そして、一拍遅れて、
「迷い人案内人」
と付け足された。
「案内人?」
後ろの方で、誰かが小さく繰り返した。
「そんな職、あったか?」
「聞いたことないな」
「道案内ってことか?」
囁きが広がっていく。
けれど、それもすぐに大きくはならなかった。喜ぶべきなのか、外れなのか、判断がつかない。そういう戸惑いがその場にあった。
アシェルは台座から手を離した。
掌にはまだ冷たさが残っている。
今朝の夢見。ダンジョンの入り口で口にした言葉が、ふと頭をよぎった。
みんなの戦う場所を決めるやつ。
道を選んで、危ない場所を避ける。
この職はそれに近づけるのか。
アシェルには分からなかった。
そう思う一方で、教会の空気はまるで違う方を向いていた。
村長が司祭に小声で何かを尋ねる。
司祭は困ったように眉を寄せ、短く首を振った。
母が、少しだけ心配そうな顔をしていた。
父は表情を動かさないまま、アシェルを見ている。
レオンと目が合った。
レオンもまた、どう言えばいいのか分からないような顔をしていた。
そのときになって初めて、胸の奥に小さな穴が生まれたようだった。
「こっちだ」
台座から離れて壇を降りると、すぐ近くで声がした。
別の子どもの名が呼ばれていた。
台座に光が灯る。
司祭がまた読み上げる。
「農夫」
呼ばれた少年は、迷わず下がった。
右手の方で、同じ系統の職の者たちが集まっている。あれは村の生活職の場所だ。
誰かが手を上げて、短く声をかける。
それに応じて、自然と輪ができる。
次の名が呼ばれる。
「木こり」
今度は反対側。
そこにも、すでに人が集まっていた。
それぞれ、行き先があるようだった。
声があり、場所があり、次がある。同じ系統の職同士が互いに集まって歓迎をしているようだった。
アシェルは、その場に立っていた。
誰も、呼ばなかった。
左には戦闘職。
右には生活職の人たち。
それぞれ、まとまっていく。
その流れの中に、自分の場所が見つからなかった。
「これにて、今年の授与を終える。職は神より賜るもの。されど、その歩みの先までは定められてはおらぬ。与えられしものをいかに活かすかは、己と人の営みの中にある。今日この日をもって、それぞれが己の道を歩み、村に安らぎと実りがもたらされることを願っている」
司祭の言葉が朗々と教会の中で響き渡った。朝の冷たい空気とともにアシェルの頬を打ち付ける。
もう一度、自分の手を見る。
冷たさが、まだ残っていた――。




