【第33話】ルナとイシュタル
最初は、ただ声が聞こえるだけだった。
村の外れにある小さな家。
まだ幼かった私は、夜になるたびその声を聞いた。
優しくて、穏やかな声だった。
それを村のみんなに話したとき――みんなは、とても喜んだ。
「神様の声だ」
「この子は祝福されている」
そう言って、頭を撫でてくれた。
だけど。
いつからだっただろう。
その声が自分なのか、それとも私がルナなのか。
分からなくなっていったのは。
気づけば、村の人たちをどこか遠くに感じるようになっていた。
笑う顔も、怒る声も。
よく遊んだゼノという子のことさえも。
全部、薄いガラスの向こう側みたいに遠かった。
そして――
私は村を焼いた。
燃え上がる炎の向こうで、ゼノがこちらを見ていた。
「そんな顔しないで、ゼノ」
私は笑った。
「あなたは私のそばに置いてあげる」
「役に立つ人形として」
――そこで、記憶が途切れる。
レイは静かに目を覚ました。
しばらくのあいだ、ベッドの上で天井を見つめたまま動かない。
「……同情はする」
ぽつりと呟く。
「だが俺に、どこまでできるか」
石造りの広間の中央で、ジークが片膝をついていた。
顔色は悪い。頭も深く下げている。
「それで」
ルナが淡々と言う。
「負けて逃げ帰ってきたと」
「……申し訳ありません」
ジークの声は低く、かすれていた。
短い沈黙が落ちる。
だが、ルナは怒るでもなく、興味の薄そうな顔で肩をすくめた。
「まあいいでしょう」
視線を外し、そのまま言う。
「それより、レイ」
影の中から、一人の男が進み出る。
「は」
レイは静かに頭を下げた。
「セントヴェナ国境で、邪魔者を一つ潰します」
ルナは楽しげに笑った。
「ジークと二人で行ってもらいますからね」
「お任せを」
即答だった。
ルナは満足そうに頷き、さらに続ける。
「特に、あのリズという金髪娘」
静かな声だった。
それなのに、その一言はやけに重く広間に残った。
「必ず、あなたの手で殺しなさい」
「分かっていますね?」
レイは迷わず答える。
「小娘一人、造作もありません」
「ふふ。頼みましたよ、お兄様」
ルナは嬉しそうに微笑んだ。
その様子を見て、トラヴィスがくすりと笑う。
「本当かな?」
軽い調子だった。
「以前は仲が良かったじゃないか」
レイの目が、わずかに細くなる。
「私はルナ様の剣だ」
「どうだか」
トラヴィスは楽しげに肩をすくめた。
今度はルナが、トラヴィスへ視線を向ける。
「そちらはちゃんと進んでいるのよね」
トラヴィスは大げさなくらい丁寧に礼をした。
「そちらの役立たずどもと違って、抜かりなく進んでいますよ」
ちらりとジークを見て笑う。
「こちらの方は大した敵もいませんしね。レイ君がいてくれるおかげで」
「そうなの」
ルナは軽く頷く。
「まあ、油断しないでね」
「もちろん」
トラヴィスは愉快そうに続けた。
「全員、血祭りにあげますよ。特にカイルという少年はね」
わざとらしく、レイを見る。
「なあ、レイ」
レイはほんの少しだけ間を置いた。
「……好きにしてください」
地下深く。
白い石で造られた研究室には、棺のような装置が並んでいた。
空気は冷たく、肌にまとわりつくようだった。
その薄暗い部屋で、バルドルが書類をめくっている。
「ルナ様」
振り返る。
「レイの腕輪の件ですが」
「?」
ルナは首を傾げた。
「なんのこと?」
「ルナ様が付けるよう指示したと聞きました」
バルドルは淡々と言う。
「あれを付けるようになってから、時折レイの様子がおかしくなっておりまして……」
ルナは少しだけ考える素振りを見せた。
そんな指示を出した覚えはない。
だが――
「ああ」
軽く手を叩く。
「そうだったわ。ちょっとした実験で、付けるよう言っていたのよ」
「そのまま経過観察していてくださいね」
「かしこまりました」
バルドルは深く頭を下げ、部屋を出ていく。
その背が見えなくなってから――
ルナの唇が、わずかに歪んだ。
いや。
イシュタルは、薄く笑った。
そのほうが。
――おもしろそうだから。




