十 転落
日向は横に飛んで大地を転がり、沙織の突進をかわした。
沙織は勢い余って、日向の背後にあった木に激突する。その衝撃で、太い木の幹がメリメリと音をたてて折れた。
「なっ!?」
日向は驚愕に目を見開く。
通常宿主の体は、虺に憑依されたことによって多少は強化されるのだが、それは憑依されたことによって潜在能力を最大にまで引き出されることと、痛覚を認知できなくなっていることから強くなったと感じるだけのことであって、体は普通の人間のものと何ら変わりはない。
ただし鬼の体は、幼い頃から鍛錬によって鍛えられているため、普通の人間に比べれば強靭である。がしかし、だからといって、木の幹を折る程の威力に耐えられるというのは尋常でない。
人間の体が、そんな衝撃に耐えられるはずもなかった。
しかし、木に激突したはずの沙織が骨折している様子はない。のろのろとした動作で立ち上がり、再び日向の姿を捕えた。
日向は、殺意を秘めた不気味な沙織の視線に晒され息をのむ。
「イ゛…アァァ…ゴロォ…ズ…」
もはや言葉にならない怨嗟の念をぶつけながら、沙織は跳躍した。
日向はとっさに反応して、体を捻って沙織の蹴りをかわす。沙織の蹴りが地面にめり込んだ。
後ろに下がって沙織から距離を取ろうとするが、沙織はすぐに間合いを詰めてくる。
「っくっ!」
再び繰り出された蹴りを、日向は頭を低くしてかわし、すぐさま軸足を狙って攻撃を仕掛けた。
日向の低い蹴りが沙織の足にきまるが、びくともしない。日向は目を見開いた。
頭上からひじ打ちを落とされ、日向はすんでのところでかわす。
だが、体勢を崩したところに、再度沙織の蹴りが放たれた。とっさに両腕で体を庇ったが、日向の体は軽々と蹴り飛ばされる。
「ぐわっ!」
日向の体は大地を転がり、木の根元にぶつかって止まった。
沙織は、体を左右に揺らしながら、ぎこちない動きで日向に近寄る。
日向は、痛みに顔をゆがめながらも大地に両手を付き、体を起こした。
両腕で体を庇ったことと、機転を利かせて後ろに飛んだことが功を奏して、沙織の蹴りの威力を殺すことができ、それほどの怪我は負っていない。
しかし、体力は消耗していた。
日向は、ハアハアと荒い息を吐き出す。
人間離れした沙織の攻撃に、かろうじて反応するのが精いっぱいだった。
「イ゛…アァァ」
沙織の目はらんらんと輝き、とめどない殺意で満たされている。
「ゴルォォォ…ズゥゥッ!」
叫ぶなり飛び掛かってきた。
拳を握って振りかぶり、力任せに振り下ろしてくる。
身を引いてかわした日向のすぐ横に、沙織の拳がめり込んだ。沙織は素早い動きで拳を地面から引き抜き、再び日向めがけて突き出す。
日向は、顔を狙って繰り出されたパンチを、右に傾いでかろうじてかわした。がしかし、拳が頬をかすめて擦過傷ができ、ちりちりとした痛みを覚える。
沙織は間髪を入れず、続け様に反対の拳を突き出した。
「っくっ!」
日向はとっさに前に転がり、なんとか沙織の間合いから切り抜ける。
日向は、さながら猫のように、転がった勢いを利用して立ち上がると構えを取った。
「ギイ゛ィィ…アァァッ!!」
再び沙織が吠え猛る。
日向は、素早く印を結んだ。
「ノウマク サラバ タタギャテイ ビヤサルバ モッケイ ビヤサルバ タタラタ センダ マカロシャナ ケン ギャキ ギャキ サルバビキナン ウン タラタ カン マン」
沙織が蹴りかかってきたが、日向はその攻撃をかわし、続けて剣印を結ぶ。
「ノウマク サンマンダ バサラダン センダンマカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
日向は、止まない沙織の攻撃をのけぞって辛くもかわした。
後ろに飛んで距離を取ると、さらに索印を結んで真言を唱える。
「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」
真言を唱え終えると、日向の手から光り輝く縄が生まれた。その縄は沙織に伸びてぐるぐると巻き付き、動きを封じる。
(成功した! これで時間が稼げる)
日向は、すぐさまその場を逃げ出し、木の根を軽やかに飛び越えた。
しかし――――。
行く手を阻んでいた茂みをかき分けると、日向は表情をこわばらせて動きを止める。
茂みの先には、エリザの姿が在ったのだ。
「っ!」
日向が息をのむと、エリザは嫣然と笑いながら日向に近づく。
日向はじりじりと後じさった。
エリザは、楽しげに舌なめずりしながら、視線を沙織に移す。
「ふぅん、これがエッカルトの報告にあった『闇堕ち』したという鬼ね。随分と面白い事例ね。この中に宿っている虺は、いったいどんな虺なのかしら」
エリザはうっとりとした表情で沙織を見た。
「グ…ギギィィィ…」
沙織が威嚇するようにエリザを見る。
「とても興味深いわ」
エリザは、ベルトに腰に差していた古びた短剣――――アゾット剣を鞘から引き抜くと、沙織に歩み寄りはじめた。
日向は怪訝な表情でエリザを見る。
エリザは沙織の目の前に立つと、抜身の刃を高く振り上げ、沙織に向けて振り下ろそうとした。
「やめろっ!」
日向はとっさに印を結び、沙織の縛めを解き放つ。
刹那――――。
縛めを解かれた沙織が、敏捷な動きで体を反転させる。その視線は日向をとらえていた。
エリザは沙織の後ろを取る。沙織が身を翻す前に、アゾット剣を背中めがけて振り下ろした。
「やめろっ!」
日向が沙織を守るように蹴りを放つ。
エリザはその攻撃をかわして、不思議そうに日向を見た。
「お嬢さん、なぜこの娘を助けるのかしら? あなた、さっきまで襲われていたわよね」
「それとこれは別問題だ。沙織様は今虺に憑依されている状態だ。だから僕を攻撃しても仕方がな――――」
言いかけた日向に、沙織が拳を繰り出す。
「っ!」
日向は頭を低くしてその攻撃をかわした。
「ほらね。だから言ったでしょう」
エリザは嫣然と笑う。
「いい事を教えてあげる。私は今、赤い石を持っていないの。それなのにこの娘は、あなただけを狙って襲い掛かっているの。これが、どういう意味だかわかるかしら?」
沙織の攻撃をかわしながら、日向は怪訝な顔をした。
「ロート…シュタイン?」
「ふふ、虺に狙われなくするための赤い石の事よ。虺を閉じ込める賢者の石とは別に、私たちはそう呼んでいるの」
エリザは楽しげに笑う。
「もとはと言えば、賢者の石の製造過程でできた失敗作だったのだけど、その効果が認知されてからは重宝されているのよ。でも今はその石を持っていないのに、この娘はあなただけを狙ってる」
そこでエリザは一度言葉を切った。きらりと目を光らせて日向を見る。
「あなた相当疎まれているのね」
「っ!」
日向が息をのんだ。その心の揺らぎにつけ入るように、沙織が蹴りを放つ。
「ぐぁっ!」
蹴りが決まり、日向の体が吹き飛んだ。
あらあらといった様子でエリザが肩をすくめる。
「このままだとお嬢さんの分が悪いのではないかしら? どうせこのまま虺を憑依させておいても、そのうち命は尽きてしまうのだし…だから、殺してしまってもいいんじゃない?」
「だめだ…! そんなことはさせない!」
日向は痛みに表情を歪めながら立ち上がった。
そこに再度沙織の攻撃が入り、腕で防いだがかわし切れず、日向は蹴り飛ばされる。
「強情もほどほどにしておいた方がいいわよ。このままじゃ、私があなたを可愛がる出番がなくなってしまうじゃない」
エリザは沙織に歩み寄った。
「よ…せ…やめ…ろ」
フフフとエリザは笑う。
「大丈夫よ。私は失敗しないから。この娘は私の好みではないし、いつものように苦しまずに楽に逝かせてあげる」
「失敗…しない…? 楽に…いかせる?」
日向は痛みで朦朧として、すぐには意味が理解できず、訝しむような表情でエリザを見た。
エリザはにんまりと笑う。
「私たちはあなたたち鬼のように虺を『祓う』ことはできないの。だから憑依させて巨大化した虺は、宿主を殺して捕まえていたのよ。ま、簡単に殺すことのできない、面倒な相手の時には四方田を使って祓ったこともあるけど…。意気地なしの男たちは、自分たちの手を汚すことを恐れて、自然と命が尽きるまで放置していたわ。けど私は違う。ちゃんとこの手で逝かせてあげたの」
『優しいでしょう?』と呟き、エリザは残忍な笑みを浮かべてぺろりと切っ先を舐めた。
日向はようやく意味を理解し、驚愕に目を見開く。
沙織は、不気味な眼差しをエリザに向けた。
エリザは腰を低くして構えを取る。
日向は首を横に振った。
「だめだ…やめろ!」
痛みをこらえて立ち上がろうとする。
そんな日向の目の前で、沙織が大地を蹴ってエリザに飛び掛かった。
エリザはひらりと身をかわして沙織に足払いをかける。沙織は若干バランスを崩したが、すぐに体勢を立て直して再度攻撃を仕掛けた。
エリザは沙織の蹴りを腕で防ぐ。みしりと嫌な音をたてたが、エリザの微笑みは絶えない。
余裕の窺える表情を浮かべたまま切っ先を沙織に向け、躊躇なく突き出したが、沙織が大きく後ろに跳躍してかわした。
エリザは、音もなく間合いをつめて、沙織の胸部を狙って剣を突き出す。
沙織は上体をのけぞるようにして攻撃をかわした。
その時、日向が立ち上がって駆け出す。
攻防を続ける沙織とエリザへと走り寄り、日向はエリザの腰へとタックルした。
「うっ!」
二人は、もつれるようにして大地を転がる。
日向は、エリザから短剣を取り上げようとしてもがいた。
エリザも激しく抵抗する。
そして――――。
「ぅわっ!?」
突如、日向が驚きの声をあげた。
エリザも、驚愕に目を見開く。
「っくっ!」
もつれ合った二人の体が、奇妙に傾いだ。
その瞬間、エリザと日向の体が、突然地上から消え失せる。
二人は、山肌に隠れるようにしてぽっかりと空いていた縦穴の洞窟に、転がり落ちてしまったのだった。




