【第20話】新しいお兄様
人目に触れることのない神殿。
霧に閉ざされた断崖の内側に、その聖域は存在していた。
選ばれた精鋭だけが知る場所。光も届かず、風も淀む。
静寂そのものが、壁になっているようだった。
その中心で、白翼の青年が膝をついている。
「お兄様は失敗しすぎました」
少女の声が響く。
淡い白髪のショートカット。透き通るような肌。
その瞳が、ゆっくりと細められる。声には怒りも失望もない。
ただ、淡々と事実を並べるだけの声だった。それがかえって、重かった。
「……」
「確かに、洗礼を授けたとはいえ——ただの人間には荷が重い部分もあったかもしれません」
ルナは青年の周囲をゆっくりと歩く。
品定めするように、あるいは観察するように。
「しかし三度の失敗。いくつかの部隊の壊滅。これではペナルティは免れませんよ、お兄様?」
「ああ」
青年は短く答える。
「もう一人の万能勇者を殺すまで、帰ってきてはなりません」
ルナの瞳が、怪しく黄色に光った。
「羽は取らないでおいてあげます。必要でしょうから」
少し間を置いて、微笑む。
「優しいでしょう?」
その言葉と同時に、空気が震えた。
「――っ!」
触れていない。指一本触れていないのに、白翼の根元から神経に沿って灼熱が走る。
内側から焼かれるような、出口のない激痛だった。
床に落ちた羽根が、ぱらりと焦げた。
「ぐあ……っ!」
喉を裂くような声が漏れる。
だが次の瞬間、痛みは消えた。
跡形もなく。
青年の表情が、凪いだ湖のように戻る。
乱れた呼吸を一度だけ整えて、何もなかったかのように静かに立ち上がった。
「イシュタル様のために」
声に、感情はない。
「行きなさい」
「は」
青年は静かに退いた。足音すら残さず。
神殿に、再び静寂が戻る。
「さて……そろそろ新しいお兄様が目覚めるころだわ」
ルナはゆっくりと奥へ歩いていく。
重い扉の向こう、水晶の棺が並んでいた。
透明な内側で、一人の青年が横たわっている。
眠る顔は穏やかで、まだどこか人間らしさを残していた。
ルナの瞳が、静かに赤く灯る。
「頑張ってくださいね、レイお兄様?」
水晶の内側で、青年の指がわずかに動いた。
ゆっくりと、目が開く。
その瞳は——赤く、深く、光っていた。
感情のない光。熱のない炎。
「あなたは、何のために在る?」
一瞬の沈黙。
「万能勇者レイ」
答えに、迷いはない。
だが——
ほんの刹那、赤い光の奥で、誰かが名を呼ぶ気配が揺れた。
微かに、本当に微かに。それはすぐに、押し潰された。
「イシュタル様の剣です」
「すばらしいわ、お兄様」
その声は優しい。柔らかく、穏やかで。
ただ、どこか空虚だった。
「ご命令を」
低く、静かな声。
「何を滅ぼせばよろしいのですか」
ルナは微笑む。
「この命、イシュタル様とルナ様のために」
水晶が砕け、破片が床に散る。乾いた音が神殿に反響し、消えた。
レイはゆっくりと立ち上がった。滑らかで、無駄のない動作。
かつての彼を知っていたなら、その違和感に気づいただろう。
意思がない。ただ従う。それだけの体。
神殿の奥で、冷たい風が鳴る。
新しい"お兄様"が、目を覚ました。




