第二章 接触(4)
少年が去っていた通路を少し離れた場所の柱の陰から窺う小さな影があった。
その正体は先ほど少年と別れたばかりの、あの少女であった。
彼女は遥か先に小さく見る少年の背中を無機質な瞳で見つめながら、
「……To come finally(ようやく来るのね). I was waiting(待っていたわ). Hey, ATA(ねぇ、アータ)」
フフフ、と零れ続ける笑いを必死に堪えるように、少女は手のひらを口元にやるも、それでも指の間から声が漏れ出して来ていた。
それを合図に彼女の艶やかな黒髪がどんどん色を失っていき、あっという間に黒色の色素は失われ代わりに現れたのは輝かんばかりの銀髪であった。
職人の手でピカピカに磨き上げられた剣の刃のような、目も覚めるような銀髪が風になびく様は圧巻の一言に尽きる。それに比例するように愉快そうに細められる瞳も黒ではなく、澄み渡る空の様に綺麗な碧眼であった。
「フフフフ、あんまり来ないから迎えに来ちゃったわ。アータ、私はあまり気の長い方じゃないのよ」
少女は右頬に付けられた契約の紋章を愛おしそうに指で触れながら、少年の去っていた方を見つめ続ける。
――――――いい感じに歪んでくれた。
――――――彼ならば、私のユートピアで暮らすに値する。
「ユートピアは男禁制。しかし、アータは大丈夫」
アータならば、みんな受け入れてくれる。
確信はないけれど、きっと。
何故ならアータが、ユートピアに来るのは“必然”なのだから。
それに、傷ついた者を癒せるのは、同じ立場の人間だけ。
それは、私と、アータ。アータと、私。
二人は一つで、一人。
そこに、煩わしい理由なんてものは必要ない。
「あぁ、アータ。早く、貴方と一つになりたい」
嬌声を上げながら少女は身悶える。その声は、表情は恋する乙女そのもので。
未だに自分の前に現れない想い人を恋い焦がれる女のように、少女は身を焦がすような恋心にその小さな体を支配されていた。
未だかつて味わったことのない甘酸っぱい刺激に酔いしれるように、しばらく身を震わせていたが、ほどなくして満足したのかどことなく余韻が残る表情を浮かべて、
「ふふ、今からとても愉しみ。さぁ、早く会いに来て。そして―――――」
――――――たくさん遊びましょう、アータ。
手にした日除け傘を差し、日も差さない駅の通路を笑いながら歩いて行き、やがて景色に溶け込むようにして少女は忽然と姿を消した。
通路内に残るのは、愉快そうに笑う少女の声のみであり、それが人気のないこの場所を余計に不気味な感じに仕立てていた。
さて、駅の通路内であの少女と別れた俺はというと。
開館時間5分前には無事に図書館前へと辿りついていた。
まだ朝も早いというのに、図書館の前にはすでに何人かの人が待っており、彼らも“例の場所”を狙っているのだろう、と容易に想像できた(俺もその中の一人だから)。
例の場所というのは、図書館の中でもわずか数席しかない“個室”を意味し、図書館奥の左端に設置されている個室スペースの事を指す。
ネットカフェをモチーフにしたこの個室スペースは完全なる箱型空間であり、周りの視線や音声が完全にシャットアウトされるため、勉強に必死な受験生やレポート課題や卒論に追われる大学生に人気のスポットである。
だが人気が高すぎる為、利用者は朝早くに来て場所を取らないといけないため、今回は俺もこの個室を利用するために朝早くやって来たのだが……、どうやら今回の作戦は成功のようだ。
この人数ならば余裕で席は確保できるし、早起きしたかいがあるというものだ。
さて、今日のライバルは……。
辺りをザッと見回してみると、神経質そうな受験生に、優等生風の大学生、あとなんかオタク風のおっさん。
うん、この面子なら大丈夫だろう。
俺のカモシカの足についてこられる奴は一人もいなさそう。
特に最後のオタク(笑)
明らかに体育系でない彼らに後れを取るようでは、俺の大事な妹に顔向けできやしないし、何より俺のプライドが黙ってはいない。
まぁ、俺のプライドなどあってないようなちっぽけなものであるが、それでも一健全な男子高校生としては草食系の彼らに負けるようでは、この先に待ち受ける出来事を乗り切れないような気がするのだ。
体力は人並みにあるという事を俺は証明しなければいけないのだ、とパンパン、と俺は気合を込める為に頬を軽く二、三度叩く。
そうこうしている間に開館時間まで1分を切り――――――、軽快なBGNと共に開館を知らせるアナウンスが響く。
それと同時に俺たちは一斉に走り出す。
思うにスタートダッシュを上手く行えた者が、この勝負を制するといっても過言ではない。
よく運動会の種目にある徒競走とかもこの法則が当てはまると思う。
もちろん走る位置も重要であるが、それより大事なのはスタートダッシュであると俺は考える。
いかにフライングと見なされないようにしてスタートを切るか、こればっかりはコツか経験がものを言うと思う。
未だに俺はこのスタートダッシュが苦手で、割かし他の人よりスタートが遅いのだが、持ち前のスタミナの高さと速度で追い抜いて来た経歴を持ち、こう見えてもリレーなどのアンカーを務めたこともある強者であるのだ。
なので、俺にとってこの程度のハンデは痛くもかゆくもないのだが……。
「――――――可笑しい。まさか、この俺が……」
負けるなんて。
しかも、こんな明らかに草食系(笑)といっても差支えの無い奴らに。
こういう展開を誰が想像できただろうか。少なくとも数分前の俺にはこの結末は予想できなかったと断言できる。
と、俺は絶望に支配された顔を受け入れたくない現実へと向ける。俺の視線の先にあるのは優越感に浸る先ほど心中で小馬鹿にしていた奴らの姿であった。
彼は先ほどの姿と打って変わって、走り出した途端目にも見えない速さで俺の隣を走り抜け特等席を死守したのだ。
あの走りときたらベテラン走者も真っ青な走りであった。
彼らは似非草食系だったのだ。
あの外見に騙されて油断した俺が悪い、と潔く諦めて別の場所へと向かおうと背を向けた途端、
「やっぱファミレスでやろう。あそこなら飲食OKだしな~」
席を取っていた大学生がいきなり突拍子もないことを言いだし、今来たばかりだというのにサッサッと荷物を纏めて退出してしまったのだ。
突然の事に頭がついて行かないのだが、まぁ、俺としたら棚からぼた餅的なラッキーだし、有難く使わせて頂くけど……。
それにしてもあの変わりようは不自然というか、わざわざ俺に伝えるかのようにして扉を出ながら口にするなんて……。
誰だって疑問を抱くだろう? だってあんなに鬼気迫る表情で死守したのに、それを数分も経たずにあっさりと放棄するなんて――――――。俺だったらまずありえない展開だ。
でも――――――、急に気が変わって舞い戻ってきたら面倒だし、と俺はそそくさと周りに人がいないことを確認して素早く中へ滑り込むようにして入り、なるべく大きい音を出さないように気を付けながら扉を閉め施錠する。
すると、『使用中』というランプが貸出カウンターに設置されているモニターに付くという仕組みであり、本を取りに行く時は室内についている鍵を使用して施錠するというシステムになっている。
そうすれば本を取りに行っている間に、他の利用者に取られる心配はないという事だ。退出する時は施錠せずに出ていけばランプが消え、次の利用者が使用できるという、実に分かりやすいシステムだ。
これは高速バスのトイレにも使われているシステムで、実に理に適っていると言えよう。
まぁ、それはさておき。
俺は初めて利用する部屋の内装へと視線を向け、一体どんなものなかと置かれている設備を調べてみる事にした。
調べてみるとこれといって変わったものがない、ごくごく普通の一般的な個室であった。唯一他と違うことは四方を壁に覆われている事と、椅子がフワフワな造りの高級デスクチェアだったことくらい。
それもそうか。なにせここは勉強する場所なのだ。ネカフェみたいにパソコンなどが置いているわけがない。
まぁ、あっても邪魔なだけだしな、と俺は思ったより質素な造りに落胆しつつも、とりあえず人の目がつかない環境に及第点を付けて、ショルダーバックを机の上に置く。
とりあえず場所も無事に確保できたことだし、資料を探しにいかないと。
「……でも、一体何の本を探したらいいのか。植物図鑑とか、それとも動物図鑑とか。いや、一般的な図鑑には載ってないと思うし。う~ん、どうしたものか」
そうだ。場所の確保だけでなく、俺にはもう一つ重大な難関が残っていた。
そう、それは“資料”となる本の確保である。
いくらこの図書館が県有数の規模を誇るといっても、あんな特殊な事を記している本を所蔵しているという確証はない。一縷の希望をもって俺はここへと足を運んだのだが、今思えば浅はかだったかとさえ思えてくる。
しかし、探してみないことには何とも言えないことも確かだ。
ごちゃごちゃ言うのは図書館内をくまなく探索してからにしよう、と俺はひとまず個室から出る事にしたのであった。
この図書館の設立は今からおよそ100年前に遡り、明治末期の頃にある侯爵家の男によって建造された。
その男は大の読書家でも有名であり、自身の所蔵する数多の書物を保管・管理する名目で東京ドーム一個半の敷地を買い取り、当時では珍しい西洋建築家を雇って建築したそうだ。
その影響か、この図書館は彼方此方が西洋法式というか、司書の制服もいやにクラシカルなデザインだし、調度品とかも当時の物を今でも活用しているらしく、ものすごく味わいのある空間になっている。
もはやこの建物自体が異国そのものというか、別次元なのは確かだな。
「え~っと、西洋歴史のフロアは、と」
広いというのも考え物だ。
古い書物があるのはいいことだが、いざ利用する側にするとたくさんあってどこを探せばいいのか皆目見当もつかない。
方々歩き回ってかれこれ一時間になるが、目的のフロアには一向に辿り着いていない。単に俺が方向音痴なだけなのか、ここが広すぎるのか分からなくなってきた。
まぁ、16年の人生の中で片手数えるくらいしか来たことがないし、無理もないことなのかもしれないが……。
図書館は閉館時間もあるし、あまり悠長に事を構える暇もないのだ。
早く探さないと、と気ばかりが焦り、心なしか早歩きになって館内を移動する。
半ば諦めかけていたその時に、
『……そう、なら少しだけアドバイスしてあげる。図書館に着いたら中央通路奥の右側にある本棚の二列目を見てみなさい』
脳裏に先ほど駅構内で会ったあの少女の声がフラッシュバックする。
どうしていきなり思い出したのか。理由は分からないが、ここは彼女のアドバイスに縋るしか方法がない。自力で探すのには限界がある。
とりあえず中央通路とやらに向かえばいいのかな? と、俺は歩き出そうとするが、はたと立ち止まる。
(……ここは恥を忍んで館内のスタッフに聞いた方が良いのでは? これ以上時間を無駄にしたくないし)
適当に歩き回ってもそこに辿り着くか定かではないし、何より歩き回るのも疲れてきたところだ。それに同じところをグルグル回ったからか、方向感覚がまともに機能してない気がする。
それに本に囲まれているから、本酔いしてしまって気分が悪い。理由としては古い本が放つ独特の臭いに鼻が慣れていないからだと思う。
黴臭いとでもいうのか、とりあえずあの臭いは一向に慣れる感じがしない。
一刻も早くこの場を離れなければ、と俺は右斜め前で棚の掃除をしていたスタッフの女性に早速目的地の場所を尋ねる。
「あの、中央通路ってどこら辺にありますか?」
「中央通路? あぁ、ここがそうですよ。ほら」
と、スタッフの女性はついとある一点へと指を指す。
彼女の指先を追うようにして見てみると、仰天。
なんと、壁に掛っていた金属製のプラカードに、白い文字で『中央通路』と書かれていたからだ。
全くの盲点だった。
どうやら俺は知らぬ間に目的地にやって来ていたという訳か。
なんか……、気づいたらものすごく恥ずかしさが混み上げてくるのを感じた。
まぁ、恥のかき捨てだ。ここには自分の知り合いは一人もいないし、気にすることはない。
俺は恥ずかしさから悶えそうになるのを堪えながら、なんとかスタッフの人にお礼を述べてその場をそそくさと離れる事にした。
さて、気を取り直して。
俺は柱の陰に身を潜めて息を整えると、このフロアをくまなく探索すべく歩き出す。
中央通路といってもこのフロアだけで、一般の図書館の倍の敷地面積があるから、これは探すのに骨を折りそうだ。
でもまだ閉館までには時間があるし、今日は妹の見舞いをいつもより遅くしたので大丈夫だから、落ち着いて探そう。そうすれば見逃すことはないはず。
棚の一段ずつ端から端まで目を凝らして本の背表紙を確認していく。古めかしいラベルに思わず埃っぽさを感じ咳き込んでしまう。
「これも、違う。これも、これも、これも――――――。あぁ、これもだ」
確認した本の数は数知れず。大まかに数えたらゆうに百は超えるだろう。それでもこの図書館の所蔵数のごくごく一部だというのだからビックリだ。
「う~ん、ここにはないのかな? もう少しでこの辺りの棚終わっちゃうけど……。俺の確認不足なのか。そもそも、あの子の言う事を素直に鵜呑みして良かったのか」
なんでほぼ他人といってもよい間柄の少女の言う事に従う必要があったのか、今考えても謎なのだが。何だがあの子には妙な親近感というか、懐かしさを感じるというか。要するに彼女のことを“知っている”気がするのが原因なのだ。
だからなのか、彼女の言うことに逆らう気がないのは。
あの子の指示に従えば全て上手くいく。
そんな暗示がかかっているような気がしてならない、が。
まぁ、そんな事は120%ありえないであろう。そんな催眠術のようなものをかけられた事もなければ記憶すらない。
だから、そう。
あれは偶然に過ぎない。いちいち気に止む必要はないのだ。
俺はそう勝手に決めつけると、中断していた本の捜索に戻る。
あと少ししたらこの区画は終わることだし、一度部屋ある一冊の本に手をかけた途端、体全体に稲妻が迸ったような衝撃が駆け抜けた。
「!?!?!?!? 何だ、一体。なにが」
驚きでまともに言葉が出てこない。
身体がビリビリと痺れたままに、四肢が何回も激しく脈打ちながら痙攣していた。
こんなことがあり得るのだろうが。本に触るだけで電気が走るなどという超現象。静電気が走ったという規模の電気じゃなく、例えで言うなら接骨院にあるようなマッサージ機に誤って触ってしまった時のような痛みと衝撃であった。
思わぬ出来事につい手にした本を床に落としてしまい、慌てて自分の周りに図書館のスタッフがいないのを確認すると、目にも留まらぬスピードで本を拾い上げる。
傷や汚れがついてないのを目視すると安堵のため息を漏らし、折角だからどんな本なのか確かめようと本の表表紙へと視線を落とす。
吃驚仰天。
そこに書かれていた文字を見た瞬間、俺は思わず息を止まるのを感じた。それはほぼ無意識なのか、俺には息を止めた実感すらなかった。
その文字は、今俺が追い求めていたものを的確に指すものであったからだ。
「―――――ユートピアに住まう少女たち」
これだ。あの少女が言っていたのは。
俺は興奮冷めやらぬままにその本を持って、己が居城へと退散する。
個室へと入った俺は厳重に鍵を閉めて、持ち帰った本を机の上に置いて、姿勢を正して本へと向き直り、震える手で本のページを捲る。
ページを捲る度に古めかしい紙の臭いが俺の鼻腔を掠め、その臭いを少し煩わしく思いつつもページを捲る手は止まらなかった。
文字を斜めに流し読みながら、どこかに重要な文章はないかと目を光らせる。にしてもこれだけの文章量だと読むのにも一苦労である。
普段こんな純文学を読むことはないので、集中もするし気も張るはで目も疲れる。
その中でも気になる会話文を見つけたので、注意深く読むことにする。
『貴女がユートピアを創ったのですか?』
『そうよ。ここは私たち行き場のない者たちが住まう楽園。本当にユートピアを渇望するならば、ユートピアで暮らす資格があるならば、自然と扉が開くわ』
『扉ですか?』
『えぇ、そうよ。勿論、資格があれば、の話だけど、ね』
「――――――ユートピアを渇望すれば、ユートピアに暮らす資格があれば、自然と扉が開く、か」
まさか、ね。
そんな現実離れした出来事が起こるわけない。
何だか急に馬鹿馬鹿しくなって、本を閉じて椅子の背もたれに背中を預けて欠伸を一つ。
そうすると体の中で張り巡らされていた緊張の糸がゆっくりと解けるのを感じる事が出来た。
「……そんなにうまく事がいくわけがない。そもそもユートピアに行きたいなんて渇望するわけ――――――」
と、俺は何故か言いかけた言葉を飲み込んだ。
理由は分からないが、もう一人の俺が急に俺の口を抑え込んだかのような、何だが不思議な感覚が全身に広がる。
本音と建前が反転しているかのような、何だかむず痒い気持ちが体の奥で燻り続ける。
俺は一体どうしたいのだろう。自分の気持ちが、分からなくなってきた。
前はハッキリと拒否できた。
行かない。俺には妹がいると。
しかし、今はどうだ。
はっきりと断言できなかった。少しでも躊躇してしまう自分がいた。
俺は愕然とした。
何に? そんなのはもう分かり切っている。今更気づかないフリを続ける事は限界だと、俺の中にいるもう一人の俺がそう囁く。
「俺は……、渇望しているのか。“自分の(ー)行く(ト)べき(ピ)場所”への道を」
認めたくない。認めたくはないが、いざ認めてしまうと、不思議とすんなりと己が体に染み込むようにして馴染んでいく。
頑なだった俺の心が解きほぐされるようにして、自分が導き出した“答え”が、ピースの欠けた部分を修復するかのように融合していく。
(――――――そうか。俺は、今この瞬間を、あの時からずっと……)
その心地よさに全身を委ねるようにして、俺は眠るように瞼をソッと閉じる。
すると、今まさにその時を待ち構えていたように、個室を照らしていた照明が消え、辺りは人工的に作り出された闇に包まれる。
やがてその闇が顔の輪郭を黒く塗りつぶすまでに濃くなった頃、閉じていた本から淡い光が溢れ出し、薄ぼんやりとした光源が俺の顔を優しく照らし出す。
俺はその光に導かれるようにして本へと指を這わそうとし、あと数cmというところで奇妙な感覚に襲われる。ありとあらゆる感覚が麻痺するかのような、正常に機能しなくなったようで得も言われぬ恐怖心が体を駆け巡った。
物凄い爆発音を真横で聞いた時に起こる不快な耳鳴りが鳴り響き、俺はその音を遮ろうとして両耳を塞ぐも、塞いだところで耳鳴りが止むことはないのだが、つい咄嗟にしてしまいがちな行動とでもいったところである。
人間とはしばし不毛と思いつつも、こういう愚行などに走ってしまいがちな生き物であると、俺は常日頃からそう思っていた。
だって今まさに俺がその状況下にいるのだから、尚更である。
ともかくこの不快な耳鳴りは、黒板を爪で引っ掻いたときに発生する音に近く、長く聞いていると情緒不安定に陥りそうだ。
ギュッと強く瞼を閉じ、耳鳴りが止むのをジッと堪えるも、中々に効果は期待できず、ただ無情に時は流れる。
何秒、いや何分、いやいや何時間経ったのか。
時を忘れてしまいそうになるほど、俺はこの不快な耳鳴りに悩まされていたのだろう。時間の概念など頭の中からすっぱりと消えてしまうほど、ね。
ようやく耳鳴りが止んだ、と俺はホッと胸を撫で下ろす、が。次に鼓膜に聞こえたのは誰かの囁きであった。
最初は小さく、聞き取れないほどの声質であったが、段々とその声が大きくなり、やがてその声は思いもよらぬところから聞こえてきたのだ。
そこは―――――――、
「……やっと、会えたわね、アータ。さぁ、一緒に行きましょう」
俺のすぐ真横であった。
俺は振り向くことも、声を上げる事も出来ず、女の声に導かれるようにして意識を手放していく。
完全にシャットアウトする頃には、俺はこの世界から完全に姿を消していたのであった。
そう、誰にもその行方を知らせぬまま。
忽然と、姿をくらましたのであった。




