三十八話「混乱のるつぼ・二」
目を開けて、すぐさま目を閉じる。知っている木目の天井だった。そしてできれば、ここにもう戻って来たくないなあ……と思っていた天井だった。
はい、我らが学園長・紅緋様のお屋敷の天井です! そして私はまた同じ部屋で、お布団に寝かされています!
うう、うう。まじか――まじかああ! 掛布団の下で、じたばたとのた打ち回る。よりにもよって、紅緋さんの屋敷とか嫌な予感しかしない。例えば、勾玉を奪われたり、後は――。
「お父さんお母さん!黎、……っ」
勢いのままに起き上がると、ぴりっと首筋が痛む。そ、そうだった。私、蘇芳くんに気絶させられて、それで……。
首の裏を摩りながら、自分の状態を確認する。服装は特に変えられたりしていない、セーラー服のまま。スカートのポケットには、勾玉の欠片と特製メモ帳が入っている。
なくなったものがないことにほっとしながらも、一抹の不安が消えない。勾玉はもちろん、メモ帳だって見られてはいけないものだ。ただ中身を見ても「ゲーム」のメモだと思われるような書き方をしているから、ぱっと見では分からないと思う、けど。
私は布団から静かに抜け出して、襖をそうっと開いた。外は梅雨らしく曇天で、でもまだ日があるうちなのか、うっすらと辺りは明るい。
黎と東子ちゃんはどうなったんだろう? お父さんとお母さんは? 私のように、ここに連れてこられたのだろうか。それとも……?
「……」
一旦、逃げよう。紅緋さんの屋敷とか、私には不利すぎる。学校に戻るのはナシとして、家に戻るのは危ないだろうか? 抜き足差し足忍び足で、そうっと板張りの廊下を歩く。ここが屋敷のどこら辺かは分からないけど、以前訪れた紅緋さんの部屋は随分奥まったところにあった覚えがある。奥に行かないようにしつつ、どうにか……。
「卯月サヨリ」
澄んだ少年の声に、歩みが止まる。声と同じくらい透明で澄んだ緑の瞳に、私は絶句した。色素の抜けた白い髪。若葉のような緑の瞳。……黒づくめの、忍者みたいな装束。
「……ふかみくん?」
「あなたが、部屋から出る許可は下りて、ない。部屋に戻って」
ちょっと舌足らずな喋り方で、深緑くんが言う。ふ、ふかみくんだ。ふかみくん、無事で。無事でよかっ……。
待って。――深緑くんが、喋ってる?
興奮が水をかけられたようにさっと引いていく。深緑くん。深緑千歳。彼が、どうして五月末のイベントを越してから接触しないと、「攻略不可」になるのか。
それは、五月以前に親しくなり過ぎると、紅緋さんが深緑くんの記憶を消して、ある暗示を与えるからだ。
『思い出しては、ダメだよ? また声が出なくなってしまうからね』
そう言って、紅緋さんは楽しそうに微笑む。紅緋さんが深緑くんの瞳を隠していた掌を、退けると……そこにはもう、主人公を友達だと言ってくれた、深緑くんは居なかった。
そこに居るのは「深緑千歳」。紅緋さんを主と仰ぎ、主人公のことを路傍の石のように一瞥する、忍。
「うそ、」
「……」
深緑くんは、何も言わない。だって、まさか、嘘だ。だって。また会えるって、友達だって……。
「深緑、くん」
「……」
「深緑くん!」
深緑くんの緑の瞳は、まるで色のついたガラスみたいだった。くしゃくしゃに顔を歪めて、今にも泣きそうな私をただじっと映している――。
落ち着け。落ち着け、卯月サヨリ。もしかしたらって思ってたじゃないか。もし、何もなくても「深緑千歳」なら、そのうち会えるって分かっていたじゃないか。
七月。文化祭も終わり、もうすぐ夏休みという時に1年2組には転校生がやってくる。それは、経緯は違うが紅緋さんによって記憶を失くした、深緑くんで……。
だから、大丈夫。大丈夫だ。袖の中で拳を握りしめる。大丈夫だ。
「私の、家族と、友人はどこですか」
「……」
「どうして、私はここに……?」
「……」
深緑くんは、何も答えない。私が部屋に戻るのをじっと待っている。行き倒れの印象が強い深緑くんだが、忍としての実力は紅緋さんの配下でも随一だ。今ここで逃げ出しても、私なんてあっという間に首根っこを掴まれて、部屋に押し込められるだろう。
一度、戻った方がいいかもしれない。忍の気配とか分かる気はしないけれど、とにかく、一度、部屋に戻って。
「卯月サヨリ」
「っ……なに」
「許可、が出た。来てもらう」
そう言って、深緑くんは踵を返した。少し迷った末、私は深緑くんの後を追いかける。
少しずつ、見覚えのある景色がちらほらと見えてきた。ああ、この曲がり角を曲がったな。こっちは左に曲がって……そんなことを繰り返すうちに、紅緋さんの部屋に近づいているのが嫌でも分かった。
どうしよう。前と違って逃げることは不可能だ。だけど、諦めるのもやっぱり無理。……ちょっと、考えてみよう。
私が気絶した後、たぶん、黎と東子ちゃんそれから鬼たちの戦いは、一応決着したのだと思う。それから考えられる展開は、黎と東子ちゃんを中心に置いてみれば2つかな。
二人が鬼たちに捕まるか、二人が、逃げたか。
個人的に逃げていてほしいけれど、今の状況ではどちらか分からない。それに多分、二人が逃げているか逃げていないかは、私の状況とはまったく関係がないだろう。
鬼無を使い、鬼に少なくない損害を与えた人間の家族。紅緋さんなら、どうするか。人質、見せしめ、とか……。
奥歯をぐっと噛みしめる。
渡せば世界を救う手立ては、一つしか残らないけれど、私には紅緋さんと交渉できる手段がある。ポケットの勾玉の欠片、二つ。これで、どうにか家族と東子ちゃんの助命を願えないだろうか。それで、それから。
「着いた」
深緑くんが、紅色の花が描かれた襖の前で止まった。緑の視線に促されて、私は震える手で襖を引いた。こうしてこの襖を開けるのは二回目だ。そしてできれば、二度と開けたくなかった。
暗い室内に微かな明かりが差しこむ。背を向けていた彼が、ゆっくりと振り返った。黒髪が、揺れて。深紅の瞳が、ふんわりと細められた。
「またお会いしましたね、義姉上」




