【第18話】欠けた一片
柔らかな陽光の下、エミルは芝生の上で大の字になって眠っている。
風は心地よく、空は青く、争いの気配などどこにもない。
あまりにも穏やかな光景だった。
「……よく寝るな」
遠くで誰かが呟いた。
視界が切り替わる。
テーブルいっぱいに並んだ料理。
山のように積まれたパンケーキ。
湯気の立つお好み焼き。
どこまでも続く、幸福の食卓。
「幸せ……」
リリィが頬を緩め、ひたすら食べ続けている。
止める者はいない。止める必要もない。こ
こはそういう世界だった。
映像はゆっくりと溶け、広間へと移った。
高い天井。磨き上げられた床。
その中央に、両手を広げて立つ男。
「ようこそ、我が城へ」
大仰な仕草でセレナを迎えるトラヴィス。
芝居がかっているが、本人は至って本気だった。
「相変わらずですね」
セレナは静かに答える。
「人間はね、苦痛より快感のほうが抗いにくい。絶望より理想のほうが、抜け出せない」
トラヴィスは楽しげに笑った。
「閉じ込めてしまえばいいのさ。君もよく使った手だろう?」
「否定はしませんが……」
壁に浮かぶ映像は、幸せに浸る者たちの姿を映し続けている。
クレイン。リズ。エミル。リリィ。
それぞれの理想の中で、それぞれが笑っていた。
エミルは寝ていたが。
「私をここに呼んだのはなぜです? あなたの性格なら、厳重に閉じ込めそうなものですが」
「よくぞ聞いてくれた!」
トラヴィスは両手を大きく広げ、まるで舞台役者のように天井を仰いだ。
「完璧な世界というのも、案外暇でね」
歩み寄ってくる。
「第一夫人をやってみるつもりはないかい? 新世界のアダムとイブだ」
「それは光栄なお話です」
微笑みを返すセレナ。
「……なぜ私に?」
「言っただろう。暇なんだ。少しくらい思い通りにならない人間を飼ってみるのも悪くない」
一瞬だけ、セレナの眉がわずかに歪んだ。
だがトラヴィスは気づかない。
「本音は?」
「虚無神の召喚には人の魂が必要でね」
指先で空中に円を描く。
「だがどういうわけか、君の魂だけが足りなくなってしまった。ずっと探していたんだよ」
肩をすくめる。
「取って食おうというわけじゃない。小さな魂一つなくたって、世界は完成する。大した問題じゃない」
視線が細くなった。
「……だが、少しでも抜けがあると我慢できない性分でね。君も知っているだろう? 僕は凝り性なんだ」
その笑みは穏やかで、どこか子どもじみていた。
完璧な世界を手に入れた男の、無邪気な顔だった。
そのときだった。
トラヴィスの動きが、止まった。
「あれ……?」
腕が上がらない。
視線だけが、ゆっくりと背後へ落ちる。
「神になると、鈍くなるんですね」
セレナの声は静かだった。
倒れかけるトラヴィスの背に、一本のナイフが突き立っている。
神を気取るあまり、痛みなどとうに忘れていたのだ。
「……こんな、はずでは……」
床に膝をつく。
それでも、その目はどこか信じていなかった。
自分が負けるはずがない、という顔だった。最後まで。
「あっけない」
セレナは静かに息を吐いた。
「でも、悪党の最期なんて……こんなものかもしれませんね」
次の瞬間。
世界が、軋んだ。
硝子に亀裂が走るような音。
空が裂け、床が歪み、光がねじれる。
甘い匂いが消え、青空が砕け散る。
完璧だった世界が、内側から崩れていく。
黒い裂け目が、ゆっくりと広がっていく。
その奥から、冷たい光が滲み出た。
世界が、割れる。
そして――。
すべてが、崩れ落ちた。




