第六話「雨中・雨後」
ユニット名が、決まってから数日が過ぎた。
朝のランニング。
放課後の基礎レッスン。
昼休みの何気ない会話。
そして、1st.festに向けた打ち合わせ。
天門愛希、黄世美苑乃、却白蒼の三人は、少しずつではあるが、確かにユニットとしての日々を歩み始めていた。
そんなある日のこと。
三色修人と笹枝加奈子から、三人へ使用できる楽曲のリストと、過去のステージ資料が渡された。
1st.festで披露する楽曲を決めるためだった。
千才学園では、先輩や卒業生が過去に使用した楽曲の一部が、後輩たちにも使用可能な形で残されている。使用申請を出し、必要に応じてパート分けや振り付けの調整をすれば、1st.festのような学内イベントで披露することができた。
もちろん、曲ごとに難易度も方向性も違う。
王道のアイドルソング。
クールなダンスナンバー。
バラード。
ロック調の曲。
ミュージカル風の構成曲。
卒業生が残した個性的な楽曲。
資料の中には、譜面、振り付け表、過去のステージ映像、使用時の注意点などが細かくまとめられていた。
まずは、それぞれが候補曲を選んでくる。
そう決まった。
*
その日は、朝から雨が降っていた。
寮の窓を叩く雨粒の音で、蒼は目を覚ました。
薄暗い部屋の中で、しばらく天井を見上げる。
カーテンの向こう側は、まだ朝とは思えないほど灰色に沈んでいた。
ランニングは、毎朝の日課になっている。
最初は蒼が一人で続けていたものだった。
それがいつの間にか、愛希と美苑乃も加わり、加奈子がタオルや飲み物を持って見守るようになった。
今では、それが当たり前のようになっていた。
けれど、今日の天気ではさすがに誰も来ないだろう。
そう思いながらも、蒼はレッスン着に着替えた。
雨の日でも走ることはある。
屋根のある通路を中心に回れば、完全に濡れるわけではない。身体を冷やしすぎないよう気をつければ、問題はない。
蒼は寮の外へ出た。
冷たい雨の匂いがする。
軒下に立ち、靴ひもを結び直す。雨粒が地面を叩く音が、規則正しく耳に届く。
その音を聞きながら、蒼は楽曲のことを考えていた。
候補曲は、もう選んである。
神仙凛子のデビュー曲だった。
神仙凛子。
千才学園の芸能科アイドルコースにおいて、その名前を知らない者はいない。
圧倒的な歌唱力。
人目を奪うビジュアル。
ステージを支配する存在感。
中等部の頃の蒼にとって、凛子は遠い存在だった。
近づけるとは思っていなかった。
声をかけられるとも思っていなかった。
ただ、学内の映像やステージ記録の中で、密かに憧れていた。
その凛子が、まだ何者でもなかった頃に歌った曲。
現在の凛子のパブリックイメージとは、少し違う曲だった。
強く、苛烈で、すべてを塗り替えるような神仙凛子の曲ではない。
夢に向かう人々へ向けた、明るい応援歌。
日々を生きる人の背中を、少しだけ押すようなポップな曲。
おそらく、神仙凛子の楽曲の中で、最もアイドルらしい曲だ。
蒼の歌唱力を最大限に活かせる曲ではない。
もっと高難度の曲はある。
もっと声量を見せられる曲もある。
もっと繊細な表現を要求される曲もある。
けれど、蒼はその曲を選んだ。
愛希に合うと思った。
美苑乃にも合うと思った。
三人でステージに立つのなら、自分一人が一番よく見える曲ではなく、三人が一緒に立った時に一番自然に届く曲の方がいい。
遠慮しているつもりはなかった。
ただ、せっかく三人で歌うのだから。
その方が、いいに決まっている。
「蒼ちゃん、おはよー」
不意に声がした。
蒼は顔を上げる。
雨の中、レインコートに身を包んだ加奈子が立っていた。フードの下から、いつもの明るい笑顔が覗いている。
「……笹枝先輩」
「雨でも、蒼ちゃんはランニングすると思ってたよ~」
加奈子は得意げに言うと、手に持っていた帽子を蒼へ差し出した。
「はい。その恰好じゃ風邪引いちゃうから!」
「え」
蒼が反応するより早く、加奈子は慣れた手つきでレインコートを広げた。
「腕、通して。はい、こっちも」
「いや、私は……」
「だめ。雨の日にその薄手の恰好は、だめです。ほら帽子もかぶって!」
柔らかい声なのに、妙に有無を言わせない迫力があった。
蒼は大人しくレインコートに袖を通す。
加奈子は最後に帽子の位置を整え、満足げに頷いた。
「よし。これで少しは安心」
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」
加奈子がにこりと笑った、その時だった。
「おはようございます!」
雨の向こうから、元気な声が聞こえた。
愛希だった。
その少し後ろから、美苑乃もゆっくり歩いてくる。
「おはよ~。少し寒いねぇ」
蒼は二人を見た。
来ると思っていなかった。
そう思っていたのに、二人は当然のようにそこにいた。
「さて!」
加奈子が両手を叩いた。
「雨予報を見た私が夜なべして作った、屋根がある場所中心の雨の日コース!」
胸を張る。
「ついてらっしゃーい!」
そう言って、加奈子は先頭に立って走り出した。
「はい!」
愛希がすぐに続く。
美苑乃も少し遅れて、ゆるやかに走り始める。
愛希が振り返った。
「蒼さん! 行きましょう!」
「うん」
蒼は頷き、足を踏み出した。
雨の音がする。
屋根を叩く音。
地面を濡らす音。
遠くで葉が揺れる音。
その中に、三人分の足音と、加奈子の声が混ざっていく。
蒼はふと、胸の奥が温かくなるのを感じた。
以前なら、一人で走っていた。
誰も来ないと思っていたし、それが当然だと思っていた。
けれど今は違う。
雨の日でも、自分が走ると思って来てくれる人がいる。
自分のために帽子とレインコートを用意してくれる人がいる。
隣で走ってくれる友達がいる。
蒼は、口には出さなかった。
けれど、思わずにはいられなかった。
自分は、仲間と友人に巡り合えたのだと。
*
その日の午後。
芸能科A棟の一室に、修人、加奈子、愛希、美苑乃、蒼の五人が集まっていた。
長机の上には、使用可能な楽曲のリスト、振り付け表、過去のステージ写真、そしてCDが複数枚並んでいる。
部屋の外では、まだ雨が続いていた。
窓の向こうの景色は白く霞み、校舎の壁を伝う水滴が細い線を作っている。空気は少し冷えていて、机の上に置かれた紙類まで湿気を含んでいるように見えた。
「はい、パックのだけど、よかったら飲んでね!」
加奈子が部屋の端の机から戻ってきて、愛希たち三人へ紅茶を配っていく。
「ありがとうございます、加奈子先輩!」
愛希は両手で紙コップを受け取った。
温かさが手のひらに広がる。
「今日は朝から雨で寒かったし、温かい紅茶最高です~」
美苑乃はほっとしたように笑った。
「どうも……」
蒼も短く礼を言い、コップを受け取る。
「修人先輩は、コーヒーでよかったですか?」
「ああ、ありがとう」
修人はコーヒーを受け取り、軽く息を吹きかけた。
全員が温かい飲み物で一息ついたところで、修人が口を開く。
「さて。今日集まってもらったのは、課題曲の選定のためだ」
その言葉に、愛希は背筋を伸ばした。
「みんな、それぞれやりたい曲は選べたかな」
「はーい。この前もらったリストから、一応~」
美苑乃がのんびり手を上げる。
「どの曲も憧れの先輩たちのものなので、迷いましたけど、私もっ」
愛希も頷いた。
修人は二人の反応を確認してから、視線を蒼へ向ける。
蒼も静かに頷いた。
「選びました」
「わかった」
修人は机の資料を整える。
「それじゃ、黄世さんから聞いていこうかな」
「は~い」
加奈子は椅子を引いて立ち上がり、ホワイトボードを長机の近くへ寄せた。
ペンを手に取り、候補曲を書き込む準備をする。
最初に美苑乃が選んだ曲は、千才学園の卒業生が歌った癒し系のポップソングだった。
柔らかいメロディと、穏やかな歌詞。
聴く人の疲れをほどくような、温かい曲だった。
CDを再生すると、部屋の空気が少しだけ緩む。
美苑乃は目を細めて聴いていた。
自分がこの曲を選んだことに、少し照れているようにも見える。
「黄世さんにはぴったりの楽曲だね」
曲を聴き終えたあと、修人が言った。
「ただ、ユニットとしては少し力不足になりそうだ」
「たしかに~……」
美苑乃は振り付け表を覗き込む。
「振り付けも、一人用かつ、ちょっとコンパクトすぎるかな」
「三人で見せるには、構成を大きく変える必要がある。それに1st.festのステージで勝負するには、少し穏やかすぎるかもしれない」
「なるほど~」
美苑乃は残念そうではあったが、納得したように頷いた。
加奈子がホワイトボードに書き込む。
次は愛希の候補だった。
愛希が選んだのは、過去の1st.festでも何度か使われてきた王道のアイドルソングだった。千才学園の卒業生が残した曲で、明るく、キャッチーで、観客と一緒に盛り上がれるタイプの楽曲だ。
イントロが流れただけで、愛希の顔が明るくなる。
手拍子が自然に浮かぶようなリズム。
サビで一気に広がるメロディ。
笑顔で歌う姿が想像しやすい曲だった。
「ユニットで披露するという意味でも、1st.festという場所にもゆかりがある曲だけど……」
修人は資料を見ながら言った。
「他のユニットと被ることもあるし、何かしらのアレンジが必要かな」
「アレンジ……なるほど!」
愛希は真剣に頷く。
「王道だからこそ、他のユニットが選ぶ可能性も高い。同じ曲になった場合、比較される。そこで印象を残すには、三人ならではの見せ方が必要になるね」
「たしかに……」
愛希は少し考え込んだ。
加奈子がホワイトボードに書き足していく。
そして、修人の視線が蒼へ向いた。
「それで……却白さんの候補は?」
蒼は一瞬だけ、手元の紙コップを見下ろした。
紅茶から、まだ薄く湯気が上がっている。
「私が選んだのは……」
蒼はCDを一枚、机の上へ置いた。
加奈子がそのタイトルを見る前に、修人が再生機へセットする。
スピーカーから、イントロが流れた。
その瞬間、加奈子と修人がわずかに反応した。
「これって……」
加奈子の声が、小さく漏れる。
修人は何も言わなかった。
曲は明るかった。
雨の午後の部屋に、不思議なくらい真っ直ぐなメロディが広がっていく。
強く押し切る曲ではない。
高らかに勝利を宣言する曲でもない。
夢に向かって歩く人へ、そっと手を差し伸べるような歌だった。
日々を生きる誰かへ、もう一歩だけ進んでみようと笑いかけるようなリズムだった。
歌い出しが流れたところで、愛希と美苑乃も気づいた。
神仙凛子の曲だ。
けれど、愛希が知っている神仙凛子のイメージとは違った。
映像や記事の中で見た凛子は、圧倒的で、強く、眩しすぎるほどの存在だった。
たった一人でステージを支配するような、誰も近づけない輝き。
しかし、この曲の中にいる凛子は違う。
まだ何者でもない誰かの隣に立ち、同じ目線で夢を見ているようなアイドルだった。
曲が終わっても、少しの間、誰もすぐには口を開かなかった。
加奈子が、CDのパッケージを見つめる。
「やっぱ私、凛子先輩の曲、好きだな」
その表情は、不思議だった。
懐かしそうで、嬉しそうで、けれどどこか痛そうでもある。
愛希はその横顔を見て、何か言おうとした。
しかし言葉は出てこなかった。
蒼が、静かに修人へ尋ねる。
「先輩。神仙凛子の曲は……だめ?」
修人は少しだけ間を置いた。
「いや、だめじゃないよ」
声は落ち着いていた。
「ユニットとしても合ってるし、曲自体の力もある...」
蒼は黙って続きを待つ。
「ただ」
修人は資料へ視線を落とした。
「却白さんの持ち味であるボーカルを活かせるパートは少ない楽曲だと思う」
その指摘は、的確だった。
もともとはソロ曲だ。
そして曲の方向性は、力強い歌唱で圧倒するものではない。
パート分けやアレンジを加えたとしても、蒼の歌唱力を最大限に発揮できる箇所は限られるだろう。
愛希も美苑乃も、それはなんとなくわかった。
蒼なら、もっと難しい曲を歌える。
もっと高い技術を見せられる。
もっと観客を圧倒できる曲がある。
それなのに、蒼はこの曲を選んだ。
蒼は伏し目がちに呟いた。
「……せっかく、ユニットを組んだから」
長い睫毛が、少しだけ揺れる。
「自分一人より、二人に合った楽曲の方が良いと思っただけ」
それは、小さな声だった。
けれど、部屋の中にはっきりと届いた。
「蒼さん……!」
愛希の目がきらきらと輝く。
「蒼ちゃ~ん」
美苑乃も胸の前で両手を合わせる。
二人からまっすぐに見つめられ、蒼は明らかに居心地が悪そうにした。
愛希が身を乗り出す。
「私たちのこと、考えてくれたんですよね!」
「そうだねぇ。蒼ちゃん、優しいねぇ~」
「違う、から」
蒼は顔を背ける。
その耳が、ほんの少し赤くなっていた。
加奈子はその様子を見て、柔らかく笑った。
「決まりみたいですね、修人先輩」
修人はコーヒーを一口飲み、頷いた。
「……だな」
愛希と美苑乃の表情がぱっと明るくなる。
蒼はまだ少し落ち着かない様子だったが、拒否はしなかった。
修人はCDをもう一度手に取った。
「じゃあ、早速アレンジとパート分けを考えよう。振り付けも三人用に手を加えないといけない」
「そうですね」
加奈子がホワイトボードに大きく丸をつける。
三人用アレンジ必須。
振り付け再構成。
そこまで書いてから、加奈子はぴたりと手を止めた。
「……あの人たちに会いに行かないとですね」
修人も同じように、少し遠い目をした。
「ああ……」
その反応に、愛希は首を傾げる。
「あの人たち?」
美苑乃も不思議そうに瞬きをする。
「誰ですか~?」
蒼も、黙って修人と加奈子を見る。
修人は少し考えたあと、言葉を選ぶように言った。
「この千才学園でも、天才的な楽曲制作集団……とも言えるし」
加奈子が続ける。
「狂気の変態集団とも言えますね……」
二人はそろって、遠い目をした。
雨の音だけが、窓の外で静かに続いている。
愛希は、何かとんでもない場所へ連れていかれる気がして、思わず紅茶の紙コップを両手で握りしめた。
なにはともあれ、uni-Burs(t)の楽曲は、決まった。




