白蜘蛛庵
「ごめんなさいよお、陸生さんはおいでかね」
絵師の宝楽の声だ。陸生は顔を上げる。
そういえば数日前に、新しい団扇の図案を頼んでいた。その件だろうか。
水無月を超えれば、あっという間に夏になる。本格的に暑くなる前に、涼し気な絵柄のものが欲しいと宝楽に依頼していたのだ。。
戸を開け、背の曲がった小柄な老爺を中に招き入れる。宝楽はいそいそと入ってくると、畳に腰を下ろした。
「やあ、宝楽さん。おはようございます」
「おはようございます、陸生さん。おや、どうなすったんですか。目が赤いじゃないですか」
「あ、ああこれは……」
陸生は軽く目をこする。
「昨日の夜、ちょっと外山温泉まで足を伸ばしたせいで、寝るのが遅くなりましてね。それだけですよ」
「外山温泉ですか。そりゃあ、随分遠いところまで行きましたねえ。陸生さん、温泉お好きでしたっけ?」
「いや、そこまでは……ただ、お客さんにちょっと勧められたので、入ってみようかと思いましてね。向こうに所用もありましたし」
「所用……あっ、もしや、さやかさんを探しに?」
「いや、ええ、違いますよ。団扇の仕入れの関係で……」
曖昧に笑って、誤魔化す。この人の好い老爺に気を使わせてしまう気がして、正直にその通りだと言うのは憚られた。
「それより宝楽さん。絵、できましたか」
強引に話題を変える。宝楽はほんの少し疑うような目を向けてきたが、気を取り直したように絵を差し出してきた。
「ええ、ええ。陸生さんのとこには、お父さんの時から贔屓にさせてもらってますからねえ。急いで仕上げましたよ。まぁ、こんなのでどうです?」
「ありがとうございます。なんだか急がせてしまったみたいで、すみませんね」
見下ろした紙の中では、金魚と亀が泳ぎながら戯れていた。亀の丸い甲羅が団子のようで、何とも可愛い。
「いいですねえ、これ。涼し気ですし、素朴な感じがまた味がありますね。この亀も可愛いし、娘さん達が喜びそうだ」
陸生がそう言うと、宝楽も人好きのする丸顔に笑みを浮かべた。先ほどのやり取りを忘れたかのように、一気に喋り始める。
「そうでしょう、そうでしょう。やっぱり、赤津と言ったら亀ですからねえ。ええと、あーそうそう、金魚の色はね、橙か紅か迷ったんですけど、ほら今ちょっと別のね、知ってますか陸生さん、永春亭の紅揃え! あれがあるでしょう。絵を全部紅で描いたっていうあれ、おや陸生さん、傘売りの声ですよ。晴れた日の傘売りってのはなんとも物悲しいものがありますよねえ。えーとなんでしたっけ、ああそうそう、あれが流行ってるからねえ、どこの絵師も真似してて。そうそう、紅といえば最近若い娘達の間で黄色の紅が流行っているらしくてうちの孫も……」
「はあ、ええ、はい」
微笑を苦笑に変え、陸生は次々と打ち出される宝楽の言葉に相槌を打った。
この初老の絵師は仕事が早いのだが、雀のようにお喋りだ。
正直相手をするのが少しばかり、苦手である。……嫌いだと言ってもいい。まるで井戸端会議の女衆のように、いっかな話題は尽きることなくいつまでも喋り続けるお喋り雀。本題が迷子になるし、こちらの反応もお構いなしだから、どこで相槌を打てばいいか分からなくなる。
――宝楽さんはお喋りですけど、人の悪口を言いませんから。聞いていて楽しいんですよ。陸生さんも食わず嫌いなんかしないで、一度付き合ってみればいいんです。
愚痴る陸生にそう言って笑い、さやかはいつも茶と菓子でもてなしながら宝楽のお喋りに付き合っていた。楽しそうに相槌を打つ声が、まだ耳の奥に残っている。
「――おや、陸生さん。最近猫かなんか、お飼いに?」
唐突な言葉に、陸生は我に返って瞬きをした。宝楽のつぶらな瞳が、陸生の肩辺りに向けられている。
「いいえ。昔、親に買ってもらった白鼠をうっかり死なせて、大層怒られましてね。そこからは、何も飼っていませんよ」
「そうですか? だって、毛がくっついていますよ」
そら、ここに。
と、緑の顔料の付いた指が伸びて、陸生の肩に触れる。つぅ、と何かをつまんで、指がすぐに離れた。
細長くて白い毛。人の髪とは全く違う。窓から入る陽光で、毛の両端がきらきらと光っている。獣の毛だ。
ひゅィッ、と陸生の喉が鳴った。
「ほら、これ。これ、猫の毛でしょう。うちでも飼ってますからねえ、分かるんですよ。うちの子はねえ、毬が好きで好きでたまらなくて。見るとすぐに追いかけて――」
宝楽のお喋りが遠い。
陸生は震え始めた手で、先ほど宝楽が触れた肩を押さえた。
恐る恐るさすってみるが、手のひらには着物の感触だけが伝わってくる。毛の感触は無い。一本だけか。もしかして、昨日家の前にいた白猫の毛だろうか。そういえば、あの子は随分と懐っこくて、何度も陸生の脛に身体をこすり付けてきた。きっと、その時だ。
自分の中で結論が出たことに安堵して、はぁ、と息を吐く。寝不足で重たい頭が、軽く揺れた。
ぱらぱらぱらぱらっ。
己の頭上から、同じ白い毛が何本も落ちた。膝の上に無数の白が散らばる。
「ひ――――っ!?」
高い笛のような悲鳴が喉から噴き出した。宝楽が、ぎょっと目を剥く。
「陸生さん!? いきなりどうなすったんですか!?」
「し、知らない、これ、こんっ!」
膝の上から毛を叩き落としながら、陸生は堰切ったように今までのことをぶちまけた。
さやかがいなくなってから毎日、同じ夢を見るようになったこと。そして家にいつのまにか、獣の毛が落ちていること。それは自分がふと目を離した瞬間に現れること。
「だから、夢を見てっ、毎日毛が落ちて!」
恐慌状態の中、筋道立てて話すことはできなかったが、宝楽はしっかりと陸生の話を理解したようだった。
「そ、そりゃあ……陸生さん」
顔を真っ青にして、身を縮める。小さな身体が、さらに小さくなった。
「怪異の仕業じゃあ、ありませんか。きっと、さやかさんがいなくなって気落ちしてる陸生さんを、いたぶって遊んでるんですよ!」
がたがたと震えながら、宝楽が叫ぶ。その言葉に、陸生の心臓が握られたかのように強く痛んだ。
今までのことなら、全部偶然という言葉で解決できた。
さやかが行方不明になったことが心労となり、『たまたま』同じ夢を見ている。家に侵入してきた猫や鼠なんかが、『たまたま』毛を落としていった。毛の量が多かったのも、『たまたま』。
――だけど。
今の今まで偶然だと思っていた――いや思い込んでいた陸生の虚勢が、宝楽の一言で粉々に砕ける。代わりに胸に巣食ったのは、怪異というはっきりとした形の恐怖。
宝楽が、青ざめつつも真剣な表情で立ち上がった。
「こうしちゃあいられませんよ、陸生さん。行きましょう!」
「行きましょうって、どこへですか」
焦れたように、宝楽は地団駄を踏む。
「異怪奉行所ですよっ! 怪異が出たと駆け込んで、同心を寄越してもらいましょう。もしかしたら、さやかさんだって怪異にかどわかされたのかもしれませんよっ」
異怪奉行所は、怪異事件専門の奉行所だ。
怪異事件の多い赤津国には民間の祓い屋も多くいるが、その実力はピンキリで、信用できる者を見つけるのが難しい。その反面、異怪奉行所の与力同心はお上の元で働く正式な役人であるから、一定以上の実力を有している。
「異怪奉行所……いや、でも……」
「でもじゃありませんよ。何かあってからじゃ遅いんです。これは異怪に直接行った方が良い話ですよ。半月も続いてるなんて、絶対に普通じゃありません。さ、行きましょう。あたしも一緒に行きますから!」
「そう、ですね……でも……何でもかんでも奉行所に頼るのも、あまりよろしくないような気がして。行った結果、この程度で同心を呼ぶなと、怒られてしまうのでは……」
陸生は、悄然と俯いた。
三日前の同心の横柄な態度が蘇る。
町奉行所と異怪奉行所は違うから、同じような対応をされるとは限らない。だが、あの出来事が棘になって胸に刺さり、中々「行こう」という一言が出てこない。
「分かりました。なら陸生さん、あたしが一つ良い所を教えましょう」
何度か押し問答をした後、宝楽がぽんと手を叩いた。
「良い所、ですか?」
「ええ。二町先の銅音町にね、白蜘蛛庵って小さな飲み屋があるんですよ」
「はあ……?」
陸生は、眉を寄せて首をかしげる。怪異の話をしていたのに、なぜ飲み屋の話になるのか。
宝楽は話を続ける。
「この辺で祓い屋をやってる連中がね、そこに集まってるんですよ。……実はね、あたしは一度、怨霊に憑りつかれたことがありましてね」
えっ、と陸生は目を瞠った。恨みや未練を残して死んだ後、人を害する存在になった魂を怨霊と呼ぶ。これらに憑かれると、身体や心がひどく消耗すると聞く。
「それは、身体は大丈夫だったんですか?」
「いやあ、そりゃあしんどいもんでしたよ。しかも酷い話でね、あたしに憑いた怨霊ってのが辻斬りで死んだ奴でして。毎日毎日、自分が死んだ時の夢を見せてくるんですわ。いや、これが痛いのなんのって」
陸生を元気づけるためにか、おどけた調子で肩をすくめる宝楽の皺の刻まれた顔が、一瞬硬く強張ったのを、陸生は見逃さなかった。
当たり前だ。毎日辻斬りに殺される夢を見せられるなど、たまったものではないだろう。今、陸生が見ている夢の方と、果たしてどちらがましやら。
しかし陸生が慰めの言葉を考えている間に、宝楽の話題は次に移っていた。
「それでね、あたしの様子を見かねた友人が、白蜘蛛庵に連れてってくれたんですよ。そうしたらねえ、陸生さん。そこの店主から祓い屋を紹介されましてね、あっという間に祓ってくれたんですよ」
「はあ。そんな店があったんですねえ」
そんな所があったとは、寡聞にして知らなかった。
「店主がね、まあまだ若そうなんですが大した男でねえ、うまーく祓い屋に話を通してくれるんですよ。そうそう、その店主は料理が上手なんですよ。何度かお邪魔してるんですけどね、あたしは一番日替わりの小鉢が好きでして。なまり節もいいんですが味噌と特に……あーそうそう、あたしの怨霊を祓ってくれた祓い屋がねえ……」
お喋り雀が顔を出し始めたので、陸生は宝楽の言葉に被せるように口を開いた。
「そうですね。店を開ける前にでも行って、相談してみます」
「ええ、ええ。そうした方が良いですよ。絶対ですよ、必ずですからね」
念押しし、宝楽が帰って行く。
何度も振り返りながら雑踏に紛れていく小柄な影を見送って、陸生は戸を閉める。閉めてから、思い出した。
「あっ、しまった……場所を聞くのを忘れてた」
まあ、変わった店名のようだし、誰かに聞けばすぐ分かるだろう。
〇 ● 〇
同日。昼時。銅音町。
温泉湯気の匂い漂う梅雨晴れの空の下。飯屋や屋台を求めてうろつく人々の中を、陸生は息を切らせて走っていた。
「しらっ、白蜘蛛……っ」
浴びせられる奇異の目を無視し、咳き込みながら忙しなく首を巡らせる。早く、早く見つけないと。ああ、こんな事になるなら宝楽に話を聞いてた後、すぐに来れば良かった。
心臓が痛い。早鐘を打ち続けて口から飛び出しそうだ。汗が目に入って痛み、勝手に閉じそうになる。
温泉宿。違う。小間物屋。違う。飯屋。違う。魚屋。違う。飲み屋。名が違う。飲み屋。ここも違う。飲み屋――軒下に下がる白い蜘蛛の看板。胴体部分に朱墨で書かれた『飲ミ処:白蜘蛛庵』の文字……ここだ。
「ごっ、ごめん下さい!」
陸生は戸を吹っ飛ばすような勢いで、中に転がり込んだ。
辺り憚らず、大声を上げる。
「すみませんっ、どうか祓い屋を……祓い屋を紹介してください!!」




