第58話:嵐の前の静けさ
決戦前夜。
学院の敷地全体を使った巨大リングの完成率は、九十九パーセントに達していた。
泥だらけになった生徒たちは地下講堂や空き教室で交代で休息を取り、学院は嵐の前の静けさを取り戻している。
冷たい風が吹き抜ける第4廃校舎の屋上。私とアリス、ボブ、リックの四人は、明日の本番に向けたオペレーション・グラビティ・ウェーブの最終工程を確認していた。
「なあレイ。リングがもうすぐ完成するなら、教団の奴らが攻め込んでくる前に、今夜のうちに撃っちまえばいいんじゃないのか?」
リックの至極真っ当な疑問に、私は首を振った。
「今は駄目だ。高次元バルクは常に重力嵐が吹き荒れている。今撃てば、僕たちの信号はノイズに呑まれて地球には届かない」
私の言葉を引き継ぐように、ボブが空を見上げて魔導書を開く。
「明日の朝、この世界の太陽と月が完全に一直線に並ぶ皆既日食、直列位相が起きる。天体同士の巨大な質量が直列することで、太陽と月の重力ベクトルが完全に同調し、時空に巨大な重力レンズが形成されるんだよ」
「その高次元バルクのノイズを突き破り、地球への指向性が極大化する特異点が訪れるのは、明日の朝のわずか数分間だけだ。そこを逃せば、次に地球への窓が開くのは数百年後になる」
「なるほどな。敵の総攻撃のど真ん中で、針の穴を通すような真似をしなきゃならねぇってわけだ……相変わらずの無茶ぶりだな」
リックが呆れたように笑う。
教団の総攻撃が始まれば、防衛ラインは長くは持たない。通信を完遂するための絶対条件は五つだ。
「まずはボブ。高次元バルクにおける地球の番地、メンブレーン座標を特定してくれ。さらに相対性理論による時間の遅れを算出するんだ」
「あちらの1秒はこちらの1.00004秒だね。レイ君、目標周波数は120.0048ヘルツになる!」
「了解だ。次に僕が超伝導ミスリルコイルに電流を注入し、磁場を30テスラまで上昇させる。ブラックホールの回転速度を加速させ、120.0048ヘルツで固定する。これで地球の受信機と位相が合う」
「でもレイ君、それだけじゃ重力波が全方位に散らばってしまうんじゃないかい?」
ボブの指摘に、私はアリスを見た。
「その通りだ。だからアリス、君の力が必要になる。不確定な未来の中から、地球に届いている未来を引き寄せてくれ。重力波をレーザー光線のように細く絞り、地球の座標へと狙い撃つんだ」
「……はいっ!真っ暗な宇宙の中に浮かぶ青い星を、必ず見つけ出します!」
アリスが力強く頷く。
「だが、アリスが確率を掴んでも、観測者がいなければその確率はまた霧散してしまう。だからアリス、最後は僕を見ろ。君の存在も、君が掴んだ結果も、僕がすべて観測してこの世界に固定してやる。確率はそこで百パーセントに収束する」
私が観測することで、次元を越えた通信路がカチリと固定される。
「日食によって時空のノイズが消え、すべてのパラメータが極限まで揃ったその瞬間に、僕が送信ボタンを叩く。水晶基板のデータを重力パルスへ変換し、一気にアップロードするんだ」
これが私たちの、オペレーション・グラビティ・ウェーブの集大成。
一つでも工程が欠ければ、あるいは途中で教団の攻撃によって誰かが倒れれば、実験は失敗に終わる。
極限まで追い込んでから、最後に一気にデータを流し込む。それが最も確実で、最も過酷な道だった。
打ち合わせを終え、リックとボブが仮眠に戻っていく。
屋上に残った私は、一人で夜空を見上げていた。その手には、奈落の底で拾い上げた一枚の黄金の円盤、ボイジャー1号のゴールデンレコードが握られている。
このレコードを見つめていると、かつて地球でボイジャーのニュースを見たときの、あの純粋な興奮を思い出す。損得勘定抜きで泥だらけになって協力してくれた生徒たちやガスト教官、そして仲間たちの姿が、あの頃の純粋な熱と重なって見えた。
「やっぱり地球が恋しいんですか?」
背後から声がして振り返ると、アリスが静かに立っていた。
彼女の視線が、私の手にある黄金の円盤に注がれている。私は円盤を白衣のポケットにしまい、夜空から彼女へと視線を移した。
「……いや、そんな気持ちは一切ないよ。僕は自ら望んで、自ら選択した結果この世界に来たんだ。ただ思い出していただけさ……この世界を、君たちを観測するのは本当に面白い」
私の言葉に、アリスが少しだけ目を丸くする。
「ガスト教官や生徒たち、そして君たちが今日見せてくれた熱気。損得勘定でも恐怖でもなく、ただ純粋な意地だけで不可能を可能にしていく力。情熱という科学的根拠に欠ける熱量も、悪くないものだと感じてね」
それは、徹頭徹尾の合理主義だった私自身の、確かな心境の変化だった。
アリスの瞳からポロリと大粒の涙が溢れ落ちる。彼女はそれを袖で乱暴に拭うと、満面の笑みを浮かべた。
「明日は私、最高のアンテナになってみせます!レイ様が、この世界をずっと観測していたくなるくらいに!」
「ああ。頼りにしているよ」
私たちが星空の下で誓いを交わしたその時、東の空が白み始めた。
夜明けの光が王都を照らし始める。ついに、神の奇跡と物理学が正面から激突する、最終決戦の朝が訪れたのだ。
(続く)











