第二章 接触(3)
次の日。
いつもより早く起床した俺は動きやすい服装に着替えて、愛用のザックに水筒と財布、懐中電灯と昨日翻訳した文を書いたノートを入れると、朝飯も食パン一枚を口にして咀嚼しながら慌ただしく家を出た。
俺は駅に向かう道すがら翻訳した文章に書かれた、ユートピアに行くのに必要な“6つの材料”のことについて考えていた。
寝ても覚めてもその材料の事で俺は頭がいっぱいであった。どこにある物なのか皆目見当がつかない。
何か手がかりはないか、と一縷の望みをかけて二駅ほど離れた“吉賀市”にある大図書館に行こうとしていた。この図書館は日本でも有数の蔵書数を持つとして、本好きの間では“聖地”として有名な場所で……、ここならば何か手がかりが見つかるかもしれない。
この時ほど自分の無知さにほとほと愛想が尽きた。やはり勉強だけ必死にこなすだけでは駄目なのだという事を嫌という程に理解した。
しかし……、己の無知さを嘆く一方で、こんなのは知らなくても当たり前なのではないか、と開き直る愚かな俺がいた。
確かに、こんな植物の名や動物の種類などを知らなくても就職には困らない(一部の職種はそうでもないが)。こんなのは科学者や研究者、一部のコアなマニアしか知らないと断言できる自信が俺にはある。
「昨日寝る前にネットで調べてみたけど、全然ヒットしなかったしなぁ。ネットは万能ではなかったという事か……」
やはり、調べ物は“昔のやり方”の方がいいという暗示なのだろうか。
まぁ、俺はもともとネット厨じゃないから別にいいのだけれど。
って、また話がそれちまったよ。今俺が考える事はユートピアに行く事だけだ。他の事は一切必要ない。
「にしても……、これ本当に日本で揃えられるのかな? 十数年生きてきてこんな名前の物聞いたことも見たこともない」
いくら世情に疎いからって、流石にある程度の植物とか動物の名前は分かる――――――、つもりなのだが、まさかここまで情弱だったとは。
というか、アウル目シュクラヴァ種ハナスズモって何? 何の花? どこに生えている花だよ。写真とかないからどんな花か全く想像がつかない。
まぁ、まだ植物とかは百歩譲るとして(本当は良くないけど)、これはいかんでしょ。アウトでしょ。
トラウル種アグラバー目ネコイヌ科ヨルドヴァー――――――って、いったい何の動物だよ。こんなのがいたら大ニュースだよ!! ファンタジーの世界かここは。
今頃になってあの女が仕組んだデマじゃないかとさえ思ってくる。あれ? 昨日ってエイプリルフールだったっけ?
しかし、エイプリルフールは数か月も前に終わったのを思い出し、やはりこれは冗談ではなく真実という事か、と疲れたように肩を落とす。
まぁ、この真偽は図書館に行けば全て明らかになるであろう。
俺としては、エカトリーナの為にも少しは成果があって欲しいところだが、こればかりはどうにもできやしない。全ては神のみぞ知るのみ、ということだ。
とりあえず考えても埒が明かないので、一刻も早く目的へと向かうべく俺は駅へと歩を進める。急げば通勤ラッシュを避けて電車に乗れるはず。
早歩きで進むこと数十分。
自宅から一㎞ほど離れた場所にある駅前へと辿りつく。駅前と言っても山手線などの各駅ほどの規模はなく中程度の大きさの造りで、駅の周りにあるのはせいぜいモルバー(モルガルバーガー)ぐらいである。
それでも急行が止まるのだから、実は結構勝ち組なんじゃないかと、密かに優越感に浸っている奴は少ないはず。
俺は普段電車通学ではないから、正直どうでもいいのだが……。それでもあることに超したことはない。
二駅分の乗車券を購入した俺は改札を通り、挿入した乗車券を取ってホームへと向かう。最近はカード式の定期タイプ? みたいのがあって、事前に換金したらかざすだけで改札を通れるという便利な代物があるらしく、俺もそろそろ購入しようかと考えているのだが……。
そんなに乗らないのにいらないかな、という気持ちもあって、中々決断できないでいた。
でも一々券を買わないでいいのは楽でいいし、かざすだけでいいなんて少し憧れるのもあるのも事実だ。なんか昔見たアニメのワンシーンみたいで、もしかしたら童心に帰れるような気がしたから、っていうのもあった。
しかし、前述のように普段利用しない物にお金を使う余裕は家にはないので、結局のところその件は保留という事で落ち着いた。
ある程度人でごった返す駅構内を進み、構内の中腹部分にある乗車券の発券機で手早く停車駅までの片道切符を購入すると一番ホームへ向かう。
それほど大きな駅ではないから、二つのホームしかないのだが……、交通の便でとしては中々に役に立つので特に不満はない。むしろたくさんあるより分かりやすいので、俺個人としては嬉しい限りではあるが(方向音痴というのも理由の一つではあるのだが)。
購入した券を改札口に差し入れて通り過ぎると、真っ直ぐにホームへ。電車に乗る前にトイレに寄ろうかとも思ったが、よくよく考えたら駅のトイレはあまり綺麗ではないのを思い出し、図書館に着いてからでいいかと頭を振って歩き出す。
階段を降りてホームへと辿りついた俺は降りたすぐ先の電車乗り場へと並ぶ。俺と考えることは一緒なのか、大半の乗客が俺の後ろへと並ぶのを見て何だか可笑しくなった。
他人と並ぶこと数分ほどで、電車が汽笛を上げながらホームへと滑るように入ってきた。俺の目の前を通過する度に生暖かい風が全身を弄る。
電車は寸分違わぬ正確さで停車し、プシュー、プシューとタイヤから空気が漏れるような音を断続的に発しながら扉が開くのと同時に、俺を含めた乗客が一斉に電車へとなだれ込むようにして乗車する。
まぁ、マナーとしては先に降りる人を優先するべきなのだが、今回は降車する人がいなかったので大丈夫であろう(余談ではあるが、たまに年寄りとかは降りる人を押しのけてまで乗車しようとするが)。
まだ休日の朝早くなので満杯ということはないが、それでも席はみな埋まっており、車内もほどよく人で溢れかえっていたので、俺は降りる時にあまり苦労しない出入口付近の場所を陣取った。
それでも乗降者の邪魔にならないように端っこの方で体を縮こまる必要があるが、ここなら痴漢の容疑をかけられる心配もないし、何より空調が良く効くので俺は電車に乗る時はもっぱらこの場所と決めているのだ。
そうこうしている内にどうやら発車時刻になったようだ。ピューイ、という鳥の囀りのような汽笛がホームに響き、それを合図に両開きの扉がゆっくりと音を立てながら閉まる。
それから間髪入れずに巨大な四角い鉄の塊が鼓膜を劈くような音と共に動き出し、進むスピードはゆっくりであったが徐々に速度を上げ始め、ドアに申し訳程度に備え付けられた窓から見える景色も矢の様に通り過ぎていく。
各停ならばこのような速度で運行しないのだが、そこはやはり急行というべきか。停車する駅の数が少ないからこそ、である。
俺は窓越しに見えるビル群をぼんやりと眺めながら、これから自身のすべきことを簡潔にまとめようと、ここ数日間で入手した情報の数々を整理することにした。
一つ目に、魔女は実在するということ。
二つ目に、魔女には契約者がいて、望みを叶える代償として対価を支払うが、お願いの内容によって払う対価も重くなるということ。
三つ目に、奪われたものを取り返すためには、直接魔女に会って契約を解除する必要があるということ。
その為には――――――、魔女が支配する地球とは別世界である“ユートピア”に行く必要があるということ。
しかし、その行く方法というのが……、あまりアテに出来ない人物の指示のみというところが悩みどころなのだ。
「……ユートピア、か」
一体どんなところなのだろう。
俺は考えるのをひとまず中断して、自分が行くと決めている目的地への想像を膨らませる。何せ、魔女などというファンタンジーな生物が住んでいる世界なのだから、よくあるゲームみたいな世界観そのものなのではないだろうか。
それとも中世とか、近世とか、数百年前の欧州の街並みを模しているとか。
それか予想の斜め上をいってものっすごく化学が発展した世界だったりして……、なんてな。
仮にも魔女なんていう大昔の存在を自称しているくらいなのだから、後者はまずあり得ないであろう。なんていうか雰囲気ぶち壊しだし、なんか俺もそんなミスマッチな世界観見たくないし、良くも悪くもテンプレ的なのが一番。
確認のために開いていたノート(徹夜でまとめた)を閉じて、俺は体内で燻るモヤモヤした気持ちを溜め息に変えて吐き出し、後は到着するまでの間ただ黙って目的地までの旅を楽しむことに決めたのであった。
と、思ったのだが二駅分の旅路なんてのんびりと構える暇はなく、なんだかあっという間に停車駅である“古賀”に到着してしまった。
俺は乗り過ごすまいと機敏とした動きで下車する客に続いて電車を降りると、駅ごとに異なる匂いと風が、空調で少し冷えた俺の全身を包み込むようにして過ぎ去っていく。
実は俺はこの感触というのか、まぁ、なんというか苦手なわけで。あまりいい気分ではなく、毎回毎回電車から降りる度に嫌な思いをしているわけで。
しかし、そんなことでは挫けないぞ、俺は。
兄は強、なのだ。
特に妹の為ならば。例え火の中、槍の中、ってね。
さぁ、おふざけもこの辺にして、と気を取り直して俺は図書館へ向かう為に、一番近い出口へと向かって歩く。
この駅自体そんなに大きくないから、出口自体も1~6番までしかないから、慣れればすぐに覚えることが出来る。
「え~っと、図書館に行くには確か4番出口から出た方が一番近かったよな」
ほんの数回ほどしか行った事がないから覚えているか心配だったけど、どうやら俺の脳みそはそこまで退化してないようだ。
って、そんなことで安心していいのか俺!? 年寄りとかじゃないんだから、そこは覚えておくのは常識だろう。
と、自分自身でセルフツッコミするのも忘れない。
ここまで器用貧乏なのもどうかと思うが、それを含めて俺自身なので、今更変えようとも思わない。
というか、友達とかいなかったから独り言とか多かったし、しょうがないと言えばそれまでだし、なんというか単なる結果論に過ぎない。
こんな俺で異常だというのなら、芸人の中でもピンの人はどうしたらいいんだ、って話になるし、別にピンだからとってボッチではないと思うし、結局はその人の本質だと思う。
長々講釈垂れているけど、俺は別に上から目線で語っているつもりはなくて、ありのままの事を述べているだけであるからして。
(それにしても、昨日のアイツの言葉はいやに胸に響いたなぁ。いつもは上手くやり過ごせるのに、どうしてなんだろう。アイツが俺と同じ契約者だから? って、そんな単純な話ではないか)
とすれば……、俺自身が今の状況を薄々“異常”に感じているのか?
いや、いやいやいや。それはない。というかあり得ない。
幸か不幸かは分からないが、俺は、俺と妹は今の状況を望みこそすれ、後悔や憂いの念を抱くことはほぼ皆無と言っても差支えない。
他人と触れ合うことに嫌気が差したからこそ、俺は、俺たちは――――――。
「――――――ぇ」
俺は、二度と他人に心を許すまいと――――――。
「……ねぇ!! 聞いているの、そこのアンタ!?」
「――――――!?!?!?」
考え事に熱中し過ぎた俺を現実に引き戻すかのように、背後から若い女の怒鳴り声が響く。どうやら俺に用事があるようだ。
一体何ごとなのかと驚きと恐怖でバクバクと激しく脈打つ心臓を宥めながら、これ以上女の気に触らないように細心の注意を払いながら後ろへと振り向く。
「あ、あの……、何か用です――――――、って、あれ? アンタどこで――――――」
振り向いた先に立っていたのは、どこかで見覚えのある少女であった。
どこで……? あっ!! 思い出した!
「そうだった、そうだった。偶然バスで乗り合わした子だよね?」
「そうよ。また会えたわね。元気にしていた?」
俺が思い出した事に安堵したのか、先ほどまで怒りに染めていた美しい顔に花が咲いたような笑みを浮かばせる。
彼女は数日前に妹の病院に行く際に乗り遅れそうになったバスを止めてくれた親切な少女であり、名前も素性も知らないけど妙に親近感を抱き、珍しく初対面の相手でも警戒も緊張もせずに普通に接せられた数少ない人物なのである。
少女はあの時見た清潔そうな白いワンピースではなく、黒い薄手のワンピースにフリルをふんだんにあしらった黒の日除け傘、白いリボンをアクセントにした黒の髪留めに、足元を彩るのは血の様に紅く染め上げた革靴であった。
まるっきり印象の違う少女の艶姿に、俺は女というのは服装一つでこんなにも印象が変わるのか、と畏怖の念を抱いた。
「その格好、前見た時とだいぶ印象が違うな」
「前? あぁ、当たり前じゃない。だって、病院にお見舞いに行くのに“黒”じゃあ縁起が悪いでしょ。黒は“死”を連想させる色だから、ね」
だからよ、と少女は口元に手の甲を当てて静かに笑う。
なるほど、深く考えたことはないけどそういやそうだよな。だって、看護婦も医者もみんな“白”の服を身に着けているし。黒い服を身に着けている人もあまり見かけない気がする(見舞い歴9年の俺が言うのだから間違いないであろう)。
(こんな些細な事にも気を付けているなんて、ひょっとしてこの子も見舞いに行くのに慣れているのかな?)
と、どうでもいい疑問が浮かんでくるが、それはひとまず放っておいて。
「それにしても偶然だな。こんなに朝早くどこかに行く用事でも?」
「……別に、用事という用事でもないわ。ただ、早朝に散歩するのが私の日課というだけ。今日は珍しくこっちの方に来てみたの。ま、おかけで貴方に会えたから、たまには気分を変えてみるのも悪くないかも」
「そう、散歩。ということは古賀市に住んでいるのか?」
「古賀? ――――――えぇ、そうよ」
なんか変な間があったが、まぁいいか。
「それで、貴方の方こそこんなに早くどうしたの?」
と、少女がこの話題を変えるようにして矢継ぎ早にそう尋ね返してきた。
まぁ、特段違和感を抱かなかった俺は。
「あぁ、ちょっとな。ここの図書館に用事があってさ」
「図書館? 何か調べもの?」
「ん? あぁ……、まぁ、そんなところかな」
何故か話題に食いついて来た少女に戸惑いつつもそう答えると、少女は「そう」と短く相槌を打ち、何か思うことがあるのか突然思案顔になるも、それは一瞬の事ですぐに澄ました美少女顔に戻る。
「……そう、なら少しだけアドバイスしてあげる。図書館に着いたら中央通路奥の右側にある本棚の二列目を見てみなさい」
「は? 一体なにを……」
「いいから。そこにきっと貴方の探す“物”が見つかるはずよ」
面食らう俺を置き去りにするように、一方的に言い放った彼女は一人満足げな表情を浮かべたまま、もうこれ以上話すことはないという風に背中を向け、
「それじゃあ、ごきげんよう。また貴方とは会うかもしれないから、その時にお互いの名を明かすことにしましょう」
「なんでそんなことが分かる? アンタ占い師でもないくせに」
と、おどけて言ってみせたら、
「そうね、占い師ではないけど、予言することは結構得意なのよ、私」
意味深な発言を口にした後、少女は優雅な足取りでこの場を去って行く。背中で踊るように揺れる黒髪をしばしの時間見つめていたが、そろそろ開館時間に差し掛かっていることに気づいた俺は、後ろ髪を引かれる思いであったがこの場から移動することにした。