九 遭遇
日向は、夕暮れ時の薄暗い山の斜面を駆け下りる。
背後からはエリザたちの足音が迫っていた。
日向は後ろを振り返ることなく、ただ前を見て必死に逃げる。身軽な日向は、悪路をものともせず、軽やかに森の中を駆け抜けた。
打ち据える木立から頭を守り、地に張り巡らされた木の根を飛び越え、深い森を選んで突き進む。
静寂に包まれていた森に、突然現れた闖入者たちに、鳥たちは驚きバサバサと羽音をたてて大空へと飛び立った。
そんな光景に目もくれることなく、日向はただひた走る。
幼い頃の日向は、ここと同じような野山を駆け回っていた。そのおかげだろうか、徐々にエリザたちとの距離は開いていく。
日向の脳裏にも、かつて遊んだ深い森の記憶がよみがえっていた。
風に揺れる木々のざわめきと、遠くに聞こえていた優しい水音、詫びしい破れ屋と、その縁側でいつも誰かと談笑していた大物忌の姿。
薄暗い見知らぬ山の中を走っていても、恐怖は全く感じない。むしろ、懐かしい気配すら感じていた。
しかし、幼い日の冴月の姿を思い出した時だけは、胸がざわめきたった。
(冴月様…お怪我をしていないだろうか?)
冴月の事を思い浮かべると、それだけで胸の奥がちりちりと痛みだす。
自分の身よりも、冴月の身を案じる気持ちの方が強かった。
(早く東京に戻らないと)
きっとまた周囲に迷惑をかけているに違いない。
そんな確信が頭をもたげ、日向は焦燥感に駆られた。
荒い息を繰り返しながら、後ろを振り返ってみる。
すると、いつの間にかエリザたちの姿が見えなくなっていた。
(? もしかして、撒けたのかな…?)
奇妙な違和感を覚えつつも、安堵の息を吐き出す。
周囲を見回して、追っ手の姿や気配がないことを確認すると、日向は足を緩めた。
下っていると思っていた斜面は、知らぬ間に登りに変わっている。緩やかに起伏を描く山の斜面は、複雑に入り組み、方向感覚を失わせた。
追っ手から逃れるため、身を隠せるような深い森を選んで、やみくもに走っていたこともあり、日向は完璧に方向を見失ってしまっていた。
足を止めて、周囲をぐるりと見回してみる。
自分自身の荒い息遣いだけが辺りに響いた。
(追っ手を撒けたのはいいけど…ここは何処だろう?)
目覚めた部屋の窓から見えた景色から推測して、富士の裾野であることは間違いない。
(たぶん山梨県か静岡県なんだろうな…)
日向は手の甲で額の汗をぬぐう。
(とにかく道を探そう。林道を見つけられれば何とかなるはずだ)
日向は、再び小走りしはじめた。
『何で止めるのよ!』
エリザは不満げにエッカルトを振り返る。
『こんな山で深追いするのは危険だ。一緒に遭難するのはバカバカしいだろう。犬に臭いを覚えさせて後を追ったほうが利口だ』
すると、エリザが嘲るように鼻を鳴らした。
『臆病者の考えそうなことね』
『何だと?』
鼻白んだエッカルトを、小ばかにするように笑うと、エリザは再び歩き出す。
『私は私のやり方であの子猫を追い詰めて見せるから、邪魔をしないでくれる?』
言うなり走り出した。
『エリザ!』
『エッカルト放っておけ』
ギーゼルベルトが、エッカルトの肩に手を置く。
『しかし…』
『例の病気が出たのだろう。もはやあの女の尻ぬぐいをしてやる必要もあるまい。あれはそろそろ用済みだ』
ギーゼルベルトの言葉に、男たちが低く笑った。
『それはそうだが…しかし、人質はどうする?』
『考えがある。人質もろとも放っておけ』
『このまま放っておくつもりか? 草薙剣到着までに、エリザが人質を連れ戻せなかったらどうするつもりだ?』
エッカルトの問いかけに答えたのはオイゲンだった。
『やりようはいくらでもある。子供一人を騙すくらい造作もないことだ』
そう言ってオイゲンが不敵に笑う。
ギーゼルベルトも頷いた。
『そういうことだ』
ギーゼルベルトは、愉悦に満ちた表情でくっと喉を鳴らし、エリザの消えた方向を見やる。
『あの女には色々と手を焼かされた。多少は使える女ではあったが、我々の向う彼の地にあやつは必要ない』
ヴォルフラムも同調した。
『俺はあの女が不愉快でならなかった。ようやく縁が切れると思うと爽快だな』
『彼の地には、裏切者のニップも必要ないだろう』
オイゲンの言葉に、男たちは残忍な笑いを漏らす。
『そうだな、そろそろ新井が四方田を始末しているはずだ』
ギーゼルベルトは頷き、エリザの消えた方向を見た。
『さよならだエリザ』
ギーゼルベルトの言葉を合図に、男たちは踵を返す。
エリザと日向をそのままに、屋敷へと戻りはじめた。
暗くなり、視界の悪くなった森の中で、日向は不意に足を止めた。
「くっ!」
突然呻き声をあげ、胸を押さえて蹲る。
深い森の外では西の空が茜色に染まり、夕暮れを迎えていた。
蹲った日向の体が変化し、少女の姿へと変わる。
日向は、苦しげに肩で息を繰り返しながら立ち上がった。
「もう夕暮れか…」
日向は空を見上げる。
しかし、豊かに繁った木々に阻まれ、空は見えなかった。
その時の事だ。背後の茂みががさりと音をたてた。
日向はハッとして背後を振り返る。
すると、揺れた茂みの奥から、見知った人影が現れた。
「っ!?」
日向は、驚きに息をつめて後じさる。
その人影は、ゆらりと体を揺らしながら日向へと歩み寄った。
「…グゥゥ…」
食いしばった歯の奥から、野良犬のようなくぐもった唸り声を漏らす。
口の端からは、涎が滴っていた。
「さお…り…様…」
日向が名前を呼ぶと、沙織の表情が憤怒に変わる。
「…イ゛…ィィナ…ダァァァ!!!」
腹の底から吠えるような声をあげると、沙織は大地を蹴って日向に突進した。




