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第111話 単結晶試料

 朝7時、私はスマホのアラームで目を覚ました。スマホが表示する曜日は日曜日だが、今日は大学にいかなくてはならない。ヘレン先輩の指導で作った重い電子系超伝導体のサンプルができているはずだ。本当は金曜日にはできているはずなのだったのだが、実験が遅れているのだ。明日になったらX線を用いた結晶回折装置はほかの院生と取り合いになるから今日のうちにやっておきたい。


 いつもの朝食は食パンにジャムなのだが、昨日パンを買い忘れていた。そう言えば夜食にとかって置いたビスケットがある。ビスケットはもとはお菓子ではなく保存食としてパンのかわりに食べられていたものだ。最近どこかで食事としてビスケットを食べた気がする。それにしても体が重く、なにをやるにも時間がかかる。気がついたら結構時間がたってしまっていたのでインスタントコーヒーを用意し、胃へと流し込む。デザートとしてブルーベリーかなにかを食べたい気もするが、時間がないから諦める。

 今日は大学にだれもいないはずなので、すっぴんで家を出る。


 十月も終わり近い札幌の街はもう寒い。足がつい速くなる。札幌の街の道路は碁盤の目のようになっているから適当に交差点を曲がって行っても距離はかわらない。聖女様は子どものころ、碁盤の目を無限に細かくしていったら斜めに進むことになるので距離が短くなるのが不思議だったと言っていた。創成川ぞいに生えている草はすっかり茶色い。


 八時すぎに大学についた。研究室に荷物を置いて、電気炉を見に行く。電気炉にはペンタアーク炉で作った単結晶試料が入れてある。


 今作っているサンプルは、セリウム原子を磁性原子としてもつ金属間化合物である。何種類かの金属を混ぜて作るのだが、合金とは違う。合金は金属の中にまぜた元素がランダムな位置に混ざり込む。金属間化合物とは、混ぜ合わせた元素が周期的な結晶構造をとる。私のサンプルはセリウムのもつ磁性が金属電子と相互作用し、電子の質量が重くなって見える物質だ。


 先々週にペンタアーク炉という装置を使って単結晶試料を作成した。ペンタアーク炉というのは、アルゴンガス中で高電圧の放電(アーク放電)を起こし、その熱で試料の原料を溶かす。「ペンタ」というのはアーク放電を起こす電極が4本であるということだ。電極は多いほうが溶けたサンプルの温度がより均一になるのだ。昔は3本だったらしい。溶かしたサンプルにタングステン棒を刺すと、そこだけ冷えてサンプルの小さな結晶ができる。そこからタングステン棒をゆっくりと引き上げていくと、最初にできた結晶に規則正しく原子がくっついていって、原子配列が規則的なまま大きな結晶ができる。これを単結晶という。普通に原料を溶かして冷やすと小さな結晶がランダムな方向を向いて固まってしまう。これを多結晶と言うが、磁性物質は結晶の方向によって性質が代わるから、多結晶試料では性質がぼやけた状態でしか測定できなくなる。単結晶試料ならばそれがなく、サンプルの性質の方向依存性がはっきりと測定できる。


 先々週、このペンタアーク炉がトラブった。私がアーク放電を始めようとしたとき、バチッという音とともに、一つの電極からアーク放電ができなくなってしまった。

 私は装置を分解して故障箇所を調べることにした。


 何箇所かバラしたところ、電源装置から電極をつなぐ部分にある電気抵抗が一つ、焼け切れていることがわかった。バチッという音がしたとき、アーク放電するはずの電流が予期しない経路で装置に流れてしまい(ショート)、電流量が瞬間的に多くなりすぎ電気抵抗が焼け切れたらしい。

 私はショートした部分と焼け切れた電気抵抗を持って網浜先生のところに報告しに言った。部品を見た先生は、

「何、勝手にバラしたのか?」

と機嫌が悪くなりかけたのだが、

「はい、バラさないと修理できませんので」

と言ったら納得してくれた。どうも先生は最初、私が装置を無断でバラしてショートの原因をつくったと誤解したらしい。

 とにかく急遽部品を取り替え、その日の夕方にはペンタアーク炉は復旧した。それでもまるごと1日予定が遅れてしまった。1日遅れで単結晶試料を作成し、試料にのこった歪を取るため、電気炉で何日も700度の温度にしておいた。これを焼きなましとかアニールとか言う。アニールしていない試料は結晶内に残留する歪のため、性質が乱されてしまうからこの作業は省略できない。


 眼の前にある電気炉は昨日のうちにスイッチを切ってあったから、温度計の示す温度はもうしっかり下がっていた。タングステンワイヤーを引っ張って、試料が入っている石英ガラス管を持ち上げる。


 石英ガラス管を作業台に下ろすと、スマホに着信があった。SNSでないということは急ぎなので慌てて出る。のぞみ先輩だった。

「玲子ちゃん、私ヘレン、いまどこ?」

「え、昨日言ったじゃないですか、サンプル電気炉から出したところです」

「あ、そう、で、大丈夫?」

「ええ、大丈夫でした。これからディフラクション、やります」

 ディフラクションとは、試料の一部を粉末にしてに線をあてて結晶構造がちゃんとできているか調べる実験である。

「いや、それじゃない、気持ちの問題」

「ええ、大丈夫ですよ、いまのところサンプル、綺麗です」

「あ、そう、じゃ、いいか。なんかあったらあったら言ってよね」

「はい、でも今日先輩、デートじゃないんですか」

「あ、うん、だけどさ」

「先輩、明先輩大事にしないと」

「うん、わかった」


 私は乳鉢でサンプルを粉末にする作業を始めた。


「あれ、さっき先輩、ヘレンって名乗った」


 それがきっかけで私はノルトラントのこと、ヤニックさんのこと、すべて思い出した。実験が手につかなくなった。どうも私はヴァルトラントから聖女様たちが帰ってきた日の夜、札幌に帰ってきてしまったらしい。ヤニックさんがどうなったのか、まったくわからない。いつもの3倍の時間をかけ実験をして、なんとか家にもどった。


 翌月曜日、私は心が乱れたまま登校した。もう少しでヤニックさんとの生活を始められることころまできていたのに、急にそれがお預けになってしまった。なにかのきっかけでノルトラントに戻れば、またヤニックさんとのお付き合いはできる。だけどそれまで、ヤニックさんと会うこともお話することもできない。ただただそれが辛かった。


 今日はX線を単結晶試料にあてて、結晶の成長方向を決定する予定だ。研究室にたどり着いたらのぞみ先輩が私を捕まえた。

「玲子ちゃん、あんた今日は難しい作業しちゃだめ。アーク炉の掃除でもしてて」

 私の心理状態を正確に見抜いたのぞみ先輩は、私から試料をとりあげ単純作業を命じた。


 ごそごそとアーク炉の内部を洗浄していると、スマホに着信があった。出てみると珍しいことに修二先輩である。

「あ、玲子ちゃん、よかった捕まった」

「先輩、私なんかに電話していいんですか、聖女様嫉妬しますよ」

「いや、その杏がね、実験させろってうるさいんだ。玲子ちゃんと一緒に魔法の修行をしたんだからできるようになったはずだって」

「適当にスライムでも作らせとけばいいんじゃないですか」

「それは昨日やった。全部成功した。創作料理も食わされた」

「どうだったんですか」

「うまかった」

「よかったじゃないですか」

 聖女様は創作料理はしない。創作料理は実験みたいなものだから、例の聖女効果で必ず失敗すると聞いていた。

「それで杏が調子づいてね、今日これからぼくの実験あるんだけど、実験ホールの入口で中に入れろってさわいでいるんだよ。みんなでなんとか押し留めてるんだけど、玲子ちゃん、説得してくれないかな」

「いいですけど多分無理ですよ」

 電話の向こうで聖女様の、

「実験させてくれないと修二くん、離婚する!」

という叫び声が聞こえてきた。

「先輩、あきらめてくださいよ、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ参加してもらえばいいんじゃないですか。データが荒れたらすぐ、おひきとり願えばいいんですよ」

「うんわかった。そうする」


 私はちょっと元気が出てきた。作業のきりが良くなったので、一度研究室にもどる。


 階段をあがったところでカサドン先輩に出会った。

「あ、玲子ちゃん、いいところに来た。さっきね、理学部棟の下にね、スケッチブックをもった外人さんがいたらしいよ。レイコさんというひとを知らないかって、聞いて回っているらしい」


 私は階段を駆け下りた。その外人さんはヤニックさんにちがいない。

 お読みいただきありがとうございました。「聖女様の後輩」完結です。


 今回は主人公を「小原玲子」とし、1人称形式としました。


 もちろんこのシリーズの本当の主人公は杏です。ですが杏の恋愛は成就し、早々に結婚してしまったためお話として恋愛関係の発展性はありません。杏も修二も、浮気どころか他の人に心が揺らぐことはありません。彼らの人格的にあり得ません。ですが作者としてはやっぱりストーリーに恋愛をもちこみたかった。されど女子にもてもてのルドルフは幼すぎた。


 そこで玲子ちゃんです。「後日譚」のほうででてきた玲子ちゃんを杏たちの冒険に巻き込むことにしました。


 告白しますが玲子ちゃんには外見だけモデルがいます。近所のお店の店員さんで、ものすごい美人です。私は話したこともなければ人格もまったくわからないので、外見だけ借りました。このシリーズの登場人物はたいていモデルはいます。もちろん玲子ちゃん含め、名前・経歴・人格は変えたりミックスしたりしています。


 1人称形式にしたのは、そのほうが書きやすいからです。「聖女様の物理学」「うっかり」は3人称形式ですが、「後日譚」とか「外伝」を1人称にしてしみたらそれが書きやすかった。「聖女様と物理学」もそうです。しかしそのせいで、暗殺未遂事件後のアンのヴァルトラントへの旅が書けなくなくなる弊害が発生しました。しかたがないのでここだけ、ルドルフ目線で書かざるを得ませんでした。


 そして難産でした。書き始める前、大雑把なストーリーはありました。エンディングも決まっていました。しかしそれに至る過程がいまいちもりあがるように思えませんでした。当初は魔女様のもとでしんどいしんどい修行をして、アンが魔法の制御力を獲得し、東海村に帰る予定でした。でも真面目な二人は厳しい修行にもめげなかった。それというのも学問というものは厳しく、「自分はこんなこともわからないのか」「自分は馬鹿だ」と心底思わされることの連続です。いずれいい意味でこれにも慣れ、淡々と日々をこなすようになっていくわけです。特にアンはそういうことが札幌時代にすでに身についているので、魔法の修行もすなおに受け入れることができたわけです。さらに戦争まで体験していますから、修行で命を狙われるわけではないので強いのです。玲子ちゃんも基本まじめだし、杏やのぞみに憧れる後輩なので、修行でくじけることはないのです。というわけでストーリーのクライマックスにはなりませんでした。


 そういうわけで事件を起こすことにしました。アンは犯人を殺してしまいますが、これは相当迷いましいた。アンも騎士の訓練を受けているわけですから反撃すること自体は問題ない。しかし平和の象徴であるべき聖女が正当防衛とはいえ人を殺していいのか。

 ただアンは戦争で直接戦闘に参加しています。アンは指揮下にある戦闘要員の生死に関し責任をもっているし、敵にしても直接手を下していなくてもやはりその死の責任はある。平和になれつつあるアンに、その責任の重さを再度認識してもらうことにしました。


 今の日本は平和です。その平和は先の戦争で命をちらした方々によりもたらされ、その後も自衛隊を筆頭に平和を維持する努力をしてきた人たちの不断の努力によるものです。ステファンもアンも、すでに国政に参画しているわけですからその責任を負っています。


 少し個人的意見を述べます。「隣の国と仲良く」という言葉を聞くことがあります。私は「仲が悪いから別の国なんだ」と思っています。だから別の国としてうまくつきあっていくしかないと考えています。だからアンがどんなにヴァルトラントのことを考えて行動しても、ある程度は恨みを買ってしまいます。この不幸な事件からアンはそのことを再認識したうえで前に進んでもらいたいと思いました。

 ただファンタジーですから、最後はなるべくみんなハッピーで終わってほしいとは考えています。


 アンは学力は高いですが、性格的には単純で猪突猛進型です。その性格がノルトラントとヴァルトラントに繁栄をもたらしてくれると私は信じています。


 続編ですが、現在構想中です。少し時間がかかると思います。舞台はまた異世界です。「聖女様の後輩」と同様難産が予想されています。

 というわけでもないのですが、今回ノルトラントから帰還した杏と修二の物語を、「後日」に書き加えます。現在6話ほど書いてみました。東海村です。第29話からが「聖女様の後輩」の続きになっています。読者の皆様にはもう少し、物理の世界で暴れる杏と仲間たちの物語とおつきあいいただければと思っております。

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