第23話「本能寺炎上」
第23話「本能寺炎上」
【東暦1571年・令正9年6月2日】
秀吉の失恋発覚から数日。
喫茶『本能寺』の狂乱の快進撃は、なおも続いていた。
「秀吉ッ! カウンター五番席、角煮定食追加! テイクアウトの珈琲も三杯急げッ!」
「あいよーーっ! 毎度ありですわーーッ!」
秀吉は涙を流しながらも、狂気的なスピードでホールを駆け回っていた。
意外にも、営業中の『平蜘蛛』の圧力は極めて安定していた。
ホールでの超多忙な業務に追われている間だけは、秀吉も失恋の痛みを忘れていられたからだ。
その隙を信長は見逃さなかった。
秀吉の抱える特級の【哀しみ】をフル活用し、平蜘蛛の超高圧調理チャンバーで極限まで軟化させた試作新メニュー――『超高圧仕込み・豚の角煮』を完成させていた。
「よし……! 本日の営業、これにて終了だッ!」
信長が缶ビールをプシュッと開け、暖簾を仕舞った。
まさに、その瞬間だった。
営業が終わり、厨房に静寂が訪れる。
「……寧々ちゃん……」
秀吉の顔から、先ほどまでの笑顔が消えた。
「俺、やっぱり辛いですわ……っ!!」
押し殺していた寧々への【悲恋の哀しみ】が、一気に胸へ押し寄せる。
秀吉が崩れ落ちて号泣した瞬間――。
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴッ……!!
バックヤードの『平蜘蛛』が、これまでとは異次元の重低音で脈打ち始めた。
「ば、バカな……! 営業中は業務の忙しさで紛れていた感情が、一気に逆流してきたッ! 圧力が上限値を突き抜けて上昇していくッ!?」
久秀がモニターを見て悲鳴を上げる。
「久秀殿! 圧力を逃がしてくださいッ!」
「できんと言ったでしょうッ! これは『正常な高出力』だ! 秀吉殿の純粋な哀しみが、平蜘蛛の構造限界そのものを内側から押し潰そうとしているッ!!」
ゲージの針は右端で折れ曲がり、八本の鋳鉄脚が床を削る。
「光秀! 秀吉! 表へ逃げろッ!」
信長が叫ぶ。
光秀と秀吉が裏口へ転がり出た、その直後――。
ドォォォォォォォンッ!!!!
過酷な高圧に耐えかねた『平蜘蛛』の鋳鉄フレームが、内側から破裂した。
超高圧の蒸気が爆風となって厨房全体を吹き飛ばす。
第一世代の「怒りによる火災暴走」とは違う。
第二世代の平蜘蛛を破壊したのは――制御不能の暴走ではなく、正常すぎる高圧だった。
その衝撃で厨房のガス配管が引き裂かれ、漏れ出したガスに炉心の火が引火する。
次の瞬間――。
営業終了後の無人の店舗を、激しい炎が包み込んでいった。
ゴウゴウと燃え盛る店舗。
黒焦げになった崩落した天井の下で、信長は猛火の中から『超高圧調理チャンバー』を力まかせに引っ張り出していた。
「社長……! 大丈夫ですか!?」
光秀と秀吉が青ざめて駆け寄る。
信長は炎に包まれた瓦礫の中にドカッと座り込むと、チャンバーの中からあつあつの皿を取り出した。
そこには、箸を使わずとも崩れそうなほどトロトロに煮込まれた『豚の角煮』が、湯気を立てていた。
信長は一口、その角煮を口に放り込む。
「…………ッ!!」
口に入れた瞬間、豚肉の繊維が抵抗することなく崩れ落ちる。
脂の甘みと濃厚な旨味が一気に広がり、まるで豚肉そのものが液体になったかのようだった。
信長は天を仰ぎ、猛火の中で豪快に笑い飛ばした。
「美味い……ッ! 秀吉の特級の哀しみが生み出した、極上の柔らかさだ!」
信長は燃え盛る店舗を振り返る。
「……ハハハ、店が燃えたか!」
そして――。
「だが、この味が手に入ったのなら――是非もなしッ!」
「是非もなしじゃないですよォォォッ!! 私たちの店がまた全焼したんですよあああッ!!」
光秀が炎の前で頭を抱えてのたうち回る。
道路の向かい側。
本願寺カフェの二階テラスから顕如が、激しく炎上する『本能寺』を、哀愁と冷徹さが混ざり合った眼差しで見下ろしていた。
「……また、燃やしましたか。職人の情熱も、度を越せばただの破壊だ……」
一方、煙が充満するバックヤードの片隅で、久秀は咳き込みながら、黒焦げになった鞄から一枚の古い設計図を取り出していた。
「ゲホッ……ゲホッ! ……くっくっく、やはり平蜘蛛では耐えきれなんだか」
久秀は炎の光に照らされた設計図を愛おしそうになぞる。
そこには、かつて「感情エネルギー技術」が廃れる直前、嘘発見器として開発された旧式のマイナー設備の構造が描かれていた。
しかし――肝心の嘘にはほとんど反応せず、人間が本当に喜んでいる時だけ異常な反応を示したため、失敗作としてお払い箱になった設備。
『感情チャンネル――喜:失敗作の嘘発見器』
「嘘には使えず、人間の純粋な【喜び】にしか反応しないガラクタ……」
久秀はニヤリと怪しく口角を吊り上げた。
「だが、秀吉殿が望んだ『客を喜ばせるための設備』として、これ以上の骨組みはあるまい」
久秀はパイプに火をつける。
「信長殿……次の店舗の設計、すでに私の中で組み上がっておりますぞ」
【東暦1571年・令正9年6月2日】
激しい炎に包まれ、喫茶『本能寺』は再び全焼した。
しかし、その焼け跡の中から――。
四感情の新たな可能性が、静かに芽吹き始めていた。




