五十五話「初恋の潰れる音」
※軽度の暴力描写があります。
握手をほどいて、さっそくこれからの相談に移る。
山吹様がまず聞いてきたのは、紅花さんの「力」を封印する方法だ。
「紅花が正気に戻れば、彼は自分の力を操れると考えていいんでしょうか?」
「……う~ん。まったく周囲に影響を及ぼさないとは言い切れないかな。だからですね、朽葉くんたちに紅花さんを封印している結界を調べてほしいんだ」
私の考えはこうだ。
紅花さんを封印している結界。彼を無理矢理に閉じこめて自由を奪うものだけど、万全の状態なら彼の力をも封じることができていたはず。
紅緋さんが結界は今では鬼のみで保たれていると言っていた。……つまり結界の知識は、ぜんぶ鬼側にあるってことだよね。
「そしてあらためて作ってほしい。持ち運びできて軽くて紅花さんの力だけを封じてくれるようなやつを」
「とんでもない無理難題が飛び出てきましたね」
山吹様が顎に手を添えて考えこむ。
「……山吹だけでは足りない。蘇芳も、新橋も、深緑も……鳩羽も必要でしょうね」
各家の古い資料を持ち出せて、鬼の力が強いものがいいと山吹様は続ける。
「それなら三日以内には、ひとりお願いできるかも」
「茜ですか?」
「うん。……茜くんには、とっておきの切り札があるから」
そう言って、私は懐から小箱を取り出した。ぱかっと蓋を開けると、中には今日手に入れたばかりの勾玉の欠片が入っている。
「まずこの持ち主をあらゆる害から守る勾玉の欠片を、賄賂として渡します」
ふむふむと山吹様が頷く。
「そして事情を話し、誠心誠意頼みます」
「……あれ、それだけ?」
あっけにとられた様子の山吹様に、私はむっと眉を寄せた。
勾玉の欠片があれば、蘇芳くんの幼少期からの悩みも解決されて、この先のヤンデレルートもひとまず棚上げできるんだぞ!……ってさすがにこれは話せないんですけどね!
山吹様には話していいと思うんだけど、彼の上には目の上のたんこぶ的に紅緋さんがいる。千恋の情報だけは、絶対に紅緋さんへ渡したくない。
「もっとものすごいものが出てくるかと」
「あいにく昨日まで軟禁生活でして。
……あっ、そうだ。
朽葉くんは、私に頼んでおくことない?」
携帯の時計によるとそろそろ深夜零時だ。お互いにそろそろ寝床に戻ったほうがいいだろうと思っていると、山吹様はずいぶん難しい顔をして考えていた。
「うーん。朽葉くん、もう一ついい?」
「どうぞ」
「黎が切った鬼のひとたちって、いまはどうしているのか気になって。怪我とか、その……」
「どの鬼もかるい打撲程度でしたよ。
……もちろん鬼固有の超常の力は失っていたけれど、ね」
そう言うと、山吹様はたんたんと教えてくれた。鬼の力をなくした鬼の処遇は、各々が属する四色の家に任された。
蘇芳、山吹、新橋。この三家は、鬼の力をなくした鬼を、以前と同じく鬼であると定めた。新橋家主導で、鬼の力を復活する研究や、黎の鬼無に対抗する術も探しているらしい。
うえで名前の出なかった深緑の家だが、深緑家の頭目は、鬼の力をなくした鬼を「鬼無し」と罵り、全員追い出した。
新橋側で保護できた鬼も居たが、木無町を出た鬼もそこそこ居るという。
「それは……黎と東子ちゃんを探しにいった、とか?」
「そういう考えのものも居るでしょうね。あとは……あなたや、あなたの家族に害をなそうとするもの」
山吹様の言葉に背筋がびりっとした。
お母さんたちを守りつつ、黎と東子ちゃんを探さなくてはいけない。
「紅緋様のお力添えもありますし、大事には至らないでしょうが……僕も気をつけて見ておきますね」
「ありがとうございます!」
「お友達なのでこれくらいは」
山吹様の後光差す笑顔がまぶしい。
この様子だと私への頼み事も話してくれるかもしれない。口を開く前に、私はハッとした。
――そうだ。魅了への対抗策!
私ばかり頼みごとをして申し訳なく思うけど、私がホイホイ魅了にかかる状態だと共犯者の山吹様の身だって危ないのだ。
そんな心配を話せば、山吹様はまたしぶい顔に逆戻りするので私はピンと来た。
「朽葉くん。魅了への対抗策、思いついてるでしょ」
「……ええ」
「もしも私への迷惑を心配してくれるなら、ありがたいけどそれはうっちゃって!」
そこまで言うと山吹様は、観念したように両手をあげた。
「たとえば、Aという人物にBという人物を殺させる魅了をかけた鬼が居たとします。
ですが、このAにはBを絶対に殺してはいけないとすでに別の鬼に魅了されていたのです。この場合、AはBに対してどんな行動をとると思いますか?」
「……力の強い鬼の方?」
「正解です」
山吹様の言わんとすることが分かってきた。つまり山吹様が私に魅了をかければ、山吹様以下の力を持つ鬼の魅了にかからないこともできるってことだよね。
「そういうことなら是非!」
「……本当に、分かっているんですか?」
低い声で尋ねられて、ちょっとびっくりしてしまう。なんだかこの言い方、私に頷いてほしくなかったように聞こえてしまう。
……なんて考えてみて、私はちいさく笑った。
「さっそくともだち扱いしてもらってますね」
「お嫌ですか?」
「すこしくすぐったい。……うん。でも嬉しいかな。出会ってすぐに魅了かけてきた朽葉くんが、躊躇うようになってくれて」
「ああ……覚えておいででしたか」
「それはもう……忘れられない体験だったよ」
自分の心を、意思を。言葉ではなく不可視の力で曲げようとするひとが居る。――そうする理由を推測できても、鬼とはそういうものだと理解していても、やっぱり怖かった。
「でも今の朽葉くんは怖くないから、大丈夫!」
胸を張って言い切る私に、山吹様は口元を覆った。かるいため息の音が響く。
「サヨリさん。僕の目を見て……」
金色の瞳の周りを燐光がくるりと囲む。
山吹様は私の肩にかかった髪を払いのけ、両肩を掴んだ。
「あなたが何者にも踏みにじられない、自由な心を持ち続けられますよう」
「……うん」
「僕には隠し事をしないでほしいなー、正直でいてほしいなー……と、いまのは独り言ですよ?」
「え? う、うん?」
私が返事をすれば、山吹様は目を閉じて、こつんと額をぶつけてきた。
――なに、これ? 熱でも測られてるの?
「サヨリさんって、可愛らしいのに面白い顔をしますよね」
「褒めてる?」
「チョモランマ級に褒めてます」
いたずらっぽく笑った山吹様は、すぐに別の話題に移った。いぶかしく思いながらも、私もそれに乗っかる。なにせさっき協力者になったばかりの私たちには、話し合うことは山ほどあるのだから。
それから一時間ほど話し合って、私たちは別れた。
「疲れが出たのかな」
そしてこっそり紅緋さんの屋敷に帰った、のだけれど……。
――しまった。蘇芳くんとの婚約をどうするかの相談、乗ってもらってなかったぁ……!
「なんで忘れるかな!? こ、このままだと十月には結婚……!」
結婚、かぁ。
畳の上に敷かれた布団の上に寝転がり、目蓋を瞑る。
――魅了にかかっていた時は、戸惑いもあったけれど、嬉しかった。どきどきしてた。でも、今は……
考えがまとまらないうちに眠気がやってきて、私の意識な闇の中に沈んだ。
――あ。もう1個あった。あの不思議な場所で会った、不思議な女の人……
『ごめんね。ぜんぶ私のせいだ……』
『迷子はおうちに帰る時間。……もう、いいよ』
魅了にかかっている間、私はこの人のことを思い出さなかった。これって、彼女が東子ちゃんに関係してるってことなのかな。
――いやいや、さすがに飛躍しすぎでしょ。でも、なんだかあの人は……
「懐かしい……むにゃ……」
脱走に穴掘り、そして夜更かしのトリプルツケは、筋肉痛と体調不良という形で翌日の私に襲いかかってきた。
――やっぱり軟禁生活で、体なまってるじゃん!
布団にくるまり、赤い顔でけほけほ咳をする私に、お薬やら氷枕を持ってきてくれた小豆くんと梅ちゃんが心配そうに私を見ている。
「サヨリ様。なにか食べたいものある? 飲み物はいっぱい用意したからな」
『ゆっくり眠らせてあげるのが一番』
小豆くんの小声と、梅ちゃんの私が見やすいようにいつもより大きく書かれた文字を見て、へらりと笑う。
へへっ。こいつぁ、あちきの自業自得ってやつです。心配かけてごめんね! でも心配してくれるひとが居るのは嬉しい!
「明日になったらきっとよくなるよ。でも今日はもう薬を飲んで寝ようかな」
そう言うと小豆くんと梅ちゃんは、最後まで心配そうに振り返りながらも部屋を出て行った。私も薬を飲んで布団をかぶりなおす。
明日には蘇芳くんへの取引を持ちかける予定だから、今日中に絶対に治さないと。
次に目が覚めると、あたりはすっかり暮れなずんでいた。障子戸からさしこむ橙色の光に目を向けながら、熱を測ってみればばっちり平熱だ。まだ油断はできないけれど一安心だ、なんて胸をなで下ろしている時に、からりと障子が開いた。
障子の向こうから顔を出した蘇芳くんが目を丸くする。
「わるい、起きてたか」
「えっ……い、いま起きたばっかりだから」
やっばい。緊張のあまり声が裏返ってるぞ!深呼吸深呼吸。
「お見舞いにきてくれたんだよね。あ、ありがとう」
「……ん。熱、下がったか?」
何度も頷くと、蘇芳くんはごく自然に手を伸ばして私の額に触れようとした。……けど、私は思わず避けてしまった。
――なにあからさまに避けてるの、ばか!怪しまれるでしょ!
「あ、汗でベタベタしてるから」
「あー……わるい」
「いやいや、茜くんは一切悪くないです!」
そう私が言い切ったあとは、微妙な沈黙が落ちる。紅緋さんの屋敷で例の取引を持ちかけるわけにもいかないし、今日はこのまま帰ってもらって、明日元気になった私が蘇芳家をお尋ねするというのはどうだろう?……うん、これいい案な気がする!
私は蘇芳くんの赤い目を見て、笑った。
「明日には元気になってると思うから、蘇芳の屋敷を訪ねてもいいかな? あ、茜くんに会いに……」
蘇芳くんはすこし考えてから、何気なく私の髪を梳いた。急なことでびっくりしたけど、怖くはない。心地よささえ感じる。……相手が、蘇芳くんだから。
「わかった。調整しとく」
「ありがとう!」
「だから今日はもう寝とけ」
「うんうん。茜くんをお見送りしたらそのまま仰向けに寝転がるよ!」
ぽんと頭を撫でられた。くすぐったい。
蘇芳くんは頭を撫でていた手で、私の頬を撫でたかと思えば、自分の左手の小指に私の右手の小指に引っかけた。
「約束」
「茜くんってば、しかたないなぁ。
ちゃんと明日までには元気になるから!」
「ゆびきりげんまん、うそついたら、針千本の~ます。ゆびきった」
絡んだ小指が解けた一瞬だった。
蘇芳くんは私のつむじに、口づけを落とす。
顔が赤くなる前に、めまいがした。
蘇芳くんは私のことを友だちだと思っていてくれていたはずだ。
私だって蘇芳くんを友だちだと思っていた。
でも、いまはそうじゃない。
蘇芳くんは、私に自分を好きになるように魅了をかけた。その責任をとるために、こんな婚約者同士の振る舞いをしてくれているだけ、で……。
「やめて」
「……サヨリ?」
「魅了、解けてるの」
息を飲む音。かすかに震えた指先。驚愕に彩られた蘇芳くんの顔。そのすべてをつぷさに見て、私は彼の腕からすり抜けて立ち上がる。
「蘇芳の屋敷に行こう。あなたと話したいことがあるんだ」
蘇芳くんの手を引っ張って歩き出す。
黙々と歩く最中、私の頬に水滴がすべった。横の蘇芳くんに見えないよう袖口でさっと拭う。
つくりものの恋だった。違和感だって幾度となく感じていた。
でも、私にとっては、初恋だったんだ。
心臓がつぶれたみたいに、胸が痛む。
ただ魅了が解けただけなのに、まるで失恋したみたいだ。
蘇芳の屋敷に着くと、蘇芳くんは客間や広間を通り過ぎ、自分の部屋に案内してくれた。
壁にかけられたナントかの書。文机のまえに敷かれた小豆色の座布団。
蘇芳くんが押し入れから座布団を出してくれなかったら、ここは蘇芳くんのおじいちゃんの部屋か?と思うほど落ち着いた部屋だった。
閑話休題。
小豆色の座布団に座り、蘇芳くんと向き合う。私はこれから、えーっと蘇芳くんに勾玉の欠片を渡して取引して……。
緊張でぐちゃぐちゃになりかけた思考に待ったをかける。
取引をする前に、私は蘇芳くんに言わなくちゃいけないことがある。
さきほどから頭痛をこらえているような蘇芳くんの顔をまっすぐに見て。
「蘇芳くん。私と、私の家族を助けてくれてありがとう」
私は深々と頭を下げた。
これねー!今更言うんかいって感じなんだけど、めっちゃくちゃ感謝してるのだ。
いくら私が紅緋さんの義理姉にして養女とはいえ、蘇芳家の庇護がなければ家族ともどもここまで無事でいられなかったと思う。
下げていた頭を上げると、蘇芳くんは浮かべる表情に迷う顔をしていたが、うつむいて小さく頭を振った。
「べつに礼を言われるほどのことじゃない」
「私はそうは思わない。友だちの家族まで守ってくれるなんて、蘇芳くん優しすぎて心配になるやつですよ!」
「……?」
拳を握り力説してみたけど、蘇芳くんにはいまいち伝わってないみたいだ。まあ感謝の言葉って押しつけるものじゃないしね。おいおい蘇芳くんに受けた恩を返していきながら、隙あらば感謝の言葉をねじ込んでいきたい。
「……これだけか?」
「ううん。もう一つあるんだ。
ちょっと突拍子もない昔話なんだけど……」
山吹様に話したことを蘇芳くんにも話す。最初は訝しげだった赤い瞳が、すこしずつ真剣になっていった。
「紅花さんを助けるために協力してほしい。それが紅緋さんのためにも、鬼の世界のためにもたぶん……いや、鬼の世界は分からないけどっ。絶対わるいようにはならないから!」
ちらりと蘇芳くんの顔を窺う。概ね信じてくれてはいるけれど、迷っているって感じの顔だ。ぶっきらぼうだけど、このわかりやすさ。デフォルトが威圧笑顔な山吹様にちょっと爪の垢を煎じて飲んでもらいたい。
――迷っているなら、次はこれかな?
私は懐から小箱を取り出した。ぱかりと蓋をとれば、そこには勾玉の欠片があ~るのですね!
「これを、茜くんに。
これを持っていれば、茜くんが聞いている「鬼の声」を聞かなくてすむようになるはず」
蘇芳くんの赤目が限界まで見開かれた。
「なんで知ってる……!」
ゲーム知識ですね、はい!
なんてことは言えるはずもなく、ふわっと意味深な笑みを浮かべてみる。
「紅花さんにね、蘇芳家の鬼がよく似てるんだ。自分の息子の子孫っていう認識が、紅花さんにあるかは分からない。今の彼は狂っているから、きっとただ自分の怨恨や憎悪をまき散らすだけだよね。
この勾玉の欠片を蘇芳くんが身につければ、声は聞こえなくなると思う」
「……買収か」
「私たちと手を組むメリットの一つって思ってほしい」
顎をさすりながら、蘇芳くんが考えはじめる。事前に山吹様と相談した内容は言えたと思う。
あとは……蘇芳くんとの婚約についてだよね。花嫁修業に付き合ってくれた小豆くんや梅ちゃんには、たいへん申し訳ないけど、……蘇芳くんには同情とか魅了とかじゃなくて、本当に好きな人と結婚してほしい。
そんなことを私がつらつら考えている合間に、蘇芳くんは答えが出たようだ。
「受ける。……朽葉のやつも一枚噛んでるだろ。断っても絶対そのうち巻き込まれてる」
蘇芳くんのうんざり顔から、友人への確かな信頼が窺えてしまい、ほのぼのとした気持ちになってしまう。
――今までも、山吹様の無茶ぶりに巻き込まれてきたんだろうなぁ……。
自分のことは棚上げして腕組みしつつ頷いていると、蘇芳くんからでこぴんが飛んできた。
「あいたぁ!」
「わるい。なんかむかついた」
「なんという理不尽な暴力!損害賠償においしいお菓子を要求します!」
「上生菓子は好きか?」
「ジョウナマガシ?」
「おおざっぱに言えば餡子の菓子」
「好き好き!」
諸手をあげて歓迎ムードの私の姿を見て、蘇芳くんは手の甲で口を隠して笑う。
……なんだか、穏やかな雰囲気じゃない?
……蘇芳くんと、これからもうまくやっていけそうじゃない?
そんな風に私が考えていた時だった。
蘇芳くんが明日の天気を尋ねるような口調で尋ねてきた。
「いっそこっちに住むか? 山吹の屋敷にも行きやすくなる」
「え!? それはダメでしょ!」
「……婚約の儀式のときだけ戻れば大丈夫だ」
い、いいのかなぁ。
協力者の山吹様や蘇芳くんと連絡がとれやすくなるのは、ありがたいけど……いや、よくない。だめだ。
「連絡手段は携帯を使えばいいよ。メールにしよ」
「……誰かに見られるかも知れない」
「送信・受信してすぐに削除を徹底すれば、あんがい大丈夫! それに紅緋さんのお屋敷で家電製品の類を見たことないんだけど……っ!?」
急に蘇芳くんから腕を捕まれて、前に倒れこみかける。
突然の行為にひと文句つけようと見上げた蘇芳くんの瞳が、顔が、呆然としていた。
「……婚約、どうするつもりだ」
「茜くん?」
「純血の鬼がふたりに増えたら、どうなる」
「……あの、茜くん」
「悪鬼に、紅緋様の命を解いてもらうのか?」
「蘇芳茜くん!」
蘇芳くんの胸に勾玉の欠片を押しつける。するとじわじわと彼の瞳から、濁った赤色が消えていった。そして蘇芳くんの体の震えが、手首を通じて伝わってきた。
これが、紅花さんの憎しみの影響、なのか。
知っていても、目の前で見ると愕然としてしまう。
蘇芳くんが不自然に怒りっぽくなったり、頭痛をこらえる仕草をしたりしているとき。それは、彼が紅花さんの怒りや憎悪に引きずられてしまっているときなのだという。
思い返せば、話を始める前に、蘇芳くんは頭痛をこらえるような仕草をしていた。
――なんて厄介なタイミングで、精神力を使う話をしてしまったのだろう。
落ち込んでても仕方ないけど!これはちょっと落ち込まざるをえない!
勾玉の欠片が蘇芳くんから悪いものを払ってくれるのを祈りながら、蘇芳くんに横になるようすすめたのだが、蘇芳くんはなにも言わずに私の手首を握るだけ――
違う。
蘇芳くんは手首を握っていた手をぬるりと上に滑らせ、なぜか私の小指を人差し指と中指でつまみ上げた。
「す、おうくん?」
ちいさな圧迫感が、小指に生まれる。
「なんだ。もう名前で呼んでくれないんだな?」
薄い笑みを浮かべる彼の顔は、悲しげで。私が反論を口にする前に。
「いっ……!」
小指が少々、後ろに曲げられた。
痛い。でも怪我をする程じゃない。
「あ、茜くん! 勾玉を自分で持って! 気を確かに! いま私にちょっとでも怪我させたら、あなたは生涯自分を許せないと思う!」
「へえ。そいつは知らなかったな」
「冗談で言ってるわけじゃないの! あなたの今の怒りや憎しみは、あなたのものじゃ……」
悲鳴を堪えられたのは、唇を思い切りかみしめたからだ。私の小指はいまや完全に後ろにのけ反ろうとしている。
痛い。痛い。痛い。
痛みが思考を埋め尽くし、目の前がチカチカする。きっと今の私は二目と見られない顔をしているだろう。
それなのに。
蘇芳くんは笑って。
「卯月、ごめん」
私の小指をぽきんと追った。
「あ……が……っ」
痛みで頭が真っ白になる。
指ってこんな簡単に折れちゃうんだ。やばいな。カルシウム、もっととらなくちゃ。
「ど、どうして?」
震えながら尋ねた私に、蘇芳くんはなにも言わない。だけど箪笥からハンカチを取り出すと、折れた小指を固定してくれた。
――て、手当て? でもこの指って、蘇芳くんが折ったんじゃなかったっけ? あれ? あれ?
思考がまとまらない。蘇芳くんの腕が私に向かって伸びてきた。後退ると蘇芳くんの顔が悲しげになり……手をひっこめる。
――意味がわからない。
蘇芳くんが立つ。私は後退る。蘇芳くんは部屋の出入り口に向かう。
――いみが、わからない。
「これ以上、よけいな痛い思いをしたくなかったら、大人しくしてろ」
そう言って蘇芳くんは部屋を出て行った。私はやっぱり意味がわからなくて……って違う!
指が折れていない方の手で、畳の上に落ちた勾玉の欠片を拾う。勾玉の効果がなかった? それとも一つだけじゃ足りないほどに浸食されてた?
次々に浮かぶ仮説を頭を振って追い出す。勾玉の欠片をしまって、私は立ち上がった。
とりあえず、今は逃げなくちゃいけない。待つように言われたけど、話の腰じゃなくて指の骨を折ってくるようなひととは、許嫁だろうと友達だろうと、冷静に話し合いなんてできない。
……なんて、話し合いから速攻で逃げたのが、いけなかったんでしょうか。神様。仏様。紅花様。
部屋から出た直後に、きぃと床板の軋む音と、かつんかつんと何か固いものをぶつけながら、引きずっている音が聞こえた。
誰か来る。
おそるおそるそちらを見れば、蘇芳くんが抜き身の刀を手に持ってこちらにやってきていた。
彼は呆れたように笑って。
「やっぱり出たな」
と言って、こちらにやってくる。
私たちふたりの間には、およそ五メートルほどの距離があるが、刀がただの模造品でないことはすぐにわかった。
体が震え、折れた小指がふたたび痛みだす。
逃げれば、あの刀で……斬られるかもしれない。
躊躇したのは一瞬だった。私は蘇芳くんに背を向けて走り出す。
蘇芳くんはくつくつと低く笑って、ゆったりとした足取りで、私を追いかけはじめた。
「な、なんなの? 茜くんほんと何なの!?」
「だってお前が逃げるから」
「ちょっと冷静に話し合いできなさそうだったから! 日を改めようと思ったの!」
「物は言いようだな」
話がまったく噛み合わない。それならばと全力疾走しても、私と蘇芳くんの距離はすこしも離れない。
息を荒げながら振り返ると、蘇芳くんが首を傾げて。
「そろそろ疲れたか?」
なんて言ってくる。まるっきり遊ばれている。
でも、私だって無闇矢鱈に逃げているわけじゃない。この逃走の目的地は転霊の間だ。紅緋さんの屋敷に戻れば、ひとまず安心?だし、転霊の間から出た振りをして、べつの場所にワープするのもありだ。ありがとう、ゲームにはなかったワープシステム!
転霊の間が見えてきて、安堵できたのもつかの間だった。
「な、な、な……」
「お~い。こっちですよ、お~い」
転霊石の前で、ニコニコ笑顔の山吹様が手を振っている。それは私に言ってるのか?
それとも、後ろの蘇芳くんと共同して私を挟み撃ちに……なんて疑心暗鬼は、長くは続かなかった。転霊石の真ん前に立っている山吹様の後ろに回りこむ。すると後ろに目がついているんじゃないかってくらい正確に、がっしりと右手を捕まれた。
「おやおや。もう茜の説得は終わったんですか、共犯者さん?」
山吹様の軽口に、私は彼の背中をじとりと睨むことで応じた。
「一度了承されたかと思ったらこのざまです。いまは戦略的に撤退するところだったんだけどな! 朽葉くんも逃げたほうがいいと思うけど!」
「それはまたご苦労様です。
でも一度の失敗で逃げ出すなんて、ちょっと肩透かしというか」
「……茜くんの持ってる刀、見えてる?」
「鬼無に似ていますね。蘇芳の蔵にあったものかな?」
「……オーケー。会話中に小指を折られたことは?」
「それが茜からなら、よっぽどご機嫌を損ねたんですね。人畜無害の茜にそこまでさせるなんて、やっぱりあなたは面白いなぁ」
くすりと笑みをこぼす山吹様を、穴が開くほど見つめる。な、なんだ。この話が通じないやつその2は? 私の味方なはずなのに、蘇芳くんに指を折られたときのような寒気がするんですけど!
「いまの茜くんとの話し合いは不可能だよ。朽葉くん、出直そう」
山吹様の腕を全力で揺らすが、彼は思案する素振りを見せるばかりだ。ええい! 小首を傾げて「どうしようかなぁ」なんて言っている場合か!
けれどそんな私の健闘むなしく、蘇芳くんが転霊の間に現れた。
相変わらず抜き身の刀を手に持った蘇芳くんに、山吹様はいつも通りに笑いかける。
「こんにちは、茜。
すこし話したいことがあって来たんだけど」
「……また今度にしてくれ」
「でもさ、急ぎの用なんだ」
蘇芳くんが刀を持ち上げた。切っ先がまっすぐ山吹様に向けられる。
「悪いな。まだ先約が終わってないんだよ」
蘇芳くんの言葉に、山吹様がちらりと私の方を見る。……私にどうにかしろって、ことかな。
私は両手をあげて、山吹様の後ろから出た。
「わかった、茜くんと話をする。だからその刀を下ろ……ぐえっ!?」
体全体が下に引っ張っられる。もちろん犯人はちょうど隣に居た山吹様だ。怪我していない方の手を全力で下に引っ張ってくれている。
「ちょっ!?」
「隣に居るのに頼ってくれないなんて……寂しいです」
山吹様は金色の瞳を切なげに潤ませたかと思えば、私の手をやさしく握ってほがらかに笑った。
「僕があなたの新しい婚約者なんですから。ね?」
そう言うと山吹様は、握った私の手の甲に口づけた。
…………。
………………え?




