二十七話「姉と弟の初めまして・一」
朝である。新しい朝が来た。頭の中ではラジオ体操が駆け巡り、夜の寒さが残った早朝の空気をお腹いっぱいに吸い込む。うん、おいしい! 両手をぐっぐっと握ってみる。うん、大丈夫!
緊張して震えていて洋服のボタンが留められないとか、寝不足で頭がくらくらするとかない。これなら午前中の劇の練習も大丈夫だろう。よしよし、私素敵、私無敵、私最高……のお姉ちゃんになって見せる……!
気分は、逆巻く情熱の炎をバックに背負った日本男児だ。うん、控えめにいって、私、めちゃくちゃ緊張してるーー!!
だって今の朝五時ですよ、今。時計の針を二度見しました。うそです、今三度見した。
「だ、大丈夫。大丈夫、そうだ。台本でも読もう。私お姉ちゃん、がんばる……」
いつも寝る前に読むために、テーブルの上に出しっぱなしにしている台本を掴む。学生の手作り感ではなく、きちんと装丁された台本にちょっぴり私立のセレブリティを感じずにはいられない。ぱらぱらと台本をめくり、そうだなあ。最初から読んでみよう。
――ピロリン!
「わひっ!?」
メールの着信音に、飛び上がる。こんな早い時間にメールしてくる相手は、二人しかいない。うちのお父さんと――。
『From:私のいもうと
Title:お姉さまへ
おはようございます、お姉さま。
今日、黎さんとお会いになられるのですよね。
きっとお姉さまのことだから、居てもたってもいられな
くなってるんだろうなと思います。
だけど、しっかりと体調を整えてくださいね。
寂しいですけど、この辺りで。
いつもあなたことを案じている、いもうとより』
ちょっぴり改行の場所がおかしいところが、あるけれど当たり障りのないメール。でも、タイトルがお姉さまへは、要注意事項があるときのものだ。段落の頭文字をひとつひとつ拾っていくと、「おききください」――。
これも、符丁。簡単な、私たちだけにしか分からない合言葉。
お聞きくださいは、『鬼に気を付けろ』だ。
この鬼は、紅緋さんや学園に居る蘇芳くんら四色の鬼ではなく、外に居る一般の鬼たちのことだ。どうも、私が五月末に紅緋さんと会ったことがどこかしらから漏れたらしく、私を案内した東子ちゃんにも探りを入れてくる同僚や、鬼たちが居たらしい。
千年の恋歌では、主要人物以外の鬼の存在は、モブだった。ルートによってはちょいちょい出張ってくる鬼も居たけれど、基本的に外野の存在。ルートでしか出てこないあたり、友人キャラポジションとは逆だけど、同じ匂いがする。とても親近感が沸きます。
でも、今、ここではちょーっと厄介な存在だ。
紅緋さんは、どういう理由か知らないけれど、私を基本放置してくれるらしい。ありがとうございます。むろん、この学園から逃げたらどうなるか分からないけど、逃げる予定はないので心配は……心配?はしなくてもいいだろう。
だが、しかし。
紅緋さん、神様なのだ。いや、神様じゃないけれど、濃い血を尊ぶ鬼たちにとって、紅緋さんは、――神同然なのだ。
神さまが、一般人を、家に呼ぶ。
それはまさしく、皆の興味を引くような特大の花火があがったようなことだった。けれど、まさか紅緋様のお口から、どういう御関係の方なのかと聞くなんて恐れ多い!
ならば、周りから調べてついでに、当事者のもう一人から聞けばいいんじゃない?……みたいな、ちょっと親しみのもてる遠回り戦法を選ばれてしまったらしいのである。
あれから三週間あまり。紅緋さんの呼び出しも、見知らぬ生徒から話しかけられることもなかった。たぶん大丈夫だろうけれど、お気をつけて――。東子ちゃんのメールには、そんな心遣いがあった。
無論、ゲームではこういったイベントはなかったけれど……五月末のイベントは、主人公の「今まで」が音を立てて崩れるイベントだ。
自分の思わぬ過去。
勾玉の秘密。
そして別の世界に踏み込んでしまったような、違和感。
攻略キャラが鬼だと知れるタイミングはそれぞれだけど、このあたりからちょいちょい意味ありげなイベントが増えていくのだ。
知らず知らずのうちに足を踏み入れていた、鬼と因縁の世界――。
「いってきます、楽しんでくるねっと」
当たり障りない返事を東子ちゃんに返す。心配事は多々あれど、私には頼もしい味方が居るのだ。よし、緊張もいい具合にほぐれてきたし、着替えて朝ごはんだ!
午前中は、桧皮さんから「なんだか風船のようですわよ?」と訝しげに言われたけれど、概ねつつがなく過ぎていった。
数少ない私服に着替え、お昼ご飯をしっかりと食べる。さくっと上がった野菜のかき揚げは、ごぼうのしゃきっとした触感、しいたけの柔らかさ、ニンジンの歯ごたえ、全てを包み込む衣――とっても美味しかった。
余裕を持ち一時間半前に、二人の守衛さんが警備をする門を出て、商店街へ向かう。クラスメイトたちにそれとなく話を聞いていたので、行き方はばっちりだ。
そして私は、商店街の奥にある木山駅に着いた――一時間二十分前に。
「さ、さすがに早すぎる……」
愛機ガラケーを持ち、駅前のベンチに座ってぷるぷると震える。気分はさながら、マナーモード中の携帯電話だ。
むろん、九割九分九厘の確率で予測できたことだった。でも残り一厘が許せなかった。もしも、商店街に行くまでの道のりで、産気づいた妊婦さんやぎっくり腰の御老人と出会ってしまったら?
もしも、いきなり学園から商店街への道が封鎖され、ぐるっと遠回りをさせられることになったら?
いろんなもしもを切り捨てられなくて、私は今ここに、明るい太陽の下、ベンチの上に居るのだ。
ふっ……と私は笑った。私は満足だ。だって、黎との約束に、絶対遅れずにすんだのだから――。
――ピロリン!
「ふをっ!?」
ガラケーがメール着信音を発しながら震える。あわてて口を閉じてから、そーっと開くと、なんというか案の定、黎からだった。
『From:黎
Title:Re:
今から出る。サヨ姉はまだ寮?』
黎もけっこう早くから出るんだ。ひょっとして卯月家ってここから遠いのかな? 入学式に家からお父さんに送ってもらったはずだが、どうもそこら辺の距離感が曖昧だ。電車もバスもあるのに、車で来る距離だってことは、遠方で間違いないんだろうけど。
助手席に乗ってるだけだったからね。それにしたってもうちょっと覚えておくべきだと思いますけども!
そういえば、私は入学式の時、どうして学校前の広場に居たんだろう? なんでお父さんと一緒に居なかったのかな? あれかな、新入学の生徒はこちらみたいな感じで、正門で下されて、そのままふらふら~としてたのかも知れない。うん、我ながらとってもあり得る気がする。でもそのお蔭で、菫くんとお友達になれたし結果オーライだ。
『To:黎
Title:黎へ
私はもうちょっとしたら出るよ~ε=┌( ・д・)┘
気を付けてきてね、駅のベンチに座っておくから』
ぽちっと送信ボタンを押す。
嘘をつくのは心苦しいが、黎に余計な気を揉ませるわけにはいかない。しかし、あと一時間もベンチで暇をつぶすのはちょっと厳しい気がする。商店街に、喫茶店があるって聞いたし入ってみようかなあ。
その時、電話の着信音が鳴り、私は反射的に通話ボタンを押していた。
「はい、もしもし」
『サヨ姉』
「あ、黎。どうしたの? 何かあった?」
『今どこ?』
「へ?」
これまた条件反射で、辺りを見回す。私が居る所は、どこからどう見たって駅前のベンチである。が、しかし。今の私は寮に居るのだ。
「ええと、りょ」
『電車の音がするんだけど』
どっと多量の汗が背中を流れた。いやいや! いーやいやいや! これはきっとただの冗談だ。焦っては駄目だぞ私。がんばれ、黎にゆっくりお昼ご飯を食べてきてもらうのだ!
「き、きの、きのせ……いじゃない?」
『ふーん……嘘つき』
その時、駅の改札を通って一人の少年が出てくる。ふわふわとした黒い癖っ毛に、猫みたいにじっと宙を見る黒い瞳。服の色もモノトーンかつシンプルなもので、まるで本当に黒猫みたいな少年は、……左手にスマートフォン。右手に、紙袋を持っていた。
黒の瞳が、最初に左を見て次に右を――私の方を見る。
『駅前のベンチに、サヨ姉が居るんだけど』
スマホと紙袋を持った美少年の口が、ぱくぱく動いて、私のガラケーがそう言った。




