1918年~1941年
1万文字を超えてしまいました。
次回からいよいよ本編です。
1918年6月5日スイスジュネーブのレマンホテルで講話会議が開かれた。第一次世界大戦の講話会議とは違い、直ぐに講話会議が開かれた。しかし講話会議の真っ只中の翌6月6日午前10時28分大日本帝國帝都東京にて、マグニチュード9という直下型の超巨大地震が発生した。その被害は東京のみならず関東一帯を襲い甚大な被害を与えた。世に言う『関東大震災』の発生である。悪夢はそれだけに留まらずその2時間後には桜島と富士山が大噴火、その周囲の都市を壊滅させた。更にその1時間後には大雪山と蔵王山が大噴火、その30分後には東海・東南海・南海地震が連動して発生。そしてその2時間後に追い討ちをかけるかのように沖縄本島を震源とするマグニチュード9の『琉球大震災』が発生。超巨大地震は沖縄本島を壊滅させ、更には巨大津波を発生させた。その巨大津波は琉球列島を始め九州・四国・本州・台湾・朝鮮半島・南洋諸島の沿岸地域を壊滅させた。内務大臣麻倉麻里はこの一連の大震災を『帝國大震災』と命名。被害の全容解明に乗り出した。この大震災はジュネーブの西園寺総理に伝えられた。各国首脳は講話会議を延長するから帰国してはどうかと言った。しかし西園寺総理は「総理不在の時に国難が発生した時は副総理である内務大臣が対処する」と言い、講話会議を優先させる事を明言した。これを各国首脳は本気だと捉え、早期に講話条約の締結を決めた。そして6月20日に[両陣営]は『ジュネーブ条約』に調印。第二次世界大戦も連合国の勝利で幕を下ろした。
『ジュネーブ条約
1・両陣営は東京条約と神聖ロシア帝國承認証書を認め調印する。
2・オーストリアハンガリー帝國はハプスブルク帝國とハンガリー共和国に分割する。更にその領土も分割し、旧領土北部にチェコスロバキアを建国する。
3・モンテネグロはゼルビアへ併合する。
4・ソビエト連邦西部及びドイツ帝國東プロイセン地方を入れた東部地域に、ポーランドを建国する。
5・ギリシャはクレタ島を大日本帝國に譲る。キクラデス諸島、南スポラデス諸島、北スポラデス諸島をオスマン帝國に譲る。
6・ドイツ帝國は10億円を、フランス共和国は8億円を、ハプスブルク帝國は5億円を、ギリシャは3億円を、ルーマニアは3億円を、ハンガリー共和国は3億円を、アルバニアは1億円をそれぞれ連合国側へ支払う。ソビエト連邦は東京条約に則り連合国側へ賠償金を支払う。
7・ドイツ帝國は本条約調印後解体され、ドイツ連邦とする。
8・ドイツ連邦は連合国の策定したドイツ連邦憲法第9条に則り恒久平和を実現する為、陸海軍その他の戦力を保持しない。
9・ドイツ連邦は交戦権を保持しない。ドイツ連邦の交戦権は新設される国際連盟が保持する。
10・前項で記した通り国際的な協調と連携の為に国際連盟を創設する。
11・新設される国際連盟は安全保障を話し合う安全保障理事会、加盟国全ての利害を話し合う総会をそれぞれ設置する。更に国際連盟の下部組織として各種国際機関を設置する。
12・前項の安全保障理事会で中心的な役割を担う常任理事国として、大日本帝國、大英帝国、中華連邦、イタリア王国、オランダ王国、神聖ロシア帝國を任命する。非常任理事国として3年間の任期を付けて総会の選挙で任命する。
13・枢軸国側は総会で3分の2の賛成を、安全保障理事会で全会一致の賛成をうけなければ加盟出来ない。
14・枢軸国側の常任理事国及び非常任理事国任命は認められない。
15・連合国と枢軸国はそれぞれ二度に及ぶ大戦を反省し、再びの悪夢を繰り返さないようにする。
16・本条約を調印する事により両陣営は自国民の安全を保障し、国家を発展させる。』
以上がジュネーブ条約の内容となる。西園寺総理以下大日本帝國代表団は調印後直ぐに帰国した。シベリア鉄道~満州鉄道~国鉄朝鮮線~日本郵船日本海航路~国鉄東海道線を乗り継いで東京に戻ったのは7月5日であった。西園寺総理の目に飛び込んだのは、焼け野原となった帝都だった。国会議事堂も首相官邸・各省庁も全壊していた。皇居も半壊したが、智子女帝陛下は無事であった。西園寺総理は智子女帝陛下の無事を確認すると、国防総省に向かった。奇跡的に国防総省は無事であった為に、麻倉内務大臣はそこを災害対策本部としていた。国防総省へ入った西園寺総理は麻倉内務大臣と再会した。麻倉内務大臣は疲れた表情を隠すように笑みを見せると、緊張が途切れたように倒れてしまった。直ぐに病院へ搬送されたが麻倉内務大臣は帰らぬ人となった。帝國大震災発生直後から副総理として対策にあたっており、ほとんど寝る事が出来なかった。麻倉内務大臣は復興を成し遂げる事を宣言。帝國ホテル大会議室で臨時帝國議会が6月10日に召集された。一部報道が行った通り『帝國壊滅』と言う程に大日本帝國は大きな被害を受けた。麻倉副総理は会議の冒頭に演説を行った。その演説は全議員の心を掴んだ。これにより6月21日に『帝國復興院設置案』が可決され、即日施行された。史上最大の災厄を乗り越える為に帝國復興院に人・金・権限を全て与えある種の、独裁的な力を持たせて指揮系統を一本化させたのである。帝國復興院は総理府に設置されその行動は単独で決定され、後に女帝陛下の署名で事後承諾との形て全てが行われるとした。帝國復興院総裁には内務省事務次官が就任。その後帝國議会では復興の大綱が必要とし、『帝國復興五ヶ年計画案』が話し合われた。そして6月30日帝國復興五ヶ年計画案が可決。西園寺総理がジュネーブ条約で手に入れた賠償金全てと臨時復興予算3億円の総額36億円を元手に、帝國の復興と発展が行われる事となった。7月3日欧州の連合国各国からの支援物資を満載した輸送船団が、連合艦隊と護衛艦隊の護衛により大日本帝國に到着。それと同時に帝國復興院は今回の帝國大震災による死者行方不明者を発表。合計126万4280人というとんでもない被害であった。まさしく人類史上最悪の災害被害である。この被害を乗り越える為に大規模な復興計画が始動した。
根本的な計画として都市の近代化を行う事にした。帝國復興五ヶ年計画案の成立2日後に成立した『建築基準法』を元に建物への耐震基準を明確に設定し地震に耐えられるようにする。その上で近代的な摩天楼を各都市に作っていく。高層ビルはもとより、高速道路が[横倒し]になったのは予想外であった。その為建築基準法は根本的な耐震補強が求められた。そして復興計画での目玉は帝都の大阪への遷都であった。帝國復興五ヶ年計画は大日本帝國全土が対象となり、実質的な『第三次帝國発展財政五ヶ年計画』に代わり無かった。それにはジュネーブ条約で領土となったクレタ島も例外では無かった。帝都の大阪遷都は簡単な話しである。津波が押し寄せ更地となった大阪が東京より復興させ易い大都市であったからである。『大阪遷都案』は7月10日に可決。大日本帝國帝都は東京から大阪へ変更された。7月20日には智子女帝陛下以下帝國首脳が大阪へ到着。この大阪遷都を経て帝國全土で耐震基準を定めた高層ビルが次々と建築された。大規模都市区画整備事業として交通網の整備が進められた。都市部は4車線となりアスファルトで舗装され道路幅も全国で統一させることが決まった。更には高速道路の延長と[高速鉄道]の建設が決定。五ヶ年計画を通して帝國全土に総全長3000キロの高速道路と大阪~東京間の高速鉄道を建設する内容であった。これにより更に高度な流通網が整備される事となり、経済発展が予想された。しかし高速道路総全長3000キロが完成したのは1929年、高速鉄道に至っては1935年であった。高速道路は全長が長過ぎた為、高速鉄道は最先端技術の電車で計画された為に計画が長引いた。
復興が進み経済が震災前の8割に近付いた1920年。大日本帝國には[5つ]の巨大財閥が企業の独占を行っていた。三菱・三井・住友・安田そして鈴木商店が[五大財閥]と呼ばれ大きな力を握っていた。特に銀行の産業支配が強まり、金融資本が形成されるようになった。それら五大財閥は自身の傘下に大銀行を有しそれを中核とし、多くの産業部門を傘下にし多角的経営を行う総合商社を形成していった。三菱は鉄鋼、三井は鉱業、住友は金属・機械、安田は紡績、鈴木商店は商事・海運、各財閥は各々得意とする部門で国内のみならず世界規模で占有率を高め、続々と傘下企業を強化した。そんな中で各財閥は帝國政府から復興事業を進めていった。そして運命の1920年4月7日沖縄の近代化事業を請け負っていた鈴木建設(鈴木商店傘下企業)が[石油]を堀当てた。この知らせに帝國政府は歓喜に満ちた。次世代の戦略資源とされていた石油が自国領内から出たのである。帝國政府は直ぐ様[大英帝国]の国際石油資本に調査を依頼した。この要請を受け5月5日にメジャーの調査員が現地に到着。1週間に及ぶ調査により最近になって存在が分かりつつある中東の油田に匹敵するかそれを凌ぐ程の超巨大油田であると分かった。そして油田は岩盤の下にあり今回の大震災が無ければ採掘どころか、その存在を見つけるのも遅れただろうと調査員は断言した。今回の大震災によりその岩盤の一部が崩壊した為、石油が吹き出したと推測された。これにより帝國政府は油田の採掘を決定。メジャーの指導により1920年11月20日琉球油田の採掘が始まった。更には帝國本土と台湾・中華連邦への送油管の建設が始まった。朝鮮半島や満州帝國・タイ王国(1919年4月1日に国名変更)まで建設する案もあったが台湾までの建設が限界であった。その為大型油槽船 での輸送路が確保される事となった。その輸送路護衛の為に海軍護衛艦隊は第4護衛隊群を新設、欧州方面への輸送路の第5護衛隊群も同時に新設された。突然の油田出現(まさに出現である。沖縄県議会はこれを機会に琉球王国再生が議論される程であった)に大日本帝國の歳入は大いに増大する事となった。1921年に通商産業省は『もはや震災後では無い』と記した[経済白書]を発表。世界が驚く程の復興・発展を大日本帝國は遂げ1923年に五ヶ年計画が成功した時には、大日本帝國の経済力は3倍に発展していた。これを世界は[東洋の奇跡]と呼び、国内では『高度経済成長』と呼んだ。国内でも大きな、そして数多くの変化があった。1919年には『衆議院議員選挙法』が改正され、所謂普通選挙法が成立した。これにより今までは8円以上の納税で25歳以上に限られていた選挙権が今回の普通選挙法により、納税に制限を付けず[18]歳以上全てに選挙権が与えられた。同年には治安維持法も成立。ソビエト連邦建国による共産・社会主義運動の活動に備えての制定である。これにより内務省警備局に特別高等警察が新設された。国民生活も変わり都市部では俸給生活者が大量に現れた。文化面でも発展はあり全国4ヶ所(東京・大阪・京都・福岡)しか無かった帝國大学を増やす事を決定。場所は札幌・仙台・名古屋・那覇・台北・京城・ティモフスク・イラクリオンに決まった。教育政策の要として『教育省』が新設された。新聞も第二次世界大戦や帝國大震災の大事件を経て更なる飛躍を遂げた。有力新聞は1日300万部以上に発行部数を伸ばした。新聞だけで無く大衆雑誌や文学全集・文庫本が出版され、広く知識の底上げに一役買う事となった。電気送声放送も同じ年に始まり、報道の速報に威力を発揮した。帝國政府は更に将来に於ける科学技術の重要性を鑑み『科学技術省』を新設。その傘下に理化学研究所・航空研究所・海洋研究所・地震研究所等々、各種研究機関を相次いで設立させた。
外交面に於いても大日本帝國は大いなる地位上昇を得た。第二次世界大戦後、国際政治の主導権を握ったのは大日本帝國と大英帝国であった。1920年にイタリア王国首都ローマで開催された連合国首脳会議でベルギーと神聖ロシア帝國が連合国に正式に加盟。G8はG11に拡大し、国際連盟に於いて最大派閥を形成するようになった。同年11月に行われた国際連盟総会で大日本帝國は『人種差別撤廃案』を提出。総会ではアメリカ合衆国が猛烈な反対工作を行ったが、各国の目線は冷ややかであった。戦争に参加せず自分勝手な振る舞いをするアメリカを世界は相手にしなかった。その為に大英帝国や連合国各国が賛成しアメリカの影響下にあると思われた南米各国も賛成した為、アメリカ合衆国ただ1ヶ国が反対と言う異常事態となった。枢軸国側は未だ加盟していなかった為、このような事態となったのである。総会で可決された人種差別撤廃案は安全保障理事会に上げられた。安保理こそ完全なる連合国の集まりである為、僅か5分で可決された。これにより各人種間での差別撤廃を国際連盟は世界各国に[呼び掛けた]のである。国際連盟での決定にはこの時期は強制力は無く、各国がその決議を受け個別に判断するしか無かった。その為アメリカ合衆国は人種差別撤廃案を完全に黙殺したが、国際連盟には[協調外交]を理由に残った。連合国とアメリカ合衆国は人種差別撤廃案可決により完全に関係が冷えきり、一種の氷河期を迎える事となった。アメリカ合衆国は連合国と対立を深め、枢軸国との関係を強めていった。お互いの関係が修復不可能となり、浜口由梨絵総理が『爾後亜米利加政府ヲ対手トセズ』との[浜口声明]を発表。連合国各国もそれに続いた。そして世界は1929年を運命の迎えた。
1929年10月24日大英帝国シティ証券取引所で発生した株価の大暴落は大英帝国から欧州諸国に飛び火し、大日本帝國と亜細亜各国に広がり世界中に広がった。世に言う世界恐慌である。大日本帝國はこの事態に中華連邦・満州帝國・タイ王国・神聖ロシア帝國等亜細亜・[南米諸国]を巻き込んで『円経済圏』を形成。大英帝国も大日本帝國と同じように欧州諸国と南米諸国を巻き込んで『ポンド経済圏』を形成。それぞれが経済圏を作りアメリカ合衆国は枢軸国側を巻き込んで『ドル経済圏』を形成した。円経済圏とポンド経済圏は連合国首脳会議を通して協同で経済の建て直しを行ったが、ドル経済圏は経済圏内で完全に鎖国を行ってしまった。大日本帝國以下連合国側はもはや枢軸国側に関心を示さず国内の安定を目指した。浜口総理は『強い大日本帝國を目指す』として『第四次帝國発展財政五ヶ年計画』を帝國議会に提出。経済力と軍事力を強くする事を宣言した。12月3日に第四次帝國発展財政五ヶ年計画は成立。経済が発展するように各種法案も同時に整備された。12月5日には労働基準法・労働関係調整法・労働組合法が相次いで制定。労働条件が大きく改善された。12月15日には『国民年金法』が可決され、石油資金の裏付けによる老後生活の保証が約束された。制定時の合い言葉は『100年安心年金制度』であった。普通の主婦は国民年金、短時間労働者も含めた俸給生活者は厚生年金、官吏は共済年金、軍人は特別年金にそれぞれ[強制的]に加入する事が決定された。更には[国民皆保険制度]も制定。これにより国民は各種医療機関で診察や手術を受けても支払う金額は5分だけとなった。1割以下に医療費が抑えられた事によりこれまで手術を諦めていた国民も手術を受けられるようになった。国鉄料金や学校授業料、高速道路料金も無料となった。都市部への人口流出により崩壊しかけていた農業を再生させる為に『農業基本法』も制定された。これにより農業はその構造を根本的に変える事になった。不況対策としてダム建設を基本とした公共事業が大々的に開始。更に浜口内閣は全国民1人あたり50円(1929年当時の一般所得は平均月1000円)の[定額給付金]を支給した。これにより冷え込んでいた個人消費も活発し、井上絵里大蔵大臣の提唱した通り相乗効果が現れた。これにより大日本帝國は年1931には恐慌前の水準に経済は回復し1934年の第四次帝國発展財政五ヶ年計画完了時には経済規模は倍増していた。結局経済発展に力を入れた事により軍拡は大規模に行えなかった。そんな中で1934年3月3日に発生した『イガルカ事件』により軍拡は急がれた。イガルカ事件の発端は小さな出来事であった。ソビエト連邦が国境警備の陸軍を増強した事に対抗して、神聖ロシア帝國も陸軍を増強した事が原因となった。両国は国境地帯で緊張状態に陥ったのである。そこで偶発的な発砲事件が発生。ただでさえ緊張状態の極みにあった所へ、発砲事件の発生である。両軍は即座に戦闘状態に突入。戦車部隊まで投入された戦闘は両軍共に1個師団を失い、大日本帝國の介入により札幌に於いて休戦条約が結ばれた。これにより広田陽子総理は軍拡を主目的とした『第五次帝國発展財政五ヶ年計画案』を3月25日に帝國議会に提出。だがこれは最大野党革新倶楽部の猛烈な反対により審議は頓挫した。そんな政争で第五次帝國発展財政五ヶ年計画案の成立が難航する4月5日、神聖ロシア帝國を次なる災厄が襲った。最東端の都市ウエレンの工場が謎の武装集団に襲撃されたのである。工員は全員殺害され、流動式生産方式の設計図と機械が盗まれた。しかし現場に残された薬莢から、アメリカ合衆国陸軍の小銃と断定された。これを受け神聖ロシア帝國は安全保障理事会でアメリカ合衆国への制裁案を提出。これを安保理は全会一致で可決し総会でも全会一致で可決され、アメリカ合衆国に対して経済制裁が発動される事となった。これにより世界各国はあらゆる資源・物資の対米輸出禁止を開始し、それを犯さした国家も経済制裁を受ける事となる。この襲撃事件を受けて革新倶楽部は国民世論と報道機関の批判を受け、第五次帝國発展財政五ヶ年計画に賛成。4月1日に帝國議会で可決された。これにより海軍は『一五五艦隊計画』、陸軍は『機甲師団編成計画』を立案。更に第五次帝國発展財政五ヶ年計画では[空軍]と[騎兵隊]の創設も決定された。空軍は先の大戦でドイツ帝國と大英帝国による航空戦(ドイツ帝國海軍航空艦隊による飛行船空爆に大英帝国陸軍航空部隊が戦った。別名をバトルオブブリテン)や航空機の著しい発展を受け創設が決定され、騎兵隊は陸軍の海外遠征師団を発展させ戦争が勃発した時の[殴り込み部隊]として創設される事となった。国防総省にも新しく空軍庁と騎兵隊庁が設置され空軍は『航空集団近代化計画』、騎兵隊は『[強襲揚陸艦]建造計画』を立案。4軍揃って近代化に邁進する事となった。海軍の一五五艦隊計画は超弩級戦艦15隻と大型空母5隻が主力として建造される事となり、その為一五五艦隊計画と呼ばれるようになった。沖縄から石油が出なければ実現しなかった大量建造計画である。空母も建造する事となった為、艦載機の開発も進められた。陸軍の機甲師団編成計画は師団全てを完全に機械化する事を目的に計画された。戦車を筆頭に砲兵部隊も牽引砲から自走砲へ完全移行させ、歩兵部隊も装甲車や貨物自動車に搭載させる事となった。帝國自動車を始め五大財閥の自動車会社が計画の大きな原動力となった。帝國自動車は大英帝国のロールスロイスと第二神聖ローマ帝國(1933年に国名をイタリア王国から変更)のフェラーリを入れて世界三大自動車会社(欧州各国はBIG3と呼称)に数えられる程であった。この自動車産業の存在は空軍の発展にも大いに役立った。航空集団近代化計画は全金属製の戦闘機・爆撃機・攻撃機が開発される事となった。騎兵隊の強襲揚陸艦建造計画は上陸作戦専用として15隻建造する事を決定された。これら一連の4軍近代化計画は1939年に完成し、大日本帝國の軍事力は侮れないものとなった。
更に海軍は欲張り1938年に4隻の超々弩級戦艦の追加建造を求め承認された。これにより1940年10月に4隻は竣工し連合艦隊に配備され、1番艦は連合艦隊旗艦となった。護衛艦隊も新型護衛艦の大量建造を承認され実行された。五ヶ年の軍拡を行っている間も大日本帝國と連合国側は枢軸国側と壮絶な外交戦争を行った。1934年に発生した二大事件『イガルカ事件』と『ウエレン襲撃事件』により連合国側との間にはもはや修復不可能な溝が出来た。アメリカ合衆国は経済制裁を受けた事によりますます連合国憎しの国内世論となった。しかも枢軸国側は禁止されたにも関わらずアメリカ合衆国との貿易を続けた。これを受け1935年1月国際連盟安全保障理事会は枢軸国側全てへの経済制裁を可決。更にはアメリカ合衆国への武力制裁が可決。武力制裁はデトロイトになり、カナダから大日本帝國・大英帝国・カナダ・神聖ロシア帝國・中華連邦・神聖ローマ帝國の各陸軍が侵攻する事が決定された。この侵攻部隊は2つの事項を国際連盟から認められていた。1つ目はデトロイトに存在する全ての建造物の破壊を認める事、2つ目は命令に従わない人間は殺害を認める。国際連盟が承認したとは思えない程の内容であった。枢軸国側への経済制裁とデトロイトへの武力制裁は総会でも認められ経済制裁は1月28日から、デトロイトへの武力制裁は各国陸軍の集結した2月5日に開始された。侵攻した連合軍は大規模な砲撃をデトロイトへ行い建造物全てを瓦礫の山へと変えた。デトロイトからの退避命令に従わない市民も国際連盟の許可と言う大義名分により大量に殺害された。1日通して行われたデトロイトへの攻撃はその地に存在した全ての建造物を消滅させ、殺害された市民は1万人を超えた。これにより枢軸国側は連合国側憎しの世論が高まり結束が固まり、連合国側も団結が強まった。国際連盟は連合軍で武力制裁を認める前列を作った。しかしこの連合国側の行為が、ある敗戦国に大きな変化をもたらした。ドイツ連邦である。あまり厳しいドイツのみの締め付けはドイツ国民を大きく保守へと変えた。特にドイツから軍を解体させた事はドイツ連邦国民の自尊心を大きく傷付けた。国連安保理は流石にそれは国家としての尊厳を損なう事として、[自衛隊]の創設を1922年に認めた。しかし自衛隊は専守防衛との体制を求められ、先制攻撃は禁じられた。これにより敵の攻撃を受けてから攻撃が出来る、[無意味な武装集団]となった。陸海空と各自衛隊は創設されたが、それぞれ他国への攻撃兵器の保有は禁止された。海上自衛隊は戦艦・空母・潜水艦、航空自衛隊は爆撃機・攻撃機、陸上自衛隊は戦車の保有を禁止された。その自衛隊も中途半端な組織でしか無く、ドイツ国民の不満は増大する事となった。そんな状況下でマートラスヒトラー女史率いるナチスドイツが1935年の総選挙で連邦議会第1党となり、ヒトラー女史はドイツ連邦総理となった。ナチスドイツは『ジュネーブ条約の破棄』と『再軍備』を旗印に掲げており、国民の大多数が支持した。これによりドイツ連邦はジュネーブ条約の破棄と再軍備を宣言。国名もドイツ第三帝國にすると発表した。この国名を連合国側は承認しなかった。第二神聖ローマ帝國がローマ帝國の正統継承国家と宣言しており、そこへ神聖ローマ帝國とドイツ帝國からの第三帝國と宣言すると仲違いするのは当たり前である。連合国側はその事もあり全く相手にせずに静観する事にした。骨抜きにしたドイツが立ち直る事は無いと予想していた。しかし連合国側の予想は大きく外れる事となった。ドイツ第三帝國は枢軸国側各国との技術交流により続々と新しい兵器を開発した。1937年にはヒトラー総理は大統領職も兼任し総統に就任。1938年にヒトラー総統の母国ハプスブルク帝國を併合。チェコスロバキアの西部も自国領とした。この事態に連合国側は慌てて連合国首脳会議を行った。しかしそれよりもドイツ第三帝國が先手を打ち、「我が国や枢軸国側への発言は全て内政干渉と解釈し、宣戦布告と受け取る」と発表。この発表により連合国側の結論は出なくなった。本心は戦争はしたくなかった。これにより連合国側は枢軸国側の行動を静観する事を決定。連合国加盟国の何処かが攻撃を受けない限り介入はしないとした。これを受け枢軸国側は更なる侵攻を開始。1938年12月から1939年5月まで枢軸国側はやりたり放題であった。ドイツ第三帝國はチェコスロバキアに侵攻し全土を占領。デンマークも占領し、ポーランドもソビエト連邦と東西に分断占領した。ソビエト連邦はフィンランド全土を占領し、スウェーデンとノルウェーの北部を占領。フランス共和国もスペイン北部を占領。その影響により親枢軸国政権がスペインに成立。枢軸国側へ加盟した。アメリカ合衆国もキューバを始めカリブ海諸国を占領。たった半年で8ヶ国が地球上から消滅、3ヶ国が領土の半分を失った。これを受け流石に連合国側も手段を間違えた事に気付いた。そして1939年10月に行われた連合国首脳会議では枢軸国側への明確な宣戦布告について議論された。しかし5月から枢軸国側が一切の軍事行動を行っていない事から、もう枢軸国側は戦争を望んでいないとの楽観論も出た。それにより3週間に及ぶ議論の末、連合国首脳会議はこれ以上の軍事行動は無いと結論を下した。確かにそれから2年間枢軸国側は軍事行動を行わなかった。1940年に連合国側は連合国合同軍事演習を行ったが枢軸国側は無視した。そして同じ年に開かれた連合国首脳会議は静観を続ける事を決定。国際連盟総会・安全保障理事会でも経済制裁は続けられる方針となった。しかしその翌年に枢軸国側は一斉に連合国側へ宣戦布告無しに侵攻・攻撃を開始。枢軸国側は2年間を費やして兵器の増産を行い、満を持して開戦を決定したのである。時に1941年10月5日枢軸国側の一斉攻撃により、第三次世界大戦が勃発したのである。