花冷(後)
気まずい沈黙を「あたし」という、綾乃の溌剌とした声が破った。
「智之ちゃんの婚約者ですっ」
そう言い放って挑発的ともいえるボリュームの胸を張った綾乃に、僕を含めた四人が「ええっ」と声を揃えた。
「いや、そうだけど、でもあれは……」
狼狽した僕のしどろもどろの言葉尻を、綾乃は満面の笑顔で引き取った。
「子どもの頃の口約束だけどね。でも約束は約束だから。挑戦者がいるなら受けて立つけど、いまのところライバルは……」
そう言いながら、綾乃は春花と真優理先輩を見渡した。それはまるで、アルバイトに応募してきた学生を面接する経営者のようで。
「うん」と頷いた綾乃は、二人に目を配ったままで告げた。
「詩織ちゃんだけだね」
春花と真優理先輩が、なにを言ってるんだとでも言いたげに、顔をゆがめる。
それまで黙っていた小西先生が、さも愉快そうに、はははと哄笑した。
「いいね、君。じつにいい。この子たちも、それくらいになればいいんだけどね……」
春花と真優理先輩の目元が、明らかに険しくなった。
だが、小西先生はそんな二人にはお構いなしに、言葉を続けた。
「どうだい、綾乃ちゃん、私の弟子にならないか」
綾乃が、あきらかな作り笑いで首を横に振る。
「お断りします。あたしには、すでに尊敬するマスターがいますから」
忖度のかけらもない綾乃の返答に、小西先生もまた不敵な笑みで応じた。
「残念、朱雀を捉えそこねたか。まあいい。京都に来ることがあれば、いつでも訪ねてきてくれ。春花も真優理も、そう心配しなくてもいいさ。このとおり、綾乃ちゃんは星河君の手に負えるような子じゃないよ」
これにはさすがに、綾乃だけじゃなく春花と真優理先輩もそろって、バカにするな、とばかりに小西先生を睨んだ。
もう勘弁してくれ、と僕は心から思った。
この窮地を脱するには、なんとしても話題を変えなければならない。
「ところで綾乃。今回は、いつまで日本にいるの?」
はるばる帰国したのだから数日は滞在するものと、勝手に決めつけていた。もし朝陽に帰省するのなら、一緒に帰ってもいいと思った。
けれど綾乃は、こともなげに「今日までだよ」と答えた。
「今夜の飛行機で、ニューヨークにとんぼ返りだよ」
え、と僕は呆気にとられる。
「昨日、帰国したんだよね。そんなにすぐに行っちゃうの?」
うん、と綾乃は無邪気な笑顔で頷いた。
「やりたかったことが、できたから。だから、もういいんだ。それに、ニューヨークには、やるべきことがあるからね。あたしは、やりたいことは諦めないし、やるべきことからも逃げない。だって……」
そして、綾乃は一点の曇りもない笑顔で宣言した。
「あたしが、自分で決めたことだから」
歪んでいた春花と真優理先輩の顔が、すうっと、きれいに引き締まった。
けれど、そのあとの二人の様子は対照的だった。真優理先輩は綾乃を見据え、春花は目を伏せて俯いた。
綾乃はといえば、そんな二人に一瞥をくれただけで、豪快にパンケーキを口にして、「おいしい」と目を細めた。
路子カフェを出たあと、綾乃は、日本の桜を見ておきたいと言った。
京都に数ある桜の名所のなかで、僕のいちばんのお気に入りは、蹴上のインクラインだ。綾乃に見せるとすれば、そこしかないと思う。
地下鉄を乗り継いで蹴上で降り、レンガのトンネルを通り抜けてインクラインに上がる。
インクラインは、琵琶湖疏水の蹴上船溜と三十六メートル低い下流の南禅寺船溜をつなぐ傾斜鉄道で、船の揚げ降ろしに使われていた設備だが、いまは公園として開放されている。
この時期は、石畳の坂道に敷かれたレールに左右から覆いかぶさるように、桜並木が満開の花を咲かせる。
綾乃は、陽光と青空を仰ぎながら、両手を広げて大きく息を吸った。彼女の胸が、さらにゆたかに膨らんだ。
「ありがとう、智之ちゃん。ここまででいいよ。じゃあ、あたし行くね」
ふりそそぐ陽光よりもまばゆい笑顔でそう告げた綾乃は、くるりと、なんの心配も未練もないように、僕に背を向けた。
そして、インクラインの枕木の幅に合わせるように、伸びやかな歩みで、青空に続く花の坂道を登っていった。
僕はひとり、花冷えの風の中に残された。
この時になってはじめて、そうか、と僕は気づいた。昨日からの収まりの悪い気持ちの正体に、そして、どうしようもなく僕と綾乃から失われてしまったものに。
そう。
綾乃はもう、手をつないで一緒にいられる幼馴染の女の子ではなくなったのだ、と。
遠ざかる綾乃の背中を後押しするように、風に散る桜の花びらが天に舞いあがる。
その彼方には、晴れ渡った青空が無限に広がっていた。




