風待(後)
京都に戻った僕は、路子カフェに顔を出した。
帰京の挨拶がてら晩御飯を食べるためであって、他意はなかった。
ちりんと風鈴の音がして、「いらっしゃい」と応じた声は、小西先生のものだった。
春花も今日には戻っているはずだったが、彼女の声はなかった。寂しいような、けれどどこかほっとしたような、自分でも説明がつかない妙な気分だった。
僕と目を合わせた小西先生は、あきらかに落胆したように、ため息まじりにつぶやいた。
「なんだ、星河君か」
もう慣れっこにはなったが、ずいぶんな言われようだった。
しかも、いまの僕の状況を言い当てられたような気がして、思わずため息とともに愚痴がこぼれた。
「僕って、やっぱりどうでもいい人間なんですかね」
いつもの小西先生なら、当意即妙で叱咤激励のひとつもくれそうなものだったが……。
このときは様子がおかしかった。
待ち人でもいるかのように店の入口を何度も気にする姿は、ありえないことだが、うろたえているようにしか見えなかった。
小西先生はやや間をおいてから、「いいや」と応じた。
「そんなことはないよ。これは、たぶん星河君にしか頼めないことだ……」
はじめて僕のことを認めるような発言をしたあと、小西先生は声を潜めた。
「……じつはね、春花と連絡がとれないんだ」
想定外の小西先生の答えに、僕はなかば無意識に言葉を返した。
「どうしたんですか、春花」
僕の答えも想定外だったのか、小西先生はきょとんとしたあと、黒と茶のまじった瞳をまっすぐに僕に向けた。
「喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか……。まあいい。春花はね、実家で勤めを果たしたあと、母親からなにか言われて、そのまま実家を飛び出したきりなんだ」
つい先日の春花の話を思い出して、僕は「勤めというと?」と聞き返した。
小西先生が「ああ」と応じる。
「一之宮神社の例大祭の主役、比咩大神の依代、菊理媛神子だよ。あの子は小学生のころから、ずっと勤めているんだ」
なるほど、と僕は合点した。春花はどこか楽しげに話していたが、やはりそういうことか。
「つまりそれが嫌で、春花は家出をして逃げだしたいと思った、というわけですか」
小西先生は、オッドアイを見開いて、「え」と小さく声を漏らした。
「春花が、そう言ったのかい?」
その言葉は、僕には意外だった。
「違うんですか」と問い返した僕に、小西先生は首を横に振った。
「いや、違うとも言い切れない、か……。いずれにせよ、今はそんな話をしている場合じゃない。行くところもないだろうから、いずれここに戻ると高をくくっていたんだがね」
そう言って小西先生が見せてくれたスマホの画面には、春花あての未読メッセージがずらりと並んでした。「家出」という春花の言葉が、初詣での記憶が、忘れかけていた棘が、ふたたび僕の胸を刺した。
僕もスマホを出して、春花に安否を尋ねるメッセージを送る。しかし、そのメッセージは、いつまでたっても既読にならなかった。
「真優理先輩と高橋先輩には?」
僕の問いに、小西先生は首を横に振った。
「もう、その線は考えなくていい。星河君だけだろうよ、春花をファーストネームで呼び捨てにできる男は」
そう言われて、僕は自分の迂闊を悟った。
だが、確かにいまはそんな状況ではない。小西先生も、それは些細なことだと言わんばかりに言葉を続けた。
「春花の立場もあるから、おおごとにはしたくないんだ。他には知らせず、今夜ひと晩だけ様子を見たい。もし星河君に連絡があったら、ともかくここに帰ってくるように伝えてくれ」
わかりました、と答えて、僕は路子カフェをあとにした。空腹のことなど、すっかり忘れていた。
僕は、スマホでメッセージを送りながら、アパートに向かった。
階段を上って部屋のある階に着くと、ドアの前に青と白のなにかがあった……いや、居た。
それは、ゆっくりとした動作でこちらを向いた。
五月晴れの空を映しとったような青いワンピースに、巫女の千早を思わせる白いボレロを羽織った少女だった。
ストレートの黒髪が流れて、その下からペリドットの瞳が僕を見上げた。
その薄緑の水面は、一瞬だけ僕を映したあと、揺れて乱れて、しずくを落とした。




