【第02話】万能勇者、呼ばれる
城外、王都北方の森。
夜露に濡れた草を踏みしめるたび、靴裏が鈍く沈む。
二つの影が、枝葉をかき分けながら必死に駆けていた。
先頭を走るのは、まだ幼さの残る少年だった。
白を基調とした軽装騎士服に、王族の紋章を隠すように外套を重ねている。
泥に汚れながらも、その背筋は真っ直ぐだ。
腰には細身の剣。逃亡の身でありながら、いつでも抜ける位置に手を添えていた。
そのすぐ後ろを、黒い影が並走する。フード付きの黒ローブ。
月明かりすら吸い込むような深い色。
ローブの奥、細縁の眼鏡が知的な瞳を静かに覆っている。
彼女は走りながらも、絶えず後方の気配を探り続けていた。
その視線の先。闇の中を揺れる、無数の灯り。
松明だ。
鎧の擦れる音と鉄靴の足音が重なる。追手。しかも少数ではない。
夜風を裂いて軍旗が翻り、炎に照らされたそれは鮮烈な赤。
中央には、セントヴェナ王国の紋章。
「エミル様、このままでは……」
呼吸を乱さぬまま、リリィが低く告げた。
「まずそうだな」
「包囲網が狭まっています。城門側には戻れません」
「だろうな」
枝を払い、二人は開けた空間へ滑り込んだ。
倒木が転がり、苔むした岩が露出した小さな空地。
辛うじて円を描けるだけの広さしかない。
背後の足音が、急速に距離を詰めていた。
エミルが振り向く。その顔に恐怖はなかった。
あるのは、状況を飲み込んだ者の覚悟だけだ。
「リリィ」
「はい」
「せっかくだ。アレを試してみたらどうだ?」
「……アレ、とは?」
「召喚魔法だ」
一瞬、空気が止まった。
「隣の大陸の万能勇者にでも来てもらおう」
リリィの目が見開かれる。
「な、何を言っているのですかエミル様。あれはまず成功しません。魔力の消費も大きい……失敗すれば、私たちはおしまいです」
「今も似たようなものだ」
言い返せなかった。松明の灯りが、すぐそこまで迫っている。
エミルは肩で息をしながら笑った。
追い詰められているのに、なぜかその顔は妙に楽しそうだった。
「どうせダメなら試せばいいだろう。ほら、早く」
矢が放たれた。リリィは咄嗟に障壁を展開し、火花が散る。
「……分かりました!」
半ばヤケクソだった。
瓦礫を払い、地面へ膝をつく。
震える指で円を描き、六芒を刻み、古代文字を重ねていく。
魔力は足りない。でも、やるしかない。
陣が淡く光る。視界が揺れる。魔力が底をついていく感覚があった。
削れていく。削れていく。
「……来い!」
最後の魔力を叩き込んだ。
陣が、弾けるように光った。
風が巻き上がる。光が収束し、その中心に人影が現れた。
長い黒髪。無造作に羽織った外套。そして、眠たげな目をした青年。
「……いったいどこだここは?」
状況を何も理解していない声だった。
瓦礫、血、剣、追手。膝をつく魔導士と、剣を構えた子供。
青年はそれだけを一瞬で見渡し、何かを測るような目をした。
エミルが一歩前へ出た。
「急で済まないが助けてくれないか?」
答えを待つ時間はなかった。
背後から兵が斬りかかる。槍の穂先が、青年の首を狙う。
青年──レイは、ため息をついた。
「……問答無用か」
半歩だけ体をずらす。槍が空を切った。
「仕方ないな」
次の瞬間、敵兵の体が宙を舞った。
蹴り一撃。鎧ごと吹き飛ぶ。
着地と同時に剣を奪い、逆手で一閃。二人、三人と倒れる。動きに一切の無駄がない。
呼吸さえ乱れていない。
「な……」
リリィが息を呑む。
レイは軽く首を鳴らした。
「とりあえず、全部倒せばいいんだな?」
敵兵が一斉に襲いかかる。エミルは思わず目をつぶった。
しかし次に目を開けたとき──立っていたのは、レイただ一人だった。
折り重なった兵士たちの向こうで、血の付いた剣を無造作に投げ捨て、彼は振り返る。
「で?」
眠たげな目のまま問う。
「説明してもらおうか」




