十七話「記憶と「鬼」」
窓はなく、襖も閉められ、明かりも一切ついていない――暗い室内。
そこで彼は、虚空を見つめていた。
屋敷に帰ってきたのは、つい30分ほど前。
「あの子」と別れてから、まだ一時間も経っていない。だから、彼がそうして、なにもない場所を見つめていたのは、それほど長い時間ではなかった。
「ふふ」
彼は、ふいに小さく笑った。その笑い声は、室内の静かな空気を微かに揺らす。
――彼が笑うのは、珍しいことだった。いや、大抵彼は微笑んでいる。
「目下の者をおびえさせないように」。
「笑顔でも作らないと、話す気にならないから」。
けれど、笑い声を立てるのは珍しい。彼は、流れるような所作で立ち上がり、襖を開いた。
――物語を始めるために。
頭がぐるぐると混乱している。
さゆちゃんが泣いていた。見ているこっちの心もかきむしるような、そんな悲痛さを、訴えて。
これまで、何度も思った。ゲームと違うと。だけど……こんなに違うのは、初めてだ。
体育祭は、千年の恋歌では数ある学園イベントの一つにすぎない。
入学式、その後の校舎案内や、中間テスト、体育祭に文化祭。期末テスト……。
どれも、物語の根幹には関わらず、どんな攻略キャラを攻略中だろうと、発生する「共通イベント」だ。
それより、だ。それより、泣いてた。
さゆちゃんが泣いていた。
ゲーム中で、主人公が泣くルートは、エンドは、イベントは確かにある。だけど、こんな序盤じゃ……
「よーい」
ピストルを構えた先生が手を挙げる。
私はようやく我に返った。バトンを握り直し、自分の走る先を見据える。
どうなっているのか分からない。この世界がゲームから、大きく逸脱しているのか。
そもそも、ゲームと同じということが私の勘違いだったのか。
それとも、私が知らないイベントなだけか――その可能性は多分にある。発売から一か月半。既に攻略情報は出尽くしたはいえ、私が見ていないイベントはそこそこあった。どれも、序盤でその後に影響しないイベントだったから、また後でいっか、と流して早一か月である。
ああもう、もっとプレイしておけばよかった……! いや一月半前の私にはそんなこと分からないけどさ!
パン!とピストルが音を立てる。
大きく首を振る。ええい!考えてもよく分からない。今はとにかく――走る!
でもって、走り終わったら、さゆちゃんのとこ行く!
そう決めて、私は勢いよく走り出した。
四着で、次の選手にバトンを渡すと、私はその勢いのまま彼方へと走り去ろうとしてずっこけた。
「ぶふっ!?」
顔から地面に突っ込み、年頃の女子とは思えぬ奇声を上げる。
考えたくなかったけど……私、こっちに来てから、女子力低下してない?最近、蘇芳くんにも、珍獣を見るような目で見られるし。
よろよろと立ち上がろうとして、私は、それができないことに気がついた。
足が震えている。
おまけにそれだけじゃなかった。立てない。なんでかと考える間もなく、すぐに分かった。体力が尽きたのだ。最近、身体能力が上がったように感じていたが、なんのことはない。インドアなど、所詮この程度よ……!
というか、今までよくもったなーって感じだ。こんな根性、私にもあったのね。びっくりだ。
「卯月さん! ああもう、大丈夫?」
委員長がパタパタと駆け寄ってきてくれて、手を差し伸べてくれた。ああ、委員長。今の君が、神様に見えるよ。潤んだ目をごしごしと擦ってから、私は委員長の手を取って立ち上がった。うん。ちょっとは体力回復した気がする。
「大丈夫そうだね。ところで卯月さん、
君を捜している人が居るんだけど、行こっか」
「え」
委員長は、いい笑顔で私の手をあっさりと離すと、早く早くと背中を押す。
いやまって。ちょっとまって。飲み物くらいくださいと訴えると、通りがかったテントから、ペットボトルのお茶(未開封)を一本徴収してくれた。ありがとう、委員長。ごめんなさい、別クラスの誰かさん。けれどそんな感謝も、テント群を通り過ぎ、校門近くにくると吹き飛んだ。
「卯月サヨリさんを連れてきました」
委員長がそう言って私を差し出す。
彼らは、無表情で、上から下まで私を見た後、「間違いないな」と頷いた。その彼らの格好。黒づくめである。黒いスーツに黒いサングラス、全員黒髪オールバッグである。
「ま、待って。私ちょっと気になることが、それにぜんぜん知らない人ですし……」
「白鷺さんのことなら、蘇芳くんから連絡あったから心配しないでいいよ。
それにこの人たち、まったく怪しい人じゃないから」
思いっきり怪しいよね!?と私は、声を大にして叫びたかった。けれどそれはできなかった。私も命は惜しいのである。
「それでは、行きましょうか。卯月サヨリ。――我らの主が屋敷でお待ちです」
黒づくめの青年たちの一人が、口を開いてそう言った。
私は委員長に必死で視線を送る。
委員長は、私の視線なんてどこ吹く風だった。たとえ口に出しても、私に言うことはただ一つ。きっと「危険なことはないから」というだけだ。
「行きましょう」
さっき口を開いた青年が、もう一度口を開いた。
元より、この黒づくめたちを前にした、私に選択肢はない。
彼らは、主に仕える忠実な忍たち。私の意志など、路傍の石よりどうでもいいものだ。というか、関係ない。これ以上、渋ると多分実力行使になる。私は、頷いて彼らにドナドナされた。委員長は、見送ってくれただけでした。
そして車で五分。
学園からほど近い場所にある、広大な日本建築の屋敷。ほど近い、ではないか。学園が、この屋敷の一部なのだ。
「……」
ぐるぐると頭の中を疑問が回っている。
どうして、ここに私が来る。
主人公でもないただの脇キャラ、だいたいのルートでは、自然にフェードアウトしていく悲しきキャラが。
……そういえば、さゆちゃん大丈夫なのかな。もう泣きやんだのかな、って。ああああ、そっか、その可能性がある!
閃光のように閃いたそれに、私は歩きながら、ぱくぱくと口を開けた。
まさか、さゆちゃんは、「彼」に会ったのではないだろうか。そしてなにか、された?
黒づくめの青年のうちの一人に、屋敷内へと案内されながら、私は青ざめた。
おかしい。
「彼」と出会うのは、五月の末日だ。
それに初対面の「彼」は、主人公の味方として優しく接する。泣かせるようなことになんてならないはずだ。
だけど、そう考えるとつじつまが合う。合ってしまう。
そして、そうするだけの目的と理由が、「彼」にはある。
なぜなら彼こそが、最初のバッドエンドだけじゃない。
「千年の恋歌」のバッドエンドの大半を担う……物語上のラスボスに(仮)をつけさせてしまう、いわゆる真のラスボスなのだから!
そうして、今、私は真のラスボスの居城です。
主人公ではないけど、重要アイテム勾玉の欠片を持っています。
さっきと違った意味で青ざめた。
黒づくめの人が立ち止まる。辺りをぐるりと見回す。一本道。廊下。逃げ場はない。
「この奥で、主がお待ちです。ここからは、この者が案内します」
そう言って、黒づくめの青年が、一人の女性を手のひらで示した。赤い着物の女性だ。年の頃は、私と同じくらいか、少し上だろうか。
可愛いというより綺麗系。めがねが似合いそうな……ん? なんだかこの人、見たことある気がする。知っている気がする。まさかここに来て知り合い? 「卯月サヨリ」の……?
そう考えると、変な気分になってくる。
弟である黎といくら話しても、家族と何度メールしても、なにも思い出せなかったのに。
どうして彼女のなのだろう。どうして、今なのだろう。
嬉しいことのはずなのに、なんだかもやもやする。……って、そういう場合じゃないですから! いざというときは、欠片渡せばなんとかなる、かも知れないが、渡したら渡したで、私ごとき一般人、用無し、用済みで暗闇暗転エンドとかありえそうだ。
そもそも、「彼」に勾玉の欠片を渡したら、――主人公軟禁エンドと、変わらない。
私だと一生監視エンドか、事故に見せかけてエンドだろう。人間嫌いだし。その人間が大切な人の大切な……自分が見つつけられなかったものを持っているのだ。
ウン。人生お先真っ暗だ。
悶々とする私の一歩先を、女性は静々と歩いていく。
――まだ、「主」の居場所にはつかないようだ。色々と気になることはあるけれども、今この瞬間はチャンスではなかろうか。私は、彼女が気になる。ひょっとすると、「卯月サヨリ」の記憶喪失に関わるひと、なのかもしれない。
「あの。すみません」
「……」
「ちょっとお話――」
「ここです」
会話が成り立つ前に、着物の女性は一つの部屋の前で立ち止まった。紅色の花が描かれた襖の前だ。ゆっくりと唾を飲み込む。女性をチラ見するも、彼女は視線を伏せたまま、私を見守っている――ようにも、監視しているようにも見える。
ああもうあなた誰なの!とか、さゆちゃーんとか、迷っている時間も、もうないらしい。
私は、襖の取っ手へと手をかけた。
黎、お父さんお母さん、先立つ不幸をお許しください。じゃなくて、とりあえずこれだけは聞いておこう。
「あの……どこかで、会ったことありますか?」
振り返って、私は女性に尋ねた。彼女は、「いいえ」とはっきりと言った。そして、無駄口を叩いた私を責めるような視線で見てくる。
美人の視線は、胸にぐさっと来ますね。私は、空いた手を自分の胸元にそっと当てた。
勘違いじゃないと思うけど。もうほんとのほんとに時間が――ない。
私は、ゆっくりと取っ手を引いた。
暗い室内に、微かな光が射し込む。
黒い髪、赤い目。
柔らかな笑顔と、蘇芳くんより低い背。ふんわり癒し系美少年といった風情の、彼。
「……、」
黒髪、黒い瞳。
どこまでもありふれた容姿。特別な何かなど、持たない――彼女。
いつまで経っても分からない。いつまで経ってもこれだけは理解できない。
どうして、あの人がこの女を選んだのか。
「ようこそ、義姉上。
お久しぶりです――それとも、初めましてかな」
彼は、笑っていない瞳を隠すように、視線をほんの少し伏せて、微笑んだ。
彼女は、大きく目を見開いて、自分の顔を凝視した。
そして私は、「思い出した」。
卯月サヨリに、記憶なんてないことに。
……白鷺小百合が、「誰」なのかを。




