三十八 神田 その四
ブラウエ・ゾンネ神田ビルの、階段をのぼる冴月と怜治は無言だった。
冴月は確たる目的の場所があるようで、その足取りに迷いはない。怜治はその後に黙って従っていた。
割れた窓の外側では、ギラギラと光を放つ真夏の太陽が顔をのぞかせている。風はなく、屋内では湿った熱気が不快にまとわりついてきた。
冴月は途中の階で階段を下り、廊下を進む。
後ろをついて歩いていた怜治は、周囲を見回した。
二人の歩いている廊下は、進行方向の右側が窓になっているのだが、左手にあるのは壁だけで、突き当りを折れてもまだ左手は壁だけになっている。
その階は、巨大な部屋をぐるりと囲むようにして廊下が存在しているのだった。
やがて現れた巨大なスチール製のドアに、冴月は手をかける。
ドアは電気錠だったが、停電時には開錠するタイプのものだったようで、すんなりと開いた。
窓のない室内は暗い。
ドアを開け放ち、取り込んだ明かりで二人は室内を確認しはじめたが、ほとんど手探りのようなものだ。
やがて冴月が非常用の懐中電灯を見つけだし、ようやく本格的に室内の捜索ができるようになった。
どうやらこのフロアは研究室のようだった。
巨大な部屋は、目的ごとにパーテーションされており、機能的なレイアウトになっている。
部屋に人の気配はなく、様々な精密機器や実験機器が、雑然と取り残されていた。
室内は、地震の影響で棚の物が落下したり、破損していたりしていて、まるで泥棒が侵入した後のような惨状になっている。
そして、散らかったシステム机の上に、パソコンは一台も残されてはおらず、ケーブルだけが残されていた。
「試料やデータの類はみな持ち出されているようですね」
怜治がつぶやく。
スチール製のファイル棚はがらんとしていて、鍵つきのスチール棚の中もからっぽだった。何か研究の手掛かりになりそうなものは、全て持ち去られている。
「そのようだな」
冴月はそう答えながらも、床に落ちた棚の中身を拾って調べ続けていた。
「冴月さん、何を探しているのですか?」
怜治の問いかけに、冴月は振り返る。
一瞬だけ逡巡したが、しかし冴月は答えた。
「賢者の石だ。奴らが作り出していた赤い石を探している」
「賢者の石とは、虺が閉じ込められていたあの石の事ですか」
「ああ」
「その赤い石でしたら、私が一つ持っていますよ」
「なに?」
冴月が片眉を跳ねあげる。
怜治は、自分のポケットの中を物色しはじめた。
「ただ、賢者の石かどうかはわかりませんが…。虺が閉じ込められていた石よりも色が薄い気がするので…。あ! ありました」
怜治は、薄紅色の小さな石を取り出して冴月に差し出す。
冴月は石を受け取ると、まじまじと眺めた。
「どこでこれを?」
「新宿のブラウエ・ゾンネビルで見つけました」
「新宿のビルで?」
「ええ」
冴月は再び石へと視線を移す。しげしげと眺めるとつぶやく。
「なるほど…確かに色が薄いな。甕の話では、石には二種類あるらしい。虺に狙われないようにするための石と、虺を閉じ込める石があるようだ。連中は後者を賢者の石と呼んでいるらしいが…この石は、おそらく前者の方だな」
怜治は驚きに目を見開いた。
「虺に狙われないようにするための石? そんなものがあるのですか? しかし、なるほど…。それで納得できました。連中は、虺を完全に使役できているわけではないのですね」
冴月は頷く。
「虺は人が飼いならせるような代物ではない。この石は預かっておく」
「どうぞ」
冴月は再び室内を探しはじめた。
怜治もそれに倣って探索をはじめる。
二人は室内をくまなく物色するが、石は見つからなかった。
「見つからないようですね…。敵も石を残しておくほど愚かではないということですか」
「そうだな、せめて石の成分構成がわかるようなデータでも残っていたらいいのだが…」
冴月は落ちていたファイルを拾い、懐中電灯で照らしてページをめくる。
「冴月さん、この後はどうするつもりですか? 先ほどは、他にどこか行く場所があるようなことをおっしゃっていましたが…」
「この草薙剣を大物忌に届けるのが俺の役目だ」
冴月は、ファイルから視線を上げることなく答えた。
「そうですか、大物忌へ剣を届けるのですか、ではこの後は諏訪へ向かうということで――――」
怜治は、そこで不自然に言葉を止め、ある一点を睨みつける。
気付いた冴月は無言のまま顔をあげ、怜治の視線を辿った。
すると、そこにはオイゲンの姿が在った。
怜治は数歩踏み出し、オイゲンに対峙する。
「あなたも相当しつこいですね」
オイゲンは肩をすくめた。
「我々としては、どうしてもその剣が欲しいのでね。簡単に引くわけにはいかないのだよ」
「剣をお渡しするつもりはありません。お引き取り願いましょう」
言うが早いか、怜治はすぐさま距離をつめる。
頭部めがけて蹴りを放つが、オイゲンは攻撃をかわして大きく距離を取った。
「まあ待て、そう急くな、話は最後まで聞け。今回はある提案をしにきたのだ。今ここでお前たちとやり合うつもりはない」
冴月と怜治は、怪訝な表情をする。
動きを止めた二人に、オイゲンはにんまりと笑った。
「つい先程連絡があってな。我々の仲間が、半陰陽の身柄を押さえたそうだ」
その言葉に、冴月が弾かれたようにオイゲンを見る。
怜治も目を見開き、息をのんだ。
オイゲンの目がきらりと光る。
「ということで取引をしよう」
不敵に笑うオイゲンの態度に察しがついたのか、冴月も怜治も表情を硬くこわばらせた。
オイゲンは、想像通りの手ごたえを感じたようで、笑みを深める。
「どうやら状況を理解できたようだな。こちら側の条件はもうわかっているだろう。そう、草薙剣だ。半陰陽の命が惜しくば、草薙剣をこちらに渡せ」
冴月の表情が、険しさを増した。
怜治は、探るように目を細める。
「冴月さん、頭に血がのぼるのはわかりますが、少し冷静になりましょう。ここで今の話を鵜呑みにするのは、いささか早計というものです」
怜治はオイゲンを見据えた。
「日向が、あなた方の手におちたという証拠もなければ、剣を渡して本当に日向が解放されるという証もない。それらをいったいどう証明するつもりですか?」
オイゲンは、くつくつと喉を鳴らす。
「疑うのはもっともなことだ。交換は今すぐにと言うわけではない。確認するための猶予を与える。今から将門塚に戻って、お前たちの仲間にでも確かめて見るがいい。事実を認識した後に、我々との交換条件に付いてゆっくりと考えて見るといい」
冴月の動揺が見て取れるのか、オイゲンは楽しそうに笑った。
「我々は、半陰陽と草薙の剣について直接交換を予定している。期限は今日いっぱい。受け渡し場所は富士だ」
「富士?」
怜治が片眉を上げた。
オイゲンは、鷹揚にうなずく。
「詳しい場所は、お前たちもわかっているはずだ」
そこでようやく冴月が口を開いた。
「お前たちが、いかがわしいセミナーで募った人間を、合宿と称して連れ出し、非道な実験を行っていたあの施設だな?」
「非道とは心外だな。あれは有益な実験だった」
「御託はいい。お前とくだらん言葉遊びをするつもりはない。早く質問に答えろ」
冴月の鋭い問いかけに、オイゲンはわざとらしく肩をすくめてみせる。
「やれやれ血の気の多いことだ。お察しの通り、我々の実験施設が引き渡し場所だ。半陰陽も、今そこに移送している」
冴月は拳を強く握りしめた。
「これでもこちら側は最大限の譲歩をしているつもりだ。お前たちには選択権を与え、尚且つ考える時間をも与えているのだからな」
オイゲンは、薄ら笑いを浮かべる。
冴月はギリリと歯を噛みしめた。
オイゲンは、憤る冴月を横目に踵を返す。
「良く考えることだ。最良の選択を選ぶことを期待しているぞ」
そう言い残すと、オイゲンはその場を立ち去った。
怜治は頭が痛いとばかりに首を横に振る。
「あの態度からして、日向を連れ去ったというのはおそらく事実でしょう。もちろん日向のことは心配ですが、しかし、だからといって草薙剣をあいつらに渡すわけにはいきませんよ。あなたの今の気持ちは、聞くまでもなくわかりますが、どうか冷静になってください。この東京の惨状を思い出してください。たとえどんな理由があろうとも、草薙剣は絶対に渡すべきではありません」
怜治は真摯に訴えたが、冴月が怜治を振り返ることはなく、無言のまま憎悪のこもった眼差しを、すでに誰もいなくなったその場所へと向けていた。
「冴月さん、どうか短慮はやめてください。この件については諏訪に報告して、指示を仰ぐべきです。我々が、独断で軽はずみな判断を下すべきではありません」
怜治の言葉に、やがて冴月は肩の力を抜く。
「…わかっている…」
絞り出すようにして、小さく言葉を吐きだした冴月に、怜治は安堵した。
「わかっていただけてよかった。日向の救出については、何か別な手段を講じましょう。決して見捨てはしません。信じてください」
冴月は口を引き結び、ただ頷いて返す。
この時怜治には、冴月が心の奥底に抱いている考えに気付くことはできなかった。冴月の言葉を額面通りに受け取り、安心しきっていた。
二人は、冴月の提案で見落としがないかもう一度室内の探索をはじめることにする。探索途中の室内には、まだ何か残っているかもしれないという判断からだった。
怜治もそれには了承し、一通り室内を探した後に諏訪に向かい、途中連絡手段が確保できしだい本部と連絡を取るという手はずに決まったのだが…。
その数十分後――――。
「冴月さん?」
怜治は声をかけて室内を捜し歩く。
違う階の探索に向かっていた怜治は、冴月と合流しようと部屋に戻ったのだが、しかし、研究室にはすでに冴月の姿はなかった。
怜治はハッと息をのむ。
この時になって、怜治はようやく冴月の考えに気付いた。
冴月は、怜治に黙って草薙の剣とともに姿を消していたのだった。




