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星の降る町  作者: 笹霜
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1.序

宮原(みやはら)銀河(ぎんが)の朝は早い。


起きて、朝の掃除から始める。


銀河の住んでいる、馬鹿でかい屋敷には、ほとんど人が住んでいない。


敷地数万坪を誇る庭園に、何部屋あるのか分からない武家屋敷。


これを、銀河含め数人で手入れしている。


「…」


別にそれを苦と思ったコトはない。


この屋敷の主は、この屋敷の手入れをすることを条件に―――俺をここに住まわせてくれているのだ。


衣食住に学費の面倒まで。


俺の素性を深く聞かず。まるで何も問わずに。


ただ受け入れてくれた。



―――何でなんだろうと今でも思うのだが、それで一ヶ月、ここに暮らしてきて、馴染んできてしまったのも事実であった。



「おはようございます、お銀さん」


布団を畳んでいると、声をかけられた。


いつの間にか、襖を開けて、一人の男がそこに立っていた。


漆黒の作務衣をすらりと着こなした、馬鹿に長身の男である。210cmはあるんじゃないだろうか。大柄な割にひょろりとしていて猫背だから、威圧感はない。


銀縁眼鏡で、愛想の良いニコニコとした笑みを浮かべている。


銀河はこの男が好きであった。


「今日は良いお天気ですぞ、お銀さん」


「おはようございます。分かってますよ、帰ってきたら裏山の手入れでしょう?」


「そうですな。今日の買い出しはメイに任せて、道草は食わずに帰ってきて貰いたいところですぞ」


親指を立てながら、執事―――猿山(さやま)(さとる)はニコニコ笑う。


「いやはや、お銀さんはやはり呑み込みが早くて助かりますぞ。この氷川屋敷も、我々二人では少しばかり手に負いかねていたトコロでしてな」


来て貰えて良かった、と悟はニコニコ笑う。銀河も寝間着の作務衣姿のまま、肩をすくめて笑った。


「…俺で、役に立てているのであれば」


「いやはや、流石はお嬢様の見立てといったトコロですな。市井のそこらへんの若者ではこの屋敷の管理は勤まりませんぞ」


悟は笑う。


「それは、誇って良いところですぞ。たとえお銀さん当人が快く思っておらずとも、我々にとっては貴重な能力でありますぞ」


「ありがとうです」


「それでは、メイがそろそろ朝餉の準備を始める頃合でありましょう。その前に廊下のモップがけ程度は済ませておきますかな?」


「すぐ行きます」


悟はグッと指を立てて、足音も無く廊下に消えてしまう。


銀河は思う。


悟さんは妙な年齢不詳である。多分若いのだろうが、二十とも三十とも取れぬ外見。


その上に黒いスーツや作務衣を好んで、足音も立てず歩くものだから、どことなく忍者っぽい。


そして、軽妙で剽軽な語り口で、割とスケベだったりするのだから、親しみやすい。


銀河は布団を押入れに押し込むと、早速廊下の片隅、物置へ向かった。


この馬鹿でかい屋敷、廊下のモップ掛けだけでも実は割と大変である。


俺が来る前は、ここを管理しているのは二人だけ―――先程の悟さんと、あとはメイドのメイさんだけだったという。


しかしそれではいくら何でも億劫だから、人を探していたトコロで、ひょんな縁があったのが俺だった。


宿なし無賃の俺としてはありがたいのだが―――しかし、この屋敷のことを、まだろくに知らない。



この屋敷は、氷川屋敷(ひかわやしき)、と呼ばれている。



メイさんと悟さん、それに主の「お嬢様」―――咲月(さつき)さんはここをそう呼んでいる。


外でもそう呼ばれていて、目の前のバス停も『氷川屋敷前』だ。有名であるらしかった。


ただ、主の咲月さんは、早花咲月(はやばなさつき)という名前であって、何故主が氷川屋敷に住むようになったのか、俺は全く知らない。


その咲月さんに俺は縁あって拾われて住まわせて貰っている。


どういう御身分の方なのかは分からないが、とりあえず、俺をここに連れてきた咲月さんを見て、メイさんと悟さんは滅茶苦茶に驚いた顔をしたのは良く覚えている。


「大丈夫なのですか」と悟さんもメイさんもしきりと心配していたが、最近は「お嬢様の人の見る目はやはり確かでした」というばかりなのだから、―――咲月さんは俺に何かを見出したのだろう。


俺が家事や料理のスキルを持っている―――それ以外にも何かがあるような気はしている。


だがそれを聞ける雰囲気では、まだなかった。


そんな咲月さんは、普段は屋敷の奥の区画にいる。


区画どころか、あんまり自分の部屋から出て来ることはない。


屋敷の奥は掃除もしなくていいと言われている。


入れるのはメイさんだけだ。


それは悟さんも俺も理由は分かっている。単純に男に踏み込まれたくないからだろう。


「入ると手ヒドイ目に遭いますぞ、お嬢様はソコキツいですからな」というのは悟さんの言。


ちらりと聞いただけだが、奥にはアトリエなどがあるという。


画を描くのだとか。


その腕前の程は分からないが、俺の身分で見せてくださいと頼むようなものでもない。暗黙のうちにそう理解していた。


縁側の廊下にモップをかけていると、朝餉の匂いが漂って来た。


廊下を歩いてくる足音。果たして現れたのは、瀟洒なメイド服の女性であった。


「お銀さん、ご飯が出来ましたよ」


そう声をかけてくれたのは、メイさん。


メイという名前以外―――実は苗字も知らないのだが、ともかくメイさん。


このお屋敷のメイドさんである。


キッチリした、丈の長い紺のロングスカート。完全無欠のクラシカルメイドといった風情の女性である。


年齢はやはり二十歳過ぎ…二十歳前後といったところだろうか。とりあえず若いのは分かるが、俺よりかは年上だろう。


金色の交じった明るい茶髪。大きな瞳に明るい笑顔。性格は朗らかの一言で、全く嫌味がない。


俺も当然この人のことは好きである。


「ありがとうございます。今向かいます」


「今日はコーヒーを少し違うものにしてみたんですよ。気をつけてみてくださいね」


ニッコリ微笑まれる。


すぐさまモップを置いて、メイさんの後を追うように居間へ向かった。


思えば、この屋敷に来て一ヶ月だが―――驚くほどこの屋敷のことを俺は知らないのだなあと思う。


縁側の先では桜が散り終わり、既に青々とした葉桜だ。


庭の手入れなんかは悟さんに教わっているから、庭や裏山のことは大体分かるようになったが―――いざ屋敷の中とかは分からない。


特に男子禁制の奥の区画。


まあ知る必要もないのだろうが。


そして案外なことに、悟さんやメイさんのことも何一つ知らない。


どこからいつ来てここに勤めているのか、そんなことも知らないのである。


思えば、この屋敷の主の咲月さんが普段何で稼いでいるかも知らない。こんな屋敷に住んでいるのだから、お嬢様であることは知れるが、どこのお嬢様なのか、どういう素性なのか。


そんなことも全く知らない。


言えるのは、皆いい人ということだけ。



―――しかし、と銀河は思う。



俺も俺で似たようなものだし。


俺だって、自分の氏素性を何一つ語っていなかったりするのである。


―――人に尋ねる資格はないし、だからこそ、咲月さんは俺をここに容れてくれたのかも、なんてことを思う。


居間に顔を出すと、そこでは早速悟さんが先に唐揚げを頬張っていた。


「先に頂いておりますぞ」


「俺もいただきます」


「はい、どうぞ召し上がれです」


ニコニコ笑いながら、洗い物をしていたメイさんも座布団の上に腰を下ろす。


銀河は卓の上の見渡して、食事が三人分しか並んでいないことに気が付いた。


「あれ、咲月さんは?」


「昨夜遅くまで絵を描いていらっしゃいました」


メイさんがすぐさまそう言った。


「今日は起こさなくて良いと言付けを頂いております」


「では、朝餉はメイが持ってゆく算段かね?」


尋ねたのは悟。もしゃもしゃと元気に白米を咀嚼しながら、どこか呑気な口調であった。通常運転。


メイは頷いた。


「はい、頃合になりましたらお嬢様のお部屋にお持ち致します」


「任せましたぞ」


「任されちゃいます」


ニッコリと笑うメイ。悟がコーヒーカップに手を伸ばす。


ずぞぞ、とそれを啜った悟の顔が少し変わった。


「うむ、確かに豆が変わった模様ですな。いつもとまろやかさが違いますな」


良い豆を使いましたかな、と悟。銀河もコーヒーカップに手を伸ばした。


この氷川屋敷は、朝餉にコーヒーが出るのが常である。


銀河も毎朝それを飲んできた。


最初の朝から、良い豆で淹れたコーヒーだなと思っていたのだが―――今回のはまた一段違う。何がどうとか言われたら、それほどコーヒーを飲んだこともない銀河に形容は難しいのだが。


「本当だ」


「お嬢様の推薦の豆です」


「相変わらず良い豆を選びますなお嬢様」


流石は、と唸る悟。銀河は目を丸くした。


「咲月さん、利き豆なんかも出来るんですか?」


「それが、利き豆が出来る騒ぎじゃないんですよ」


メイが苦笑しながら、「話してませんでしたっけ」と語り始める。銀河にとっては初耳の内容であった。


「このお屋敷で、毎朝コーヒーを淹れるようにとお命じになったのもお嬢様ですし」


「コーヒー淹れでしたら私もメイも及ぶところではないですな」


「バリスタもビックリの腕前ですよお嬢様」


なかなか淹れてくださらないんですけどね、と苦笑するメイ。「お嬢様に淹れられては我々の立場もないのですがな」と、どこかシンミリした語調の悟であった。


メイは銀河に目を向けて、


「お銀さんは、コーヒーは淹れられますか?」


「あー…ムリです。紅茶なら経験あるんですが」



―――そう仕込まれたのだ。



否応なしに。


それは俺の生まれ―――そして周りの趣味で。


俺の趣味ではないのだが。


しかしそれを語ることは、余り望まれないだろう。それを悟って言葉少なになる。実際追及はなかった。


メイが苦笑して、


「まあ、お嬢様もコーヒーに関してはプライドもあるようですから、易々と超えられても複雑でしょうけど」


「そうなんですね」


「カフェラテなんかも凄腕ですぞ」


全く、いつあんなスキルを身につけられたのか、と悟。どうやら執事やメイドも知らないコトであるらしい。メイはどこかそっぽを向いて、


「私も、料理含め自信はあるんですけどねー…」


「お嬢様も料理はお上手ですからな」


「それも我々よりお上手でいらっしゃいますから、気は抜けません」


ですから、割とお嬢様、厳しいんですよ、とメイ。銀河は今更ながら驚いていた。―――そんなに厳しいなんてイメージをこの屋敷に抱いたことはついぞなかったから。


悟は頷いていた。


「庭の手入れや掃除に関しては割と甘めなんですがな。料理は厳しいですぞ。お銀さんも近々厨房にも立って頂く予定ではありますが、お嬢様料理の点数は辛めですからな」


「精進します」


「お銀さんも出来るんですよね?」


「それは、まあ」


頷いた。


この屋敷では悟さんもメイさんも料理が出来るから、今まで出番がなかっただけで、十分銀河も心得ている。こういう屋敷で出す料理が何たるかも分かるし、実際見て来たし過ごしてきた―――ここ一ヶ月どころではないレベルで。


メイさんの料理の腕前をみると、それほど俺と変わらないようにも思える。


恐らく俺も近々台所には立つだろう、それは心得ていた。


「心強いですな」と悟。


「私とメイだけではバリエーションに詰まることもありますからな。三人寄らば何とやら、食卓のバリエーションは増やしてゆきましょうぞ」


「賛成です」


銀河も頷き、「期待してますよ」とメイに言われては尚更銀河も期待を膨らませざるを得なかった。


食卓を御馳走様してから、部屋に戻って着替える。



―――腕を通すのは制服に。



そう、学校である。


ここのお嬢様は黙って、俺に「学校に通っておけ」と言った。


しかし俺の身分など証明するものは何もない。



身元不明―――。



だが、「心配御無用ですぞ」と悟さんは言い、実際その通りだった。


俺の名前と年齢だけで、市内の高校―――私立星嶺(ほしみね)高校に転入が決められていた。


「それくらい、お嬢様ならば訳ないですからな」とニコニコ笑って悟さんは言っていたが、ここの咲月さんは一体どんなチカラを持っているのだろうと空恐ろしい気分にもなったりしたのだった。


しかし、そんな特大の好意である。無下にすることも出来ないし、遅刻や落第なんて以ての他である。


銀河は顔を洗うのもそこそこに、玄関で靴を突っかける。


いつの間にかメイさんがお見送りに来てくれていた。


「今日のお帰りは何時くらいになりますか?」


「今日は六限で終わりですから、バスの時間さえうまくつけば、五時までには…」


「では玄関先に、作業着を出しておきますから、帰ってきたらそのまま玄関先から裏山に行って貰えますか?」


「分かりました」


頷く。


朝悟さんに言った通り、裏山の手入れという大仕事があるのだ。


悟さんはずっと山の中に入り込んでいるとはいうが、―――この氷川屋敷についている敷地は、山だけで一つ二つではないらしい。


屋敷の方はメイさんが手入れしているが、庭の方は昼にたびたび庭師を呼んでいるという。


俺という手伝いがいても、やはり手が回らないのは事実なのだろう。


―――学校に行かなければもっと手伝えるのだろうか、なんてことを思ったりもするのだが、それを咲月さんが望むのだろうかと、そんなこともふと思った。


そう思うと、―――せめて部活をやらずに早めに切り上げてくる、それが最大の恩返しなのだろうとも思う。


まあもっとも、興味ある部活も無いのだが。


メイさんに軽く手を振って、銀河は屋敷を後にする。


屋敷の門をくぐると、そこは既に緩やかな傾斜のついた、石畳に舗装された道である。


実にこのお屋敷は標高150m。この星嶺町の象徴である『お山』こと星ヶ嶺(ほしがみね)の山上に続く道の一つ。その傍らにあるお屋敷である。


屋敷から一歩出てしまえば、山のたもとに抱かれた、清閑な風景。


ちょうど門の目の前にバス停がある。


無論時刻も把握している。


星ヶ嶺の山の上の神社―――星ヶ嶺(ほしがみね)大星天社(だいせいてんしゃ)から降りて来たバスが、すぐ銀河の目の前で停車する。


バスの中は人影もまばら―――というかいつも決まった面子である。


「…」


決まってこの時間のこのバスには一人しか先客はない。


いつも一番後ろの席に静かに腰を下ろしている。


黒髪も麗しい、美少女と形容して差し支えない女性である。―――セーラー服からして同じ星嶺高校、学年は一個上か。


いつも会って、視線は交わるので、会釈はする。


少し微笑んでくれることもある。


しかしそれだけ。名前も知らない。多分この氷川屋敷より上の山の手にお宅があるのだろう。それくらいのことしか分かることはなかったし、尋ねる気も無かった。


バスは発車すると、すぐに山を下り、旧市街と呼ばれる街の中に入ってゆく。


バスの椅子の一つに腰を下ろしながら、銀河は悟やメイと交わした会話を思い出していた。


屋敷にやってきて、早々に、この街のことはざっと聞いていたのである。



「星嶺は古い町でしてな」



悟さんはそう語っていた。


「名前の星嶺は、町のシンボルである一番の『お山』…星ヶ嶺に由来するんですぞ」


「星が良く見える町って売り出しをしてますし、その他に色々謂れもあるんですけどね」


メイもそう言っていたが、悟はどこか苦笑いしながら、「それも色々でしてな」と形容しにくい様子だった。


「来る途中で、『星が良く見える町』なんて看板を見かけましたけど」


「ああ、それもまあ一つの事実ですな」


悟はそう言ってグッと指を立てた。同意を示す時の、この執事のクセのようなものである。


「星ヶ嶺のてっぺんあたりは空気が昔から良く澄んでおりましてな」


「今は天文台もあるんですよ」


良く子供を集めて観察会なんかもやっていますよ、とメイ。


「天文台と、あとあるのはお山の神社ですな」


「星ヶ嶺大星天社が正式な名前ですが、星宮さんとかお山の神社とか色々呼ばれてますね」


メイの補足。「賑わってるんですか?」という銀河の質問に、執事は頷いて、


「この街で一番大きなお社ですからな。いわゆる鎮守と呼ばれるお社ですぞ」


「この星ヶ嶺の土地を持っているのは、お社と、県立の天文台と、この氷川屋敷です」


逆に言えばその3つで、広大な山の敷地全てを保有しているのだとも。


銀河は最早溜息すらも出なかった。


「…どれだけ広いんですか、このお屋敷」


「まあ、流石に裏山もある程度までしか手を入れることは出来ませんがな…」


ある程度で見切りはつけねばなりませぬが、と悟。悟自身も手を焼いているらしい。メイも頷いて、


「ですが、それがお嬢様の意志でもありますし…」


「ま、実は山の土地云々に関しては我々にもちょっと関わりがあったりする話なのですが、それはとりあえず置いておきましょうぞ」


そう言って、悟さんは続けて話をしてくれた。



星嶺は、2つの市街地に分かれているという。



一つは星ヶ嶺の南麓、谷間に発展した旧街道沿いに展開する市街地である。


旧市街地と呼ばれている。


何故そう呼ばれているかというと、新市街地があるからそう呼ばれるようになった訳で。


この星嶺は、かつて星ヶ嶺の南麓を通り抜ける旧街道沿いに発展をしていたが―――明治期に、そこに鉄道を誘致することに失敗したのである。


鉄道は星ヶ嶺の南麓を東西に抜ける旧街道、ソレ沿いではなく、星ヶ嶺の東側に通ってしまった。


結果として旧街道は寂れてしまい、鉄道駅沿いに新市街地が形成され発展した―――というあらましであるらしい。


それも銀河は、悟から聞きかじっただけの話である。



バスは、山を下りながら、停留所で学生を拾ってゆく。



この時間帯は、乗客はほとんど100%が学生だというのを銀河は既に知っていた。


朝、マイカーで混雑する市街地をバスはゆっくりと抜けながら、ちょうど立つ学生で一杯になろうかというくらいに、学校に到着する。


私立星嶺学園高校は、ちょうど旧市街と新市街の間、ちょうど半端な郊外地区に広い敷地を構えている。


どちらからも通いにくいと言えばそれまでだが、どちらからも平等ということでもある。


生徒数700人超の、ごく普通の男女共学高校である。


何も変わったことはない。


2年生として、新学年開始と同時に転入出来たこともあって、銀河もそれほど浮くことなくクラスに溶けることが出来た。


教室の自分の席に落ち着いて、教科書を準備しながら思う。


クラスに溶けることは出来たが、しかしさりとて、一ヶ月前まではまるで知らぬ、縁のない土地であった。


当然知り合いがいる訳でもないから、親しい友人がすぐに出来る訳でもなく、無難に全てをこなしている感じである。


だが親しい知り合いを作って、友達付き合いとなっても、屋敷の手伝いに支障が出る。


メイさんと悟さんの顔を思い出すだけで、それだけで良いかな、なんて気もあるのである。


それくらい、良い人達なのである。


帰ったら手伝いをしたいし、料理だって色々教えて貰いたいし、咲月さんのコーヒーの話とやらも少し気になる。


窓から吹き込んでくる、四月の終わりの風。そろそろ五月の連休を控えて、浮ついた空気が教室に漂っている。まあ俺も連休はゆっくりと屋敷の手入れが出来るだろうな、などと呑気に考えているのである。




―――これがいつまで続くのだろうか。




俺自身の事情を考えたくはなかった。


今は、ただ、ゆるやかな春の陽気の中に身を浸していたかった。


授業が始まる。



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