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塞の守り人  作者: 里桜
第五章
110/140

九 遭遇

 日向は、夕暮れ時の薄暗い山の斜面を駆け下りる。

 背後からはエリザたちの足音が迫っていた。

 日向は後ろを振り返ることなく、ただ前を見て必死に逃げる。身軽な日向は、悪路をものともせず、軽やかに森の中を駆け抜けた。

 打ち据える木立から頭を守り、地に張り巡らされた木の根を飛び越え、深い森を選んで突き進む。

 静寂に包まれていた森に、突然現れた闖入者たちに、鳥たちは驚きバサバサと羽音をたてて大空へと飛び立った。

 そんな光景に目もくれることなく、日向はただひた走る。

 幼い頃の日向は、ここと同じような野山を駆け回っていた。そのおかげだろうか、徐々にエリザたちとの距離は開いていく。

 日向の脳裏にも、かつて遊んだ深い森の記憶がよみがえっていた。

 風に揺れる木々のざわめきと、遠くに聞こえていた優しい水音、詫びしい破れ屋と、その縁側でいつも誰かと談笑していた大物忌の姿。

 薄暗い見知らぬ山の中を走っていても、恐怖は全く感じない。むしろ、懐かしい気配すら感じていた。

 しかし、幼い日の冴月の姿を思い出した時だけは、胸がざわめきたった。

(冴月様…お怪我をしていないだろうか?)

 冴月の事を思い浮かべると、それだけで胸の奥がちりちりと痛みだす。

 自分の身よりも、冴月の身を案じる気持ちの方が強かった。

(早く東京に戻らないと)

 きっとまた周囲に迷惑をかけているに違いない。

 そんな確信が頭をもたげ、日向は焦燥感に駆られた。

 荒い息を繰り返しながら、後ろを振り返ってみる。

 すると、いつの間にかエリザたちの姿が見えなくなっていた。

(? もしかして、撒けたのかな…?)

 奇妙な違和感を覚えつつも、安堵の息を吐き出す。

 周囲を見回して、追っ手の姿や気配がないことを確認すると、日向は足を緩めた。

 下っていると思っていた斜面は、知らぬ間に登りに変わっている。緩やかに起伏を描く山の斜面は、複雑に入り組み、方向感覚を失わせた。

 追っ手から逃れるため、身を隠せるような深い森を選んで、やみくもに走っていたこともあり、日向は完璧に方向を見失ってしまっていた。

 足を止めて、周囲をぐるりと見回してみる。

 自分自身の荒い息遣いだけが辺りに響いた。

(追っ手を撒けたのはいいけど…ここは何処だろう?)

 目覚めた部屋の窓から見えた景色から推測して、富士の裾野であることは間違いない。

(たぶん山梨県か静岡県なんだろうな…)

 日向は手の甲で額の汗をぬぐう。

(とにかく道を探そう。林道を見つけられれば何とかなるはずだ)

 日向は、再び小走りしはじめた。



『何で止めるのよ!』

 エリザは不満げにエッカルトを振り返る。

『こんな山で深追いするのは危険だ。一緒に遭難するのはバカバカしいだろう。犬に臭いを覚えさせて後を追ったほうが利口だ』

 すると、エリザが嘲るように鼻を鳴らした。

『臆病者の考えそうなことね』

『何だと?』

 鼻白んだエッカルトを、小ばかにするように笑うと、エリザは再び歩き出す。

『私は私のやり方であの子猫を追い詰めて見せるから、邪魔をしないでくれる?』

 言うなり走り出した。

『エリザ!』

『エッカルト放っておけ』

 ギーゼルベルトが、エッカルトの肩に手を置く。

『しかし…』

『例の病気が出たのだろう。もはやあの女の尻ぬぐいをしてやる必要もあるまい。あれはそろそろ用済みだ』

 ギーゼルベルトの言葉に、男たちが低く笑った。

『それはそうだが…しかし、人質はどうする?』

『考えがある。人質もろとも放っておけ』

『このまま放っておくつもりか? 草薙剣到着までに、エリザが人質を連れ戻せなかったらどうするつもりだ?』

 エッカルトの問いかけに答えたのはオイゲンだった。

『やりようはいくらでもある。子供一人を騙すくらい造作もないことだ』

 そう言ってオイゲンが不敵に笑う。

 ギーゼルベルトも頷いた。

『そういうことだ』

 ギーゼルベルトは、愉悦に満ちた表情でくっと喉を鳴らし、エリザの消えた方向を見やる。

『あの女には色々と手を焼かされた。多少は使える女ではあったが、我々の向う彼の地にあやつは必要ない』

 ヴォルフラムも同調した。

『俺はあの女が不愉快でならなかった。ようやく縁が切れると思うと爽快だな』

『彼の地には、裏切者のニップも必要ないだろう』

 オイゲンの言葉に、男たちは残忍な笑いを漏らす。

『そうだな、そろそろ新井が四方田を始末しているはずだ』

 ギーゼルベルトは頷き、エリザの消えた方向を見た。

『さよならだエリザ』

 ギーゼルベルトの言葉を合図に、男たちは踵を返す。

 エリザと日向をそのままに、屋敷へと戻りはじめた。



 暗くなり、視界の悪くなった森の中で、日向は不意に足を止めた。

「くっ!」

 突然呻き声をあげ、胸を押さえて蹲る。

 深い森の外では西の空が茜色に染まり、夕暮れを迎えていた。

 蹲った日向の体が変化し、少女の姿へと変わる。

 日向は、苦しげに肩で息を繰り返しながら立ち上がった。

「もう夕暮れか…」

 日向は空を見上げる。

 しかし、豊かに繁った木々に阻まれ、空は見えなかった。

 その時の事だ。背後の茂みががさりと音をたてた。

 日向はハッとして背後を振り返る。

 すると、揺れた茂みの奥から、見知った人影が現れた。

「っ!?」

 日向は、驚きに息をつめて後じさる。

 その人影は、ゆらりと体を揺らしながら日向へと歩み寄った。

「…グゥゥ…」

 食いしばった歯の奥から、野良犬のようなくぐもった唸り声を漏らす。

 口の端からは、涎が滴っていた。

「さお…り…様…」

 日向が名前を呼ぶと、沙織の表情が憤怒に変わる。

「…イ゛…ィィナ…ダァァァ!!!」

 腹の底から吠えるような声をあげると、沙織は大地を蹴って日向に突進した。


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