プロローグ
最初に砕けたのは空だった。
雲が裂けたのではない。雷が走ったのでもない。
夜の空。
星々の合間を縫うように細いひびが入った。
それはあまりにも静かで最初は誰も気づかなかったかもしれない。だが次の瞬間、裂け目の奥から白い光が滲み、遅れて世界そのものが軋んだ。地の底がガラス細工のように割れて、大地を大きく震わせ、遠い山々が音もなく輪郭を失っていく。路傍の石は砕ける前に歪み、風は吹いていないのに砂だけが宙へ舞い上がり、どこか見えない一点へ吸い寄せられていた。
世界が――壊れていく。
青年は砕けた祭壇の前に膝をついていた。
白かったはずの石段は崩れ、文様の刻まれていた床は大きくひび割れ、その隙間から淡い光が漏れている。祭壇を囲んでいた柱はすべて倒れ、埋め込まれていた魔石はどれも光を失っていた。手に取れば灰のように脆く触れた端からさらさらと崩れていく。
間に合わなかった、と青年は思った。
もっと早く辿り着けていれば。
もっと別の結末があったのではないか。
けれど今はもう悔やむ時間すら残っていなかった。
祭壇の床に手をつく。
指先が血で濡れていた。どこを裂いたのか自分でも分からない。腕も脚も重く息を吸うたび胸の奥で何かが軋む。それでもまだ倒れるわけにはいかなかった。
足元に転がる魔石の欠片を拾い上げる。
砕けたその先端だけがかろうじて刃の役目を果たせそうだった。
青年は割れた床の、まだひびの浅い場所を探した。息を整え、欠片を押し当てる。硬い音が鳴った。指先へ鈍い衝撃が返る。石にさらに細い傷が走りそこへ一本目の線が刻まれた。
その瞬間、頭の奥で記憶が溢れた。
自分の頭の中から零れ落ちていくように。
暗い坑道。
湿った岩の匂い。
誰かが落盤に巻き込まれる音。
差し出した手。届かなかった背中。
焚火の向こうで笑った顔。
守れたもの。守れなかったもの。
繰り返した死。繰り返した失敗。
それでもなお諦めきれなかった願い。
青年は歯を食いしばる。気を抜けばそのまま意識ごと世界の崩壊へ呑まれそうだった。
まだだ、とどこかで声がした。
欠片を引く。
もう一本。
さらに一本。
刻まれていく線は文字の形を取りかけたが、床のひびに遮られ途切れる。床そのものがもう長く持たないのだと分かった。それでも青年は手を止めなかった。石が砕け、血が混じり、指先の感覚が薄れていく。それでも残せるものがまだある気がした。
空の裂け目がさらに広がる。
白い光の奥で世界の骨組みそのものが悲鳴を上げている。
もう時間はない。
青年は最後の力を振り絞り欠片を深く突き立てた。
線は大きくぶれ、それでも石の上にひとつの痕を残す。
全部は刻めない。
全部は届かない。
それでもほんのわずかでも次へ残るならそれでよかった。
床に落ちた血が砕けた祭壇の溝をゆっくり伝っていく。
青年は肩で息をしながら刻みかけの文字を見た。自分でももうはっきりとは読めなかった。だがそこにはまだ終わらせないという意志だけが残っていた。
空が――とうとう音を立てて割れた。
世界は光を失いながら静かに一点へ潰れ始める。
山も風も砕けた祭壇も、青年の身体さえもすべてが同じ方向へ向かっていく。
青年は最後に砕けた床へ手をついた。
その手は震えていた。
けれど、諦めてはいなかった。
もし次があるなら。
もし、またどこかで始まるのなら。
今度こそ迷わず辿り着けるように。
そう願ったのかそれとも祈ったのか。
自分でも分からないまま青年はほんのわずかに笑った。
諦めた者の笑みではない。
自分がまた立ち上がることを知っている者の笑みだった。
「俺は、またここに戻ってくるんだろうな」
次の瞬間、白い光がすべてを呑み込んだ。
祭壇の上に残された布だけが、最後に、ほんのわずかに煌めいた。




